第3話 変わっていく関係
「……あ」
ありがとうございます。
そう言おうとしたはずが、クローディアの口から声は出ない。意味もなく口を開閉させるクローディアの姿を見たエドガーが、ただならぬ様子を察したのか、ゆっくりとクローディアの元へ近づいた。
鼻をつく甘ったるいような香りに、クローディアの心の弱い部分が刺激される。鮮やかな赤から、目が離せなかった。突き刺さるような強い色彩に、小さく唇が開かれる。
身の内に湧き上がる感情に、クローディアは目を見開いた。その瞬きが、勢いを増した。
赤い薔薇を目にした時の感情は、悲しみであると思っていた。かつての恋人が、クローディアを見なくなってしまったことへの胸が張り裂けるような切なさであると、そう思っていた。
だが。今、胸の内にある感情は、少しだけ違う。
悲しみの上にあるのは、怒り、だった。クローディアの、今までの人生を縛り、そして最後に全てを無に返した男への、苛立ちのようなものだった。
「……どうして」
かつてのクローディアは、ジュリアンに怒りを向けられることを、何よりも嫌っていた。
クローディアを大切に思っている人は皆、今回の婚約の解消に関してジュリアンを責めた。それを、クローディアは自らの痛みのようにすら感じていた。最愛の人が貶される姿を、黙って見ているのは辛かった。
けれど、今、クローディア自身が、ジュリアンに怒りを向けていた。
その瞬間、クローディアは、胸の中に巣食っていた自らの恋心が、少しずつ薄れつつあることを悟った。
「……何か、してしまったか」
恐る恐るというように問いかけたエドガーが、ゆっくりとクローディアの視線を追う。それが、己が抱える薔薇の花に辿り着いた瞬間、その目が大きく見開かれた。
「すまない。無神経だった」
振り絞るような声色で言うなり、早足で部屋の外に出ようとする。
気がつけば、クローディアはその服の袖を掴んでいた。
引っ張られる感触に驚いたのか、エドガーがぴたりと足を止めて振り返る。
その藍の瞳と、クローディアの紫色の瞳が絡み合った。
「ありがとう、ございます」
今度こそ、きちんとお礼を言えたことにクローディアは息を吐く。
この薔薇は、間違いなく南方の温かい場所から運ばれてきたものだ。厳しい寒さの覆うこの土地では、この時期に決して簡単に得られるものではない。
エドガーが、クローディアが薔薇を好きだという話を聞いて、用意したものであることは、容易に想像がついた。
「すまない」
しかし、エドガーの表情が晴れる様子はない。強く首を振ったエドガーが、袖を掴むクローディアの手を離そうと、そっとその細い手に触れた。その瞬間、ぴくりとクローディアの手が跳ねる。
初めて触れた夫の手は、驚くほどに温かかった。ジュリアンとは異なり、決して滑らかとはいえない指先だったけれど、クローディアにとってそれは不快ではなかった。むしろ、心地良いとすら呼べるものだった。
「ありがとうございます」
「気を遣わないでほしいと、前も言ったはずだ。あまりにも無神経だった」
「わたくしのためを、思ってくださったのでしょう」
「贈った方の感情など不要だ。贈られた相手が、どう思うかだろう。すまない」
一層強くエドガーの袖を握りしめたクローディアを咎めるように、エドガーが呟く。
その表情を見ていられなくて、クローディアは思わず口にしていた。
「エドガー様、話を聞いていただけませんか」
「……話?」
「はい」
揺れていた心が、定まるのが分かった。
座ってほしい、とクローディアが小さく袖を引けば、戸惑った様子ながらも、エドガーはクローディアの隣に腰掛ける。その手から、小さな花束を奪い取った。
予想していなかったらしいエドガーは、あっさりとそれを手放す。香り高い花束にそっと頬を寄せて、クローディアは言葉を紡ぐ。
「わたくしは、いえ私は、昔、赤い薔薇が好きでした」
赤い薔薇、と口にした瞬間に歪んだエドガーの表情を目にしたクローディアは、つっかえながらも慌てて言葉を続ける。
「けれど、すぐに苦しめられるものに変わりました。ですが、今、少しだけ、好きになりました」
クローディアは、はるか上にあるエドガーの顔を見上げる。初めて会った時には、その巨躯に恐怖すら覚えたけれど、今はもう違う。
「嬉しいです。ありがとうございます」
「ああ」
その言葉に表情を緩めたエドガーに、クローディアの頬も緩む。
「……上手く言葉にできるか、分からないのですが」
「ああ」
「私が政略結婚を望んでいたことは、ご存知だと思います。それは、その、愛、というものが、怖かったからなのだと思います」
己の感情を口にすることが、クローディアは苦手だった。ほとんど経験がなかった、と言っても良い。けれど、クローディアはもう、決めたのだ。
幾度も止まり、必死に言葉を探すクローディアを、エドガーは根気強く待っていた。それに勇気づけられながら、クローディアはゆっくりと感情を吐き出していく。
「愛されなくても構いませんでした。むしろ、愛されたくありませんでした。愛して、また裏切られるのが怖かったからです。……すみません、過去形で語りましたが」
今も、その気持ちは変わっていません。
小さく呟いたクローディアの言葉に、エドガーは落ち着いた様子で頷いた。
「それでも、私は、エドガー様に、本当に大切にしていただいています」
「そう思ってもらえているなら、私も嬉しい」
「はい。心の底から、そう思っています」
壊れ物のように大切に持った花束に、クローディアは視線を落とした。
「愛、というのは、まだ怖いのですが」
その艶やかな色彩は、二度と見たくないと心の底から思ったものであったはずなのに、今はクローディアに力を与えてくれる。
「私も、エドガー様を、幸せにしたいです」
ゆっくりと視線を上げていく。
最初は、強く握られた大きな両手。強張った腕を伝って、ごくりと鳴らされた喉を辿って、大きく見開かれたその目を真っ直ぐに見つめる。
「身勝手ですみません。都合が良いのは分かっています。夫婦になって、愛したくはないけれど、大切にしたいだなんて、苛立たれるかもしれません。それでも」
裏切られるのかもしれない。また、苦しめられるのかもしれない。けれど、クローディアは、信じてみたかった。その優しさに、応えたかった。
希望を口にするのは、苦手だ。最後の勇気を振り絞って、告げた。
「私に、エドガー様を大切にする権利をいただけませんか」
エドガーの反応が怖くて、クローディアはもう一度顔を伏せた。しばし沈黙があって、クローディア、と呼び掛けられた声に、恐る恐る顔を上げる。