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第1話 未練と、始まりと

 愛なんてものは、世界で一番役に立たない、信用ならないものだ。


 クローディアは、小さく溜め息をついた。


 かたかたと不規則に揺れる馬車にしっかりと背筋を伸ばして腰掛けてこそいるが、他にクローディアの姿を見る者はいない。

 たとえ見る人がなくとも、常に気を抜いてはならないというのが、クローディアに全てを教えたとある未亡人の口癖だった。


 身体の底まで染み渡るような、寒い冬の日だった。

 あの日望んだ通り、クローディアはこれから、愛のない政略結婚をする。

 その名に恥じぬ通り、クローディアは夫となるオールディス伯爵の姿を見たことがない。社交シーズンであれば、一度顔合わせでも、となったかもしれないが、あいにくとクローディアの住んでいた領地の屋敷(カントリー・ハウス)とオールディス伯爵領は酷く離れていた。


 もともと互いの相性など一切考慮されることなく、政略で決められた結婚だ。嫁ぎ先を失い困窮した、しかし家に居場所のないクローディアを、莫大な持参金と引き換えにオールディス伯爵が引き取ったというだけの話。

 オールディス伯爵領は、数年に渡り酷い飢饉に見舞われ、その財産のほとんどを失いかけているという。クローディアがその身とともにもたらす莫大な富は、喉から手が出るほどに求めるものであるはずだった。


 クローディアとその夫は、冷たい、けれど何よりも確かな絆で結ばれている。そう思うとき、クローディアの呼吸は少しだけ緩やかになる。ふっと肩の力を抜くことができる。

 

 愛されなくていい。むしろ愛されたくない。

 どうせ手に入らないのなら、いつか壊れるものならば、最初から必要ない。

 そんなものに縋りたくはない。脆くて信用ならないものに、居場所を求めるつもりはもうない。

 

 ひっそりと伏せられた目線。その手の中にあるのは、ひとつの小さな額縁だった。

 眩しいほどに鮮やかな、赤い薔薇の花弁が数枚押し花にされ、慎重に飾られている。その中心にあるのは、流麗な筆跡で紡がれた一枚の手紙。


 ――クローディア。君を愛している。


 ゆるりとその文字をなぞったクローディアは、ふう、と細い息を吐き出した。


 その不確かで世界一役に立たない愛なんてものに、未だに縛られている己が、クローディアには厭わしくて仕方がなかった。

 

 例えば、夜眠る前。もしくは、少し時間が空いて、ふと気を抜いた時。

 思い出さずには、いられないのだ。

 

 初恋だった。


 クローディアの母はまだ幼い頃に故人となり、子供がクローディアのみであったオルブライト侯爵は、すぐに新たな妻を迎えた。

 その妻はすぐに、待望の男児を産んだ。


 虐げられていたわけではない。むしろ、次期王妃として最高の教育を受け、何不自由なく育ってきた。

 けれどクローディアにとって、オルブライト侯爵家は、決して居心地の良い場所ではなかった。どこか、クローディアだけが除け者だった。入ることが許されない空気が、そこにはあった。


 そんなクローディアの孤独を埋めるように、ふっとクローディアの心の中に入ってきたのが、ジュリアンだったのだ。


 初めて愛を囁かれた。何よりも大切だと言ってもらえた。


 それは幼いクローディアにとって、何にも代え難い幸せだった。忘れられない喜びであった。

 だからこそ、厳しい王妃教育にも耐えられた。自らの不出来を思い知らされ、1人冷え切った寝台の上で涙したことも一度や二度ではない。

 けれど、それが将来ジュリアンの隣に並び立つためであると思えば、クローディアは涙を拭って立ち上がれた。そのためだけに、クローディアは今まで生きてきた。


 だが。それももう、過去の話になった。

 

「……いついかなる時も、気を抜いてはいけない、わね」


 新たに妻となったクローディアは、いつまでも過去の恋情に引きずられているわけにはいかないのだ。他の男性を想い続けるなど、許されたことではない。たとえそれが、クローディアの心の中だけだろうと。

 ひとつ覚悟を決めたクローディアは、馬車の窓を開けた。


 途端に流れ込んできた冷え切った空気に、クローディアは身を震わせる。オールディス伯爵領は、クローディアが生まれ育った土地からも、王都からも、遥かに北にあった。


 大切に、包み込むように握りしめていたそれを、ゆっくりと持ち上げた。


 通り過ぎていく枯れた木々を、クローディアはしばし見つめていた。

 細い枝が折れて積み重なり、びゅう、とひどい風が吹けばからからと音を立てて飛ばされていく。

 ぼんやりと見つめていた一際大きな枝が、遠く灰色の空に消えた時、クローディアの唇から鮮血が散った。


 冷え切った空気を切り裂き、飛んでいくそれから目を逸らす。何か固いものに当たったのか、がしゃん、と耳障りな断末魔が響いた。


 クローディアの事情を知るオールディス伯爵家の御者は、何も見なかったことにして、一度馬を強く打った。馬車の速度が、少しだけ上がる。

 

 ぱき、ぱきと馬車の車輪の下で砕け散る枝の音を、顎を伝う生暖かい感触と共に感じていた。


 何もかもが嫌だった。

 最後にクローディアを裏切り、他の女性の肩を抱いた男も、その男を今でも未練がましく想っているクローディア自身も。忘れたいのに、忘れられないその感情も。


 愛したくない。愛されなくていい。むしろ愛されたくない。


 震えを抑え込むように、ぐ、と握りしめた手の先は、真っ白に染まっていた。

 決して涙だけは流すまいと、クローディアは強く唇を噛み締めた。


 そのまま、時間だけが過ぎて行き。どれだけ馬車に揺られていたのか、クローディアにはもう分からなくなっていた。何を見るとでもなく、一切の感情を宿さぬ視線を外に向け続けていたクローディアの目は、やがて遠くに霞む街の影を捉えた。


 ゆっくりと街を進んだ馬車が、中央にある立派な屋敷へと近づいた。その門の近くで、人影が動く。

 夜の闇のように艶のある、やや青みがかった黒髪。その堂々たる体躯に、クローディアは少しだけ目を見張った。


 きき、と小さな音を立てて馬車が止まり、その扉が開く。差し出された手を、クローディアは微かな驚きを持って見下ろした。わざわざ、クローディアを迎えに家を出たらしい。


「オルブライト侯爵令嬢。挨拶が遅れて申し訳ない、エドガー・オールディスだ」

「ありがとうございます、オールディス卿。クローディア・オルブライトと申します。宜しければ、クローディアとお呼びください」

「ああ。私のことも、エドガー、と」


 少なくとも悪い人ではなさそうだと、クローディアは密かに胸を撫で下ろした。しっかりとクローディアを支える大きな手にエスコートされ、馬車を降りる。

 促されるまま、クローディアは屋敷に向かって歩き出した。会話はない。寡黙な人のようだった。王宮で初めて出会った日から、困ってしまうくらいにクローディアに話しかけていたジュリアンとは大きく異なる姿に、クローディアは距離感を計りかねていた。


 小さく息を吸って吐いて、そっと唇を舐めた末に、クローディアは口を開く。


「エドガー様」


 少しだけ眉を上げたエドガーが、クローディアを見下ろす。その身長差は大きく、首を無理にあげるような体勢になっているクローディアを認めたエドガーは、その長身を少しだけ屈めた。

 無言で続きを促され、クローディアは長年の間に培った微笑みを浮かべる。


「これから、どうぞよろしくお願いいたします」

「ああ。よろしく頼む」


 再び戻ってきた沈黙に、クローディアは気取られないように細心の注意を払いながらも、沈む気持ちを抑えきれなかった。

 会話が途切れることのないように、相手が居心地の悪さを感じることのないように。そう教えられてきたクローディアにとって、この沈黙はひどく落ち着かない気分にさせられるものであったが、エドガーに沈黙を気にする様子はない。むしろ、話しかけられることを厭う雰囲気すらあった。


 それきり何も言えなくなってしまったクローディアに、少しだけ困ったように眉を下げ、今度はエドガーが話しかける。


「すまない。口下手で」

「いえ」


 慌てて否定したクローディアだったが、エドガーは苦笑するばかりだ。

 

「気を遣わなくて良い。自覚している。だが」


 ゆっくりと、クローディアはエドガーの屋敷に足を踏み入れた。

 けれどその壮麗な姿を楽しむ余裕はなく、クローディアはただエドガーの言葉を待つ。


「政略結婚とはいえ、私は、貴女に幸せになってほしいと思っている」

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