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真澄の片想い相手が、25歳年上の家政婦だったという衝撃の展開に驚いたまま週が明け、菜穂子はこれまで通りデザイン事務所に出勤した。
菜穂子が働く弱小デザイン事務所が、何度も倒産の危機に陥っても今日までなんとかやってこれたのは、どんな仕事でも断らなかったからだ。
今回、大口の取引ができるのはとて有難い。所長は涙を流し、ほかのスタッフたちも抱き合いながら喜びをかみしめた。
しかし現実問題として、細かい受注をこなしながら大口取引を進めるのは、時間的にかなり厳しい。人を雇うにしても、求人手続きや、面接やらで、すぐには補充できない。
そんな事情から、菜穂子も事務所のスタッフも地獄のような一週間を過ごした。新婚だという事実を忘れるほど忙しかった。
唯一救いだったのは、真澄と暮らし始めたマンションに帰宅する時間を遅くできたこと。
家政婦の智穂は、住み込みではなく通いだ。どこかの家事代行業者に属しているわけではなく、個人契約の彼女は、労働基準法を無視してほぼ毎日家事をこなしてくれている。
夫の片思い相手が合鍵を使って、毎日自宅に訪れる。そんな状況は、普通の感覚なら受け入れられないことだが、契約結婚をした菜穂子は特に気にしていない。
残業が続いている日々で、この無駄に広いマンションを清潔に保ち、食事の用意までするなんて、実家暮らしだった菜穂子には到底無理だ。
高級マンションをゴミ屋敷にしないでいてくれる智穂に、菜穂子は心から感謝をしている。
ただ……一つだけ困っていることがる。
それは、自分の立ち位置をつかめないことだ。
*
──週末。菜穂子と真澄が暮らすマンションのリビングには、生クリームとバターの甘い香りと、イチゴの甘酸っぱい香りが漂っている。
「うんうん、スポンジいいじに膨らんでますよ!」
オーブンを覗き込んでいた智穂が、振り返って菜穂子に笑顔で報告する。
泡だて器を手にしていた菜穂子は、「あ、それは、それは……」と曖昧に頷き、すぐにホイップクリーム作りを再開する。
──どうして、こんな状況になっちゃったんだろう……。
気まずい空気を蹴散らすように、菜穂子はカシャカシャと一心不乱に泡だて器を動かし続けた。
事の起こりは、昨日の金曜日のこと。
菜穂子が働くデザイン事務所は、どんなに忙しくても週末と祝日は絶対に休む方針だ。今回も、例外なく週末は休みになった。
どんなに疲れていても、明日が休みとなればテンションは上がる。
菜穂子は広いリビングのソファで、ビール片手に動画サブスクの映画を鑑賞していた。
適当に選んだSF映画はさほど面白くはないが、真澄の帰宅を待つにはちょうどいい。
時刻は0時過ぎ。菜穂子も残業が多いが、大財閥の御曹司である真澄はもっともっと忙しい。それでも毎日、このマンションに帰宅する。
「……別に、戻ってこなくていいのに」
真澄の存在が邪魔とか、そういう意味じゃない。片想い相手のところで過ごせばいいのにと思っているだけ。
智穂と知り合って、まだ一週間ぐらいしか経ってないが、彼女は悪い人じゃない。
初日こそ意味深な態度や、マウント発言をされたような気がするが、家事スキルは素晴らしいし、嫌がらせをするような幼稚な真似もしない。
残業が続く菜穂子のために、疲れに効くバスソルトを用意してくれたり、お肌にいい栄養ドリンクも自ら進んで用意してくれる。でも、そのことを主張したり、感謝の言葉を求めたりなんかしない。要は大人なのだ。
朗らかで、美人で、控えめで、53歳には見えない若々しい智穂を、真澄が好きになるのは当然だ。
真澄が菜穂子を結婚相手に選んだ理由は、智穂を引き留めるため。
残業続きで家事をする時間がない現状では、智穂の存在は不可欠なので、真澄の計画は成功したといっても過言ではない。
でも、それだけでいいのだろうか。引き留めただけで、満足できるものなのだろうか。好きな人と結ばれたいという願いは、恋をしていれば誰だって持つ欲望だ。
「……うーん。年の差が邪魔してるとか?」
智穂は独身だ。それはリサーチ済みなので、考えられるのはそれだけだ。
もしかしたら過去に柊木一族から強い反対を受けたのかもしれないが、人の戸籍を傷つけても傍に置きたいと願う真澄なら、押し切ってでも結婚しただろう。
「やっぱ、年の差だ」
悶々と考えた結果、菜穂子は一つの結論にたどり着く。と同時に、玄関からキーロックの解除音が聞こえた。




