033 嵐襲来
その事件から数週間は、ただ平和な日々が続いていた。
公爵はラナの誘拐未遂事件の件で忙しいらしく、特に私たちに構ってくるなどということもなかった。
しかし嵐というものは、突如として訪れる。
来客予定などないはずの公爵家に、一台の馬車がやって来たのだ。
私とルカはいつものように中庭で虫の観察を行っていた。
「あの馬車は、どこの家のものかしら」
公爵家の馬車よりはやや小ぶりだが、それでも貴族らしく家門が入った白塗りの馬車だった。
初めて見る馬車ね。
というか、この屋敷にはほとんど他の家の方が来ることもないし。
公爵自身が人嫌いというか、社交性がほぼ皆無なのよね。
「あの家門は……」
私たちにお茶の用意をしていたアーユが、馬車を見るなり顔色を変えた。
「アーユ、あれはどこの家の馬車なのか知っているの?」
「それは……」
アーユは手を止め、こちらを向く。
基本的にこの人は喜怒哀楽を表には出さないが、それでも分かる。
明らかにあの馬車を嫌っているということが。
アーユがここまで毛嫌いする家門って、どこなのかしら。
中庭の木々たちの影から、私は馬車をのぞき込んだ。
しばらくすると、御者がその扉を開け、中から女性が二人下りてくる。
「……ああ」
私は思わず、そんな言葉を吐いてしまっていた。
アーユが毛嫌いした意味が分かったわ。
降りてきた一人は、私もよく知っている。
公爵によって元の雇用先に戻された、あの乳母だった。
そして彼女のあとに降りてきた女性。
ゆるかやな金色のウエーブのロングヘアに青い瞳。
大きく胸が強調されたグレーのマーメイドドレスには、膝上までスリットが入っている。
よく似ているわ、本当に。
私は思わずその女性と、目の前にいるルカを見比べていた。
あれがルカの母親……ノベリアなのね。
私も名前くらいしか知らないけど、ルカにとっても私にとっても、彼女は敵でしないことくらい分かっている。
だけど、今更、ここに何の用があるというの。
「はぁ」
ノベリアたちが公爵家に入って行ったのを確認すると、思わずため息をついた。
「どーしたでしゅ?」
「ううん。何でもないわ、ルカ。なんかお客様が急に来てしまったみたいなの」
「そうなんでしゅね」
幸いにも、ルカは虫のスケッチに集中していたおかげで、彼女たちを見てはいない。
それだけは、まだ救いね。
だけど何かあるといけないから、極力離さなきゃ。
「ルカ、アーユと一緒にお部屋に戻れるかな?」
「もちろんでしゅ」
にこやかに返事をするルカ。
ルカがノベリアに気付かなくてよかったわ。
冗談じゃない、急に押し掛けてくるなんて。
ルカが母親を思い出して泣いたらどうしてくれるのよ。
ムカムカと湧き上がる感情を押さえつつ、ルカに気付かれないようにアーユに指示を出す。
「今日はいつもの部屋ではないところで、ルカに絵本を読んであげて欲しいの」
「かしこまりました、奥様」
私が言いたいことを理解したのか、アーユは深く頭を下げたあと、ルカの手を引き玄関とは真逆の方から屋敷に戻って行った。
乳母も連れて来ている以上、ノベリアが部屋に押し掛ける可能性もゼロじゃない。
ようやく少し自分の好きや嫌いを主張をしてくれるようになったルカに悪影響でも出たら困るわ。
絶対に二人を引き合わせないようにしないと。
私はルカたちの背中を見送ると、玄関から屋敷へと一人戻った。




