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涙が、こぼれそうだった。
「――広崎舞美」
名前を呼ばれて、私は「はい」と返事をして立ちあがる。その声は自分でも驚くほどからからにかすれていて、けれどその頼りない声に笑う人は誰もいなかった。
昨日の予行演習を思い浮かべながら、私は背筋を正して、ゆっくりとした足どりで壇上へとのぼる。階段で足元を確認しようとうつむくと、熱くなった目頭の潤みが増して視界が歪んだ。
「卒業、おめでとう」
柔和な笑みを浮かべる校長先生から卒業証書を受け取って、深く一礼をする。これが私の、高校生活最後のイベント。むかえてみると案外、あっけないものだった。
自分の席に戻る途中、次の生徒の名前を呼ぶ担任の声が聞こえる。私たちがはじめて担任を受け持ったクラスだっただけあって、感動もひとしおなのかもしれない。彼の声は涙まじりにふるえていた。
その声につられたのか、鼻をすする音があちこちから聞こえてくる。隣の席の子は肩を小刻みに揺らしながらハンカチで目をおさえていた。男子の列からは嗚咽まで聞こえてくる。こんなに泣いているのは私たちのクラスぐらいだった。
鼻の奥がつんとして、私はもらい泣きしそうになるのを懸命にこらえる。涙を吸ったまつげが重くて、閉じたまぶたを再び開けることがなかなかできなかった。
泣いちゃだめ。そう、自分に言い聞かせる。
まだ、涙を流してはいけない。
今日、この恋は終わるから。
そのときに、涙を流すと決めたんだから。
○
片想いの始まりは入学式だった。
学校のある日は毎日顔を合わせていた。
さらに部活も一緒だった。
彼に対する想いは日に日に増していったけれど、私は決して、その想いを伝えることはしなかった。
自分の中で気持ちが自然とおさまっていくのを待っていた。
けれど、どんなにあきらめようと思ってもあきらめることができなかった。
だから私は、この最後の日に、三年間の片想いにピリオドを打つことにしたのだった。
「舞美、式の最中泣いた?」
「私は泣かなかったよ」
滞りなく式が終わり、教室に戻った私たちに待っていたのは、最後のHRだった。
頬杖をつきながらぼんやりと教壇を眺めていた私に、隣の席の野宮修が話しかけてくる。彼とはなんのご縁なのか、入学初日に隣の席だったことをはじめとして、なにかと高校生活を一緒に過ごした仲だった。
「おれ、なんか知らないけどテツローに名前呼ばれたらすっごい泣きそうになってさ。我慢して卒業証書もらったけど、戻るなりもう、むせび泣き」
あの嗚咽の主は彼だったらしい。
「みんなけっこう泣いてたよね……」
教室をぐるりと見渡してみると、みんなまだ、目に赤みが残っている。マスカラの落ちを気にした女子たちは早々とメイクを直していたからわかりづらいけど、鼻の頭の赤さは塗っただけではすべて隠せない。数多い三学年の生徒の中でも、私たちのクラスは抜きん出て涙を流す人が多かったようだ。
「テツローに泣かれたら、そりゃおれらも泣くしかなくなるよな」
とうの担任、小関哲郎は、最後のHRでみんなに良い話をしようとしているのに、ちゃちゃをいれられたりなんだりで結局うまく話すことができなくなっている。まだ年も若く、私たちの兄貴分のような存在だったテツローは、誰とでも分け隔てなく接する姿がみんなからとても好かれていた。
「……ほら、また泣いてるし」
「ほんと、テツローって涙もろいよね」
入学したときにはまだ新婚ほやほやだったテツローだけど、今ではもう立派に一児の父親だ。けれど情に厚くて涙もろいところはいつまでも変わらなくて、教壇で涙をぬぐう姿にはなぜか私たちと同じにおいがした。
「そういえばさ、修。部活の送別会の話ちゃんと覚えてる?」
「テツローの話聞かなくていいのかよ」
話しかけてきたのは修のほうからだというのに。私はもらい泣きしそうになっている彼の顔を見て思わず笑ってしまった。