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ハロウィンも終わって冬の気配を感じ始めた11月の半ば。終業時間前のオフィス街は、忙しなく人々が行き交っている。
そんな中、クライアントとの打ち合わせに向かっていた早波菜穂子は、人の流れに逆らい、眼前の光景を呆然と見つめていた。
路地の一本奥に入ったファッションホテルから出てきたのは、洒落たチャコールグレーのスーツ姿の男と、仕事できます感満載のベージュのパンツスーツに身を包んだショートカットの女。
二人は情事の余韻を残すかのように、互いに手を腰に回し、唇が触れ合いそうな距離で会話をしている。
菜穂子の距離からではどんな会話をしているのかわからないが、甘い雰囲気は道路を挟んだこちらにまでしっかり伝わってくる。
「耀太さん……嘘……でしょ……?」
あのチャコールグレーのスーツも、男の横顔も、菜穂子が見間違うことはない。
耀太こと五十嵐耀太は32歳。24歳になったばかりの菜穂子の恋人だ。
知人の紹介で付き合い始めて3年。新鮮さは穏やかさに変わり、ちょっとしたことで口喧嘩をする日々が続いて、何となく倦怠期かな?と思っていた。
でもまた優しい耀太に戻ってくれて、これはもしかしたらプロポーズが近いかも?と浮かれていた自分が馬鹿だった。
耀太は浮気をしていた。その罪悪感から、優しくしてくれていただけだったのだ。
「アイツ……信じられない!」
ワナワナと菜穂子が怒りで震えた途端、胸のところで抱えていた書類がグシャッと潰れる感触がした。
菜穂子は、弱小デザイン事務所で働いている。これまで倒産しなかったのが奇跡だというくらい、毎月綱渡りの経営状況だ。
そんな零細デザイン事務所が、人気アプリゲームのノベルティの依頼を受けた。従業員一同の一生分の運を使い果たしたと言っても過言ではない。
今日は、その大事な打ち合わせ。絶対に、遅刻は許されない。
だが菜穂子の頭は、恋人の浮気現場を取り押さえることでいっぱいだ。
「言い逃れなんて、絶対にさせないから」
ふんすっと鼻息を荒くして、菜穂子はガードレールに片手をついて飛び越えると、反対車線に向かおうとする。
しかし道路に飛び出そうとした瞬間、腕を強く掴まれた。
「打ち合わせをほっぽり出して、どこに行く気だ?」
淡々と、感情を乗せぬ声でそう言ったのは、耀太より若い男だった。
首をひねって見上げたその顔は、息を吞むほどハンサムだった。何を食べたら、こんなにイケメンになるのだろう。
「聞いてるのか?沢田デザイン事務所の早波菜穂子さん」
「っ……!」
社名とフルネームを告げられ、怒りマックスだった菜穂子は冷静さを取り戻す。
「あ、えっと……H&Mデジタルの方で……すよね?いつもお世話になっております」
今更遅いとわかりつつ、菜穂子は営業用の笑みを男に向けた。
「ご丁寧に、どうも。H&Mデジタルの社長、柊木真澄だ」
菜穂子の腕を掴んだまま自己紹介をした男は、大切なクライアントの社長だった。
それだけでも驚きだが、彼の名前はド庶民の菜穂子でも知っている。超、有名人だ。
日本屈指の大財閥の御曹司──柊木真澄。
メディアに露出することはほぼないが、それでも日常生活で彼の名を耳にする機会はたびたびある。でも……
「H&Mデジタルの社長さんって、磯崎様じゃ──」
「事情があって今日、交代した」
「はぁ……」
社長って、そんなフランクに交代できるのかな?と疑問に思ったが、菜穂子はその質問を吞みこんだ。
「で、打ち合わせはどうするんだ?」
焦れたような真澄の口調に、菜穂子はチラッと耀太の姿を追う。
彼はもう、人ごみに紛れてどこかに行ってしまった。
皺が寄った社封筒が、菜穂子に課せられた使命を思い出させる。
「とんだ醜態を晒してしまい、申し訳ないです。あの……今からでも、打ち合わせをさせていただくことは」
「もちろん、可能だ」
食い気味に答えた真澄は、ここでようやく菜穂子の腕を離した。




