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車に乗り込んだ菜穂子は、シートに深く身体を埋める。
「……なんか、思ってたのと違ってた……」
「既に結婚届は提出済みなんだから反対されても困るだけだろ?」
「それはそうなんですけど……」
なんか喜べない、と渋面になる菜穂子に、隣に座る真澄は呆れ顔になる。
「なんだ?俺が君の父親に一発殴られるのを期待してたか?」
頬杖を付いてクスリと笑った真澄は、からかっているだけなのかもしれない。
でも菜穂子は、ムッとしてしまう。誰がイケメンの殴られる姿を見たいというのか。
「そんなこと期待するわけないじゃないですか!柊木社長、私のことどんな風に──」
「真澄だ」
「え……?」
「これからもずっと俺のことを柊木社長と呼ぶ気か?」
「……駄目ですか?」
「駄目に決まってる」
秒で却下され、菜穂子は「えー……」と、困り顔になる。
「なんか名前で呼ぶより、柊木社長って呼ぶ方がしっくりくるんですけどぉ……」
「なら君も社長にしてやろうか?そうすれば君も、そう呼ばれることがおかしいことに気づくはずだ」
「なっ……!」
サラリと言った真澄の規格外の提案に、菜穂子は思わず身を引く。
「じゃあ!先に私のこと名前で呼んでくださいよ。柊木社長だって、私のこと”君”とか”お前”って呼んでるじゃないですかっ」
子供みたいな言い分だが、ごもっともな指摘に真澄は「うっ」と声をつまらせる。
「ほらっ、言えないじゃないですかぁー」
昨日から、なんだかんだいって真澄のペースに吞まれていた菜穂子は、必要以上に、にんまりと笑ってしまう。
「結婚したならこうしなきゃいけないとか、こうするべきとか……色々ありますけど、そもそも私たちって、まともな結婚じゃないんですよ?だから別に、無理して型にはめようとしなくたっていいと思うんですよね。そう思いません?」
菜穂子なりにまともな意見を口にしたつもりだったが、真澄は頷かない。
「もしかして柊木社長……名前で呼んで欲しいんですか?」
「そういうこと、はっきり口にするか?」
拗ね顔になった真澄は、大財閥の御曹司感は消えて、ただの青年みたいだ。なんだか散歩をお預けされた大型犬みたいで可愛い。
「もぉー、しょうがないですね。真澄さん。それとも、まぁ君のほうがいいですか?」
「っ……!」
クスクス笑いながら菜穂子がそう言った途端、真澄は小さく息を吞んだ。
「あ、ごめんなさい。ちょっと調子こき過ぎでしたね。やっぱ名前は……っ!」
両手を胸の前で振って発言を取り消そうとした菜穂子の手を、真澄はギュッと強く掴んだ。
「いい」
「え?」
「今ので、いい」
吐息が触れるほど真澄に顔を近づけられ、菜穂子は不覚にもドキッとしてしまう。
「……いいん、ですか?」
「ああ」
「じゃあ……まぁ、君」
「なんだい?菜穂ちゃん」
菜穂ちゃんなんて呼ばれるの、小学生ぶりだ。スチール缶を片手で握り潰せる今の菜穂子には、ちょっと可愛すぎる。
でも、嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして笑う真澄を見て、菜穂子はすんなり受け入れた。
「まぁ君、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。菜穂ちゃん」
契約結婚なのに、一年後には離婚するのに。
甘酸っぱい雰囲気に飲まれて、菜穂子はモジモジしてしまう。
でも、この数時間後──菜穂子は真澄の25歳年上の清楚で美人な片想い相手と対面することになる。




