6
「お疲れさまでした!お先に失礼しまーす」
18時きっかり。菜穂子は通勤カバンを手にして、デザイン事務所の自席から立ち上がる。
「うん、お疲れ。来週から忙しくなるから週末はゆっくり休んでね。あと、改めて契約本当にありがとう」
所長から感謝の言葉を受けたのは、今日で通算25回目だ。
さすがに貰い過ぎだ。でも絵にかいたようないい人である所長は、毎回心を込めて「ありがとう」を口にしてくれる。
所長は48歳、バツイチ、独身。振り返るほどハンサムではないが、すこしぽっちゃり体系で優しい性格だ。
そのせいで、奥さんの浮気を毎度許してしまい、最終的に「あなたの優しさが辛い!」と離婚を告げられてしまった。
『俺さ、何が正解だったのか未だにわかんないんだよね……』
ポツリと、窓に目を向けながら呟いた所長は、達観した表情を浮かべていた。
あの頃、まだ大学生だった菜穂子は気の利いた言葉を返すことが出来なかったけれど、来年の今頃なら、所長と語り合える予感がする。
ただ、真澄と結婚をしたことは、しばらくデザイン事務所には内緒にしておくつもりだ。
大口のクライアントの妻が事務所で働いている。そんな状況は、仕事がやりにくいだろうし、気を遣うだろう。
薄給だし、残業は多いが、この職場を大事にしたい菜穂子は、秘密を抱えたままデザイン事務所を後にした。
雑居ビルを出て少し歩いたら、小さくクラクションを鳴らされ、菜穂子は振り返る。
「あ……」
見覚えのある高級車に菜穂子が小さく声を上げたと同時に、後部座席の窓が開き、真澄が顔をのぞかせる。
「迎えに来た。乗ってくれ」
「それは、どうも」
ペコッと頭を下げて菜穂子は素早く車に乗り込む。暖房が効いてる車内は、とても快適だ。でも──
「わざわざ迎えに来なくても良かったのに」
今日から菜穂子は郊外の実家ではなく、真澄が用意した新居に住む。都心の一等地で、駅からも近い高級マンションだ。
事前に住所を教えてもらったし、合鍵も貰っているので、一人でそこに向かうことに不安はなかった。
──気を遣わなくっていいのに。
そんな気持ちで口にしたけれど、真澄は違う意味に捉えてしまったようだ。
「迷惑だったか?」
「まっさかぁー」
あまりに的外れなことを言われ、菜穂子はケラケラと笑う。
「寒かったし、電車にも揺られずに済んだから助かりましたよ」
「なら、可愛げないことを言うな」
「はぁーい」
ムスッとする真澄だが、なんだかソワソワとしている。
「……トイレ行きたいなら、停めてもらいましょうか?」
「馬鹿、違う」
気を遣ったのに、馬鹿と言われてしまった。腑に落ちない気持ちはあるが、更にソワソワする真澄の方がよっぽど気になる。
「あの……なんかありましたか?」
「これからある」
そうか、それは大変ですね。と他人事のように同情の眼差しを真澄に送った菜穂子だが、20分後、真澄よりもっとソワソワする状況になってしまった。
新居となるマンションの玄関を開ければ、既に室内は明るく、暖房で温められていた。
お金持ちって電気代気にしないんだと、驚いた菜穂子だが、パタパタ……とキッチンから中年の女性が姿を現わしてもっと驚いた。
「おかえりなさい、真澄さん。はじめまして、菜穂子さん。家政婦の中野智穂です」
長い髪を一つに束ねて、シンプルなパンツ姿の女性は、見たところ40代。使い込んだデニム時のエプロンから、家政婦歴が長いと菜穂子は推察する。
「こちらこそ、はじめまして。早……あ、いえ……菜穂子です」
旧姓を口にしかけて、真澄に睨まれてしまった。
そんな二人を、智穂は微笑ましい目で見つめている。でも、その瞳の奥では菜穂子を品定めしているかのように鋭い。
同性のそういう視線が何なのか、菜穂子は気づいてしまった。
「まぁ君がソワソワしていた理由、私、わかった」
断言した菜穂子に、真澄は「どんな理由だ?」とは問い詰めなかった。




