第2話 思いがけない優しさ
「政略結婚とはいえ、私は、貴女に幸せになってほしいと思っている」
「……」
一瞬、クローディアは言葉に詰まった。確かに、冷え切った、愛のない政略結婚を望んだはずだった。
そこにアレクサンダーの思惑を感じ取り、微かな不満を抱く。決して表に出すわけにはいかないが、クローディアは苛立っていた。余計な気遣いとしか思えなかった。
クローディアの無言を正しく読み解いたらしいエドガーは、少し慌てたように言葉を紡ぐ。
「だが、貴女に妻としての何かを求めるつもりはない」
「……どういう、ことでしょう」
「貴女が政略結婚を望んだことは、陛下から聞いている。到底愛や恋などという気持ちになれはしないことも、若い男相手に心を許す気にはなれないことも、承知しているつもりだ」
「……申し訳ございません」
「どうして謝る。貴女は被害者だろう」
少しだけ語気を荒らげたエドガーに、きゅ、と縮んだ心臓を悟られぬよう、クローディアは小さく深呼吸を繰り返す。それでも、長年磨き上げた微笑みは貼り付けたままだ。
「貴女に、私を愛してくれとも、大切にしろというつもりもない。政略結婚で構わない。だが、私に、貴女を大切にする権利を、貴女の幸せを願う権利をくれないか。ただの、貴女の境遇に心から同情してしまった男の身勝手だ。すまない」
クローディアは強く首を振る。
少しの会話でも、エドガーが誠実な人であることが分かる。夫として、申し分ないどころか身に余るほどの人物だろう。
それを理解しているからこそ、クローディアは、いつまでもジュリアンに囚われたままの心が憎かった。未練がましく、赤い薔薇に不規則に跳ね上がる自らの心を、潰してしまいたかった。
誠実に、これ以上ないほどに真剣にクローディアに向き合ってくれるエドガーに、同じ誠意を持って応えられない己が歯痒かった。
「ありがとうございます」
「良い、のか」
小さく頷いたクローディアの姿を見て、エドガーから身体の力が抜けた。同時に、エドガーを覆っていた近寄り難い雰囲気が、少し和らぐ。
クローディアを見下ろして、エドガーは微かに微笑んだ。少しだけ右に偏った、明らかに慣れていない様子の微笑みに、クローディアは数度目を瞬かせる。
「ここだ」
ひとつの扉の前で、エドガーが立ち止まった。
「貴女の部屋だ。私が相手だと落ち着かないだろうから、詳しい説明は侍女に聞いてほしい」
「ありがとうございます。しかし、落ち着かないなどということは」
「話を遮ってすまないが」
おもむろに身体の向きを変え、クローディアと向き合う形になったエドガーの、深い藍の瞳が、真っ直ぐにクローディアを射抜く。
「気を遣う必要はない」
「いえ、そんなこ」
「必要は、ない」
有無を言わせぬ口調で断言したエドガーから、怒りのような気配を感じたクローディアは、耐えきれずびくりと身体を揺らした。それを目にしたエドガーは一瞬怯んだように足を引くも、もう一度クローディアを見つめて迷わず言葉を続ける。
「私が相手の時は、気を遣う必要はない。分かったか?」
「……はい。お気遣いありがとうございます」
クローディアの返答を耳にした瞬間、エドガーの眉が顰められる。
クローディアには、分からなかった。エドガーが自分に一体何を求めているのか、何をすればエドガーが満足するのか、何ひとつ、分かってはいなかった。
小さく溜め息をついたエドガーが、背筋を伸ばして踵を返す。
「今日は、ゆっくり休め」
「はい。ありがとうございます」
「……ああ」
ゆっくりと遠ざかっていくその後ろ姿を、クローディアは呆然と見つめていた。
冷え切った関係になると予想していた。利益だけで繋がるつもりだった。
思いがけず寄せられた優しさに、どう接するべきか、クローディアには分からなかった。
◇
そうして、エドガーとの生活が始まった。
忙しいだろうに、クローディアがエドガーと顔を合わせない日はない。夕食は共に摂るし、寝室こそ違えど寝る前の挨拶は交わしていた。
初日に普段の食事の時間を聞かれ、答えたところ、その通りの時間に食事ができたと知らせが来る。侍女の噂話で、今までのこの邸宅での夕食の時間は、クローディアの伝えた時間よりも1時間以上後であったことを知った。
けれどエドガーは、まるでそうするのが当然かのように、クローディアの座る食卓に現れるのだ。
お互いに会話はあまりない。ぽつぽつと、その日にあったことを話す程度で、話が弾んでいるとは言い難かった。けれどその時間は、初めての時ほど、クローディアにとって嫌なものではなかった。
運ばれてくる料理は、王宮で食べていたものと比べてしまえば劣るもののはずなのに、ずっと、美味しく感じた。エドガーが口にするなりぽろりと美味しいな、と漏らした料理を釣られるように口にしてみれば、思わず頬が緩む。
大切にされている、と感じる。
結局、今までエドガーはクローディアのことを抱いていない。
クローディアが、他の男性を、ジュリアンを今でも想っていることが理由であるのは、容易に想像がついた。
後継ぎを残すという、最も妻に求められることを後回しにしてまでも、エドガーはクローディアの気持ちを優先する。
向けられた優しさへの戸惑いに、叩き込まれた作法がうっかり零れて落ちてしまっても、エドガーは決して咎めない。むしろ、その頬を緩ませて、少しだけ右に偏った微笑みを浮かべすらする。
王宮で、ジュリアンの婚約者として相応しいようにと、必死で入れていた力が、抜けていくようで。
それだけではない。
初日に宣言した通り、エドガーはクローディアに何も求めなかった。これだけ気遣われながら、一向にその優しさに応えられず、顔を強張らせるばかりのクローディアに対し、嫌な顔一つしなかった。そんな時にエドガーが浮かべるのは、心配だ、というのがありありと透けて見える表情だった。
与えるばかりで、何も得られない。そんな関係に文句一つ言うことなく、クローディアを大切に、大切にするばかりで。
「今、良いか」
扉の外から声をかけられ、クローディアは慌てて返事をする。入ってきたエドガーの姿を認めて、少しだけクローディアの心が温かくなった。
大切にされている、という自覚は、確かにクローディアの心を和らげていた。
愛されたくない。
その気持ちは、今でも確かにクローディアの心の中にある。
愛して、また裏切られるのが怖い。未練がましく縋りつく心を抱えるような、惨めな真似はもううんざりだ。それなら、初めから期待しない方がずっと、ずっと楽だ。
けれど、迷う気持ちがあった。
ジュリアンのことを思い出す日が、前より減っている。日課のように眺めていたジュリアンからの手紙を捨てたあとでも、さほど苦しまずにいられる。
その理由は、考えるまでもない。
だからこそ、クローディアは思ってしまったのだ。
その気持ちに、応えたい、と。大切にしてもらっているからこそ、たとえジュリアンに向ける感情とは違っても、エドガーを大切にしたい、と。
そう思っているのに、幾度もそう伝えようと思うのに、最後の最後で口が動かない。恐怖で身体が竦むのだ。訝しそうにクローディアを見下ろすエドガーになんでもない、と首を振って、そうか、と少しだけ唇を噛んだ後に浮かべられた微笑みを見て、胸が締め付けられたことが何度あったか。
また、裏切られるかもしれない。いつかエドガーも、クローディアのことを大切に思わなくなる日がくるかもしれない。そう思うと、クローディアの口はぴくりとも動かなくなってしまう。
そんな時、クローディアは、エドガーと己を繋ぐ冷たい政略の鎖を握りしめて、ほっと息を吐くのだ。
「入っても良いか」
「はい」
遠慮がちにかけられた声に、クローディアの唇が弧を描く。けれど、その微かな微笑みは、部屋に入ってきたエドガーの姿を見て凍りついた。
「これを、貴女に――」
その表情を見たエドガーの言葉が、不自然に途切れる。
その腕に抱えられているのは、小さな赤い薔薇の花束だった。