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真澄の愛車は、デザイン事務所に向かって都心の道路を滑らかに進んでいる。
専任の運転手──南里信雄は、細身の中年の男性だ。真澄と同じとまではいかないが、パリッとしたスーツ姿で白手袋をしている。
「10月までは暑かったんですが、急に寒くなりましたね」
「……ああ」
「ここ最近、夏が居座ってるせいで、秋ってなくなりましたよね」
「……ああ」
「えっと……夕方過ぎなのに、渋滞してなくて良かったですね」
「……ああ」
車に乗った途端、真澄は急に無口になった。
後部座席に二人並んで座っているこの状態での沈黙は、かなり息苦しい。
喘ぐような息をしながら菜穂子は、当たり障りのない話題を振るが、全て空振りに終わっている。
ただでさえクライアントの社長と大財閥の御曹司というダブルパンチで、菜穂子は神経をすり減らしている。
それなのに、これ以上何かを求められるのは辛い、辛すぎる。
「あの事務所までもうすぐなんで、そろそろ本題に入りませんか?」
「そうだな」
痺れを切らした菜穂子が切り出せば、真澄はやっと乗ってきてくれた。
「では柊社長、改めてお伺いしますが、《《ただ》》の続きって何でしょうか?」
「その前に確認しておくが、今はプライベートということで、いいな?」
ガッツリ仕事中だったが、違うと言えない雰囲気なので菜穂子はコクリ頷く。
「俺は仕事に私情は挟まない。だがプライベートなら、話は別だ。さっきの話だが」
「私が彼氏の浮気現場を目撃しちゃったって話で合ってます?」
「ああ、そうだ。っていうかお前、浮気されて間もないのに良くサラッと口にできたな」
呆れ顔になる真澄に、菜穂子は半目になる。
「けっこう傷ついてますよ?私、あの人と結婚すると思ってましたし。でもまぁ、知らぬまま付き合っていた未来を想像するとゾッとするんで」
「良かったってことか?」
「まさか。悔いは残ってますよ。あの時、彼氏を追いかけて、浮気した経緯を洗いざらい喋らせて、それから二度と浮気ができないよう合法的な鉄槌を下せなかったんですから」
グッと握りこぶしを見せつけた菜穂子を見て、真澄は若干引いている。
「……たくましいな」
「そんな、そんな。照れますね」
褒めてないぞ、という真澄の視線が痛い。
「で、私が浮気されたことが、柊木社長と何の関係があるんですか?」
強引に話題を戻した菜穂子の顎を、真澄は「ある」と言いながら掬い取った。
「失恋ついでに、俺と結婚しないか?」
「え……?」
「ただし、一年だけ」
「ええ……!?」
イケメンに顎クイされてのプロポーズ。
このドラマティックな展開に頬を赤く染めつつ、目を丸くした菜穂子だが、次の言葉には耳を疑った。
「ご、ご冗談を……」
「いや、本気だ」
つまり真澄は、本気で菜穂子をバツイチにさせたいようだ。
「あなた、正気?」
「もちろん、正気だ」
真顔で答える真澄が、菜穂子の目には大財閥の御曹司ではなく、ただのクズに見えてしまった。
「耀太より先に鉄槌を下す相手が、クライアントの社長になるなんて……」
くぅぅぅっと葛藤する菜穂子に、真澄はそろっと距離を置く。
「待て、待ってくれ。暴力からは何も生まれない。話は最後まで聞いてくれっ、頼む!」
慌てて早口になる真澄は、本気で菜穂子に怯えている。
無理もない。菜穂子は、見た目だけは清楚で可憐な24歳だが、元半グレの父と、元ヤンの兄を持つ、やんちゃな家庭で育った荒ぶる血を受け継ぐ女性だ。
温室育ちの坊ちゃんからしたら、菜穂子の眼力だけで冷汗が出るのも仕方がない。
「失礼、ちょっと素がでちゃいました。おほほほ……」
「出させて悪かった」
素直に自分の非を認めるところは、育ちがいいからなのだろう。
その素直さに免じて、菜穂子は真澄に弁明の機会を与えることにする。
「わかりました。柊木社長のお話とやら、最後まで聞かせていただきます」
ニコッと微笑んだ菜穂子は、暗に「くだらない内容だったらぶっ飛ばす」と訴えている。
でも、一つだけ確認しておきたい。
「あの……今後の展開によっては、ノベルティの契約って……」
「だから俺は、仕事に私情を挟まない男だ!」
真澄に噛みつくように叫ばれた菜穂子は、ほっと胸を撫でおろす。
「では、どうぞお話しください」
笑顔で続きを促された真澄は、はぁぁぁーーーっと露骨に溜息を吐く。
無言で運転している南里が、チラッとバックミラーで様子を伺っているのが見えた。




