第5話 新しい自分
何でもない、と言おうとした瞬間に、エドガーの手が、クローディアの頭に乗せられた。そのまま、優しくエドガーの手が頭を撫でる。
「一度と言わず、何度でも。ああだが、困ったな」
ふ、とエドガーが笑う気配がした。
「これでは、私まで甘やかされてしまう」
言葉に詰まったクローディアを気に留めることなく、エドガーは滑らかな髪に指を沿わせる。ふう、と息を漏らして、クローディアはわずかに目を細めた。
「ありがとうございます」
「私こそ、ありがとう」
ゆっくりと、エドガーの手が離れた。これで良いか、と尋ねるエドガーに、クローディアは微笑んで頷く。
「好きなもの、やりたいことを、見つけてほしい。そしてそれを、私に教えてほしい。良いか?」
「はい。ありがとうございます」
今度こそ、クローディアは強く頷いた。
◇
そして、約束の日がやってきた。
早朝、侍女たちが遠慮がちに、けれど有無を言わせずクローディアを起こす。眠気でぼんやりとしているクローディアとは対照的に、侍女たちの目は燃えていた。
「奥様、こちらへ」
身を清められ、すぐに着付けが始まる。
クローディアに着せられたのは、飾り気こそないが品の良いデイドレスだった。
ふんわりと膨らんだスカートに、ひらひらと布の重なる袖。首周りにだけ控えめに施された刺繍は、ほっそりとした首を際立たせるもの。
「旦那様からの贈り物です」
「贈り物?」
「はい。奥様に、と。自ら選ばれたようですよ」
クローディアがオールディス伯爵家に嫁いできてからしばらく経ち、すっかり顔馴染みになった侍女が楽しげな笑みを溢す。最初は侯爵令嬢であるクローディアに対し遠慮や緊張が見られたが、それも、エドガーとクローディアの関係が和らいでいくにつれ、解けて消えていった。
クローディアと入れ替わりのように他家に嫁いだ、エドガーの妹付きの侍女だった彼女は、そのままクローディアに仕えている。この屋敷はもちろん、エドガーのことまでも熟知している彼女は、クローディアにとって素晴らしい味方だった。
「奥様の美しさに悶絶させてみせます」
何やら張り切っているらしい彼女を、クローディアは目を見開き、少しだけ首を傾けて見つめていた。
オルブライト侯爵家では、侍女は空気だった。もちろん長年クローディアについている侍女こそいたものの、彼女たちは黙々とその職務を果たすばかりで、クローディアと私的な会話を交わそうとする者はいなかった。前妻の娘というクローディアの立場を思えば当然のことであり、そこにクローディアが不満を抱いたことなどなかったのだが。
真剣な、真剣すぎるくらいの顔で、クローディアの身につける宝石を選んでいる彼女たちを見て、クローディアの口元がゆるりと綻ぶ。
まるで自分のことのように、クローディアのことを考える彼女たちは、クローディアの心を温かくした。
そうして。
かなりの時間をかけて着飾ったクローディアの姿を、彼女たちがうっとりと見つめる。
「可愛らしいです奥様……」
「もともと可憐な方ですから、こちらの方が似合うと思っていました……」
ほお、とひとつ息をつき、達成感に笑顔で手を握りあう侍女たちを尻目に、クローディアは部屋の隅に立てかけられた姿見の前に立つ。
その姿を一目見るや、クローディアは大きく目を見開いた。
そこに映るのは、見慣れたものとは程遠い姿のクローディアだった。
身体に纏われるのは、柔らかい紫色。ふんわりとした印象を与えるそれは、クローディアによく似合っていた。
王宮では、波打つように、華やかに結い上げられていた髪は、一部だけをやや無造作に結い上げ、残りは下ろす形へ。下ろしている髪は、クローディアの細い毛が波打つままに任せている。跳ねているように見えないかしら、とクローディアが問いかけた瞬間、一瞬の間もなく侍女たちが返す。
「それが良いのです! 自然体というのは、素晴らしく殿方の心をくすぐる言葉ですわ」
「そう、かしら」
「奥様の仰る通り、夜会などには相応しくありませんが、これは旦那様との私的なお出かけです。奥様が一番お美しくなる髪型が、一番です」
「そう。ありがとう。……エドガー様はお気に召すかしら」
そうクローディアが呟いた瞬間、あらあら、といった風情で侍女たちがお互いをつつき合う。満面の笑みで、彼女たちは断言した。
「保証いたします」
その言葉に背中を押され、クローディアはゆっくりとエントランスに向かった。
エドガーとの約束の時間にはまだ少し早いが、エドガーを待たせるわけにはいかない。だが、クローディアがその広間に足を踏み入れた瞬間、その目はエドガーの姿を捉えた。
「クローディ――」
近づく足音に、ゆるりと振り返ってクローディアの姿を認めたエドガーの言葉が、不自然に途切れた。
目を見開いて凝視され、クローディアは思わずふわりとしたスカートの裾を摘む。
「何か変、でしたか」
「まさか」
一瞬で否定したエドガーが、ゆっくりとクローディアに歩み寄る。まるで眩しいものを見るかのように、その目がすっと細められた。
「美しい。と言うのが、礼儀なのかもしれないが」
すっと、エドガーが手を差し出す。クローディアが遠慮がちに手を乗せると、エドガーは照れたように頬を染め、微笑んだ。
「可愛らしい」