第7話 私の好きなもの
だが、エドガーの予想に反して、クローディアはきっぱりと首を振った。
「ごめんなさい」
クローディアはかがみ込んで、その幼い子供と目を合わせる。
「これは、私のものなの」
申し訳なく思いながら、けれど真っ直ぐにその子供を見つめながら、クローディアは口にした。
「私も、これが欲しいの。だから、ごめんなさい」
かつての自分だったら、迷いなく渡していただろう、という確信が、クローディアにはある。
高価なものとはいえ、貴族には端金だ。侯爵家にいた頃のクローディアなら、いただくわ、で終わらせた程度のもの。
この子供に悪意がないのは明白で、心底この髪飾りが気に入っているのだと思う。
クローディアの言葉に、火がついたように泣き出した子供を見て、クローディアは眉を下げる。
それでも、渡したくなかった。
これが、エドガーに贈られたこの髪飾りが、好きだった。欲しかった。だから、この子供には申し訳ないけれど、渡すことは絶対に嫌だった。
「ごめんなさい」
「クローディア」
とん、とクローディアの肩にエドガーの手が乗せられる。
「無理はしなくて良い」
「いえ」
今度はエドガーを見上げて、クローディアは真っ直ぐに断言した。
「これが、私の好きなものです」
「……そうか」
エドガーの微笑みに、クローディアも微笑み返す。
ずっと右に偏っていたエドガーの微笑みも、少しだけ慣れたものに変わりつつあった。
◇
「奥様! それは旦那様からですか!」
「……ええ」
屋敷に帰ったクローディアの頭に飾られた見慣れぬ髪飾りに、侍女たちが歓声をあげる。
「良くお似合いです!」
「ありがとう」
手際良くクローディアの服を脱がせ、着替えさせながら、侍女たちが楽しそうに話し続ける。
「私も、何かお返しがしたいのだけれど」
近くにいた侍女にクローディアが問えば、彼女はあらあら、という微笑みを浮かべた。
「旦那様、喜ばれると思いますよ」
「何が良いか、分からなくて」
「奥様の選ばれたものなら、どんなものでも喜ばれます」
「そうかしら」
「はい」
断言してみせた侍女に、クローディアは視線を彷徨わせた後に目を伏せる。
そうは言っても、普段エドガーがどういったものを好んで使っているか、クローディアは知らなかった。そう言えば、彼女は楽しげな、けれど少しばかり含みのある笑みを浮かべる。
「そうでしたら、旦那様に甘えられたらいかがでしょう」
「……甘える?」
「はい。奥様はいつも凛としていらして美しいですが、殿方というのはたまに見せる甘えにも心惹かれるものです」
「甘え」
「はい。私は夫を落とすのに活用いたしました」
ふふ、と笑ってみせた侍女を、クローディアは頼もしく見つめる。
―― 私は、こうして貴女を甘やかしたい。
思い出したのは、そんな言葉。
こくりと喉を鳴らして、小さく手を握りしめたクローディアに気が付かず、クローディアの髪を梳いていた侍女が思い出したように言った。
「奥様。明日は私、お側を離れさせていただきたく存じます」
「エイダ様がいらっしゃるから、よね」
「はい」
エイダ・オールディス。
エドガーの一つ下の妹にして、クローディアと入れ替わるように伯爵家に嫁いだ女性だ。
そんな彼女が帰ってくるということで、屋敷は少しばかり浮き足立っていた。
「分かったわ」
そう答えながらも、クローディアは少しだけ目を伏せる。
歓迎されるかは分からない。王太子の元婚約者である政略結婚相手なのだから。
けれどそんなクローディアの不安は、すぐに杞憂であることが明らかになった。
「お義姉さま!」
エドガーと同じ、艶やかな青みがかった黒髪。
豊かなその髪を勢いよく靡かせ、ついて来たはずの侍女を全て置き去りにして、弾けるように屋敷に飛び込んできたエイダは、クローディアの姿を認めるや大声で叫んだ。その声の大きさに、クローディアはびくりと身を引き、エドガーは顔を顰める。
「エイダ。煩い」
「もう、お兄さまったら相変わらずつれないわね。そんなのどうでも良いのよ、ねえお義姉さま!」
使用人たちの間をすり抜け、勢いよくクローディアの元へと向かってきたエイダに、クローディアは内心の驚きを隠しながら微笑む。
嫌われてはいないだろう、と小さく安堵するも、それを表情に出すことはしない。
「初めまして、エイダ様。クローディアと申します」
「そんなにかしこまらないでください! 私たち、家族ですから! ああ本当に、噂で聞いていた通り綺麗な方……」
うっとりと呟いたエイダは、ぐいとクローディアに身を寄せる。その首筋のあたりを掴むようにして、エドガーがクローディアから遠ざけた。
呆れたような声が、その唇から漏れる。
「エイダ、やめてくれ。クローディアが怯える」
「いえ。お気になさらないでください」
「そんな! すみません、お義姉さま」
小さく謝って、屈託のない笑顔を浮かべたエイダに、クローディアもつられて微笑んだ。それをじっと見ていたエイダが、エドガーの脇をつつく。
「お兄さまったら、こんなに可愛い奥様もらっちゃって」
「……エイダ、いい加減にしろ」
「けど、噂に聞いてたよりずっと可愛らしい方じゃない? もっと高貴で近寄り難い方かと思ってたわ」
エドガーが、ぐしゃりとエイダの髪をかき回す。口を尖らせて文句を言うエイダ。
勢いよく言葉を交わすエドガーとエイダの姿を見て、クローディアは唇を持ち上げた。そして、辞する意を伝えようと口を開きかける。
兄妹同士久しぶりの再会だろう、余所者はいない方が良い。そう思っての行動だったが、それに気がついたエイダがクローディアの手を握りしめた。
「私、お義姉さまとお話がしたいので! お時間大丈夫ですか!」
「え、ええもちろん」
「ありがとうございます!」
心底楽しそうに笑ったエイダは、お兄さまは邪魔しないでよ、と一言叫ぶなり、クローディアの手を引いて歩き始めた。
「すみません、お義姉さま。急に」
「いえ。嬉しいです」
クローディアが返せば、エイダはうっとりと目を細める。
「本当に、全女性の理想みたいな方ですね……お義姉さまが嫁いできてくださって、嬉しいです」
「そんな、大袈裟です。けれど、ありがとうございます」
最初はぎこちない足取りのクローディアだったが、エイダの裏表のない笑顔に、その緊張も和らぎ。
エイダに手を引かれて入ったのは、エイダのために用意されていた来客用の部屋だ。もともとのエイダの部屋は、今はクローディアが使っている。
そのことをクローディアが謝れば、エイダは驚いたように目を見開いた。そのまま、両手を頬に添えて呟く。
「いえ、私の部屋をお義姉さまが使ってくださっているなんて……これ以上ない幸せです」
言葉に詰まったクローディアに、エイダが座るように促す。
ゆっくりと腰を下ろしたクローディアの隣に、エイダが腰掛ける。そこからは、取り止めのない話が始まった。それは、突然オールディス伯爵家に嫁ぐことになったクローディアを気遣うような話が多く、クローディアの過去に触れる様子もない。
その優しい言葉たちに、クローディアはふとエドガーを思い出した。
しばらくして、思いついた、というように、エイダが指を一本立てた。そして、悪戯っぽく笑うと、クローディアの耳元で囁く。
「それで、お兄さまとはどうなんです?」