第16話 蕩けるような幸せに
「クローディア」
優しく名前を呼ぶ声と共に、クローディアを溶かす温かい口付けが降る。それを少しだけ顔を傾けて受けて、幸せに少しだけ微笑んで見せることも、もう慣れた。
「エドガー様、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
最愛の夫を玄関で出迎えたクローディアは、ほんのりと頬を染めた。そんな妻の顔を見て、厳しい表情を一瞬で取り去り、甘い微笑みを浮かべるエドガーの姿も、もうこの屋敷では見慣れたもの。
長年オールディス家に勤める使用人たちは、最初は見慣れぬ主人の姿に顔を引き攣らせていたものの、今では生温かい視線を向けている。
それらを一切気にすることなくクローディアを両手で抱き上げたエドガーは、大股で自室へ向かった。
「あ、あのエドガー様」
「なんだ?」
「自分で、歩けますので……」
耳まで真っ赤に染め上げてそんなことを言うクローディアの姿が可愛らしく、次も同じことをしようとエドガーは心に決めるのだが、それをクローディアに教えることはない。
「この方が早い」
一言で切り捨てたエドガーに、抵抗するだけ無駄だとクローディアは諦めた。
想いを伝えて以来、人が変わったかのようにエドガーはクローディアを溺愛するようになった。今までの触れ合いが、とても抑制されたものだったことを知った。
毎日優しく甘やかされ、愛を囁かれ、いつか自分は幸せと恥ずかしさで溶けて消えてしまうのではないか、というのが最近のクローディアの悩みであった。
すぐにエドガーの部屋の前に到着し、着替えてくるから少しだけ待ってほしい、という声と共に部屋の外に取り残される。けれどそれも言葉通り一瞬で、エドガーは笑顔でクローディアを部屋に迎え入れた。
おいで、というように手招きされ、クローディアはそろそろと近づく。その遅すぎる歩みに焦れたのか、エドガーが大股で距離を詰めるとクローディアを抱きしめた。
クローディアより遥かに身長が高く、体格も良いエドガーに抱きしめられると、まるで大きな何かに覆われているような気分になる。けれどそれは気持ちの悪い閉塞感ではなくて、むしろ、守られているような、包み込まれているような、途方もない安心感を感じさせるものだった。
「ん、エドガー様」
クローディアが甘えるように名前を呼べば、察したエドガーがひとつ頷いてクローディアの髪に口付けを落とす。
くすぐったそうに身を縮めたクローディアに、エドガーはそっとその首筋に顔を埋めた。真っ白な首筋は、いつだって香り高くエドガーを誘う。更なるくすぐったさにか、小さく笑い声を立て始めたクローディアをからかうように、エドガーは首筋に数度口付けた。
夢のような時間だ、とクローディアは思う。
こうしてエドガーに甘やかされるようになってから気がついたことだが、クローディアは甘えたがりで、寂しがり屋だ。自分でも知らなかった一面に戸惑うクローディアの、その寂しさの穴を埋めるように、エドガーはクローディアを甘やかす。
『私の前でくらい、素直に甘えてほしい』
そんなエドガーの言葉に甘えて、クローディアは背を逸らせて口付けを強請った。エドガーと目があって、愛おしさにふにゃりと笑えば、すぐに望んだ温かさが与えられる。
ちょん、ちょんと悪戯に触れるだけの口付けに、クローディアはうっとりと目を細めた。熱情に焦がれた、何もかもを奪い尽くすような深いものも好きだけれど、子供同士のような、たわいもない触れ合いも、クローディアは大好きだった。
「エドガー様、もっと」
最近ようやく素直に甘えるようになった妻の凶悪なおねだりに、エドガーは眉を寄せた。触れるだけの口付けをクローディアが好むことを熟知しているから抑えているものの、そうでなければとっくに顔を押さえつけて強引に奪っている。それでも、時折危うくなるくらいには、クローディアは無自覚で凶悪だった。
エドガーからの口付けに、とろりとその双眸を蕩けさせたクローディアの姿に、氷のような美しい笑顔で全てを拒絶していたころの面影はない。想いを通じ合わせてからも、最初のうちは信頼しきれないところがあったのだろう、他人のような遠慮や静かな線引きがあった。けれどそれも、大切に甘やかし、エドガーがクローディア以外を見ることが決してないことを植え付けるうち、少しずつ解けていった。
「クローディア、愛している」
エドガーに抱きしめられて、ふわふわとした心地のまま、クローディアは微笑む。そのまま抱き上げられて寝台に運ばれるのを、幸せと共にぼうっと感じていた。
そのまま、まるで壊れ物を扱うような手つきで優しく寝台に下ろされて、クローディアはエドガーを見上げた。クローディアの頬にかかる数本の毛を優しく払ったエドガーの、真っ直ぐにクローディアだけを見つめる藍色の瞳を見返して、ふふ、と微笑む。
「私も、愛してます」
ああ、と短く答えたエドガーは、クローディアの首筋に顔を埋めた。こうなった夫が止まらないことを知っているクローディアは、されるがままになりながら、時折首筋に走る刺激にあえかな吐息を溢す。
骨の髄まで溶かされていくような温かい幸せの中で、クローディアは今日もエドガーだけを想う。




