第15話 愛したくて、愛されたい
クローディアの、したいこと。
ずっと答えが出せぬままで、答えを出すことが何よりも苦手なはずの問いだった。けれど、今は違う。エドガーが、教えてくれた。
「私は、エドガー様の妻でいたいです」
甘えること。希望を口に出すこと。人に頼むこと。
それらが決して悪ではないと、むしろしてほしいのだと、温かく包んでくれたこの人を。
「愛したくて、愛されたいです」
「……怖くは、ないのか」
「全く怖くない、とは言えません。それでも、殿下とお会いして、過去を、ようやく過去にできた気がしています。それに、エドガー様なら」
ゆっくりと、クローディアは両手を伸ばした。馬車の座席に投げ出されたままの、その大きくて硬く、温かい手に、初めて自分から触れた。
「エドガー様なら、私を捨てたりはしません、よね……?」
重なった手がくるりと裏返され、クローディアの手を強く握った。
「当然だ」
「はい。そうだと、思えるようになりました」
「信じてくれるのか」
「……はい」
少し迷って、けれどクローディアは言い切った。
大切な、心から信じ切っていた人に裏切られる恐怖は、ずっと胸の中に巣食っていて、すぐには消えてくれそうにない。けれど、そんな気持ちも、エドガーに大切にされる日々の中で、ゆっくりと、溶けて消えていっていることを、クローディアは確かに感じていた。
「っクローディア」
唸るように、掠れた声でエドガーがクローディアの名を呼ぶ。抱きしめても良いか、と囁かれて、クローディアははっきりと頷いた。お願いします、と囁き返せば、大きな身体にすっぽりと包み込まれる。
温かくて、幸せで。
たとえ恐怖があったとしても、これは何にも代え難いクローディアの幸せだ。
愛し、愛されること。
そのことを、クローディアはようやく思い出した。
「エドガー様」
「何だ」
両手をおずおずとその広い背中に回せば、クローディアを抱きしめる腕に力が篭る。
「きちんと、言えなかったのですが」
小さく息を吸って、真っ赤になる頬を自覚しながら、クローディアは精一杯囁いた。
「愛しています」
「……」
一向に答えが返ってこないことが不安になって、クローディアは腕を緩めると、エドガーの顔を覗き込もうとする。けれど、痛いほどの力が込められたエドガーの腕が、それを許さない。
「すまない。安心、して」
「安心、ですか」
「ああ。私の気持ちからクローディアを騙して手に入れて、クローディアの幸せを奪ったのではないか、と。私が幸せにする、などとひどく傲慢な理屈だったのではないかと、思っていた」
「騙すなんて、そんな」
「事実だ。愛し愛される結婚を望まなかったクローディアに、そうと承知しながら求婚して、自分勝手に愛した。感情のままにクローディアへの想いを口にしたことが、後ろめたかった。それがクローディアにどんな感情をもたらすか、分かっていたはずなのに。どんな顔をして、クローディアに会えば良いか、分からなくなっていた」
クローディアの肩口に顔を埋めるようにして、縋るように、エドガーはクローディアを抱きしめた。
「私を嫌っては、いないか」
それはきっと、初めての、エドガーからの甘えだ。
クローディアの気持ちを聞いた直後だというのにその言葉を求めるのは、きっと、エドガーの安心のため。けれど、ずっとクローディアを気遣うばかりで、その本心をずっと見せようとしなかったエドガーが、初めてクローディアに求めたことだったから。
ほんのりと心が温かくなり、知らず知らずのうちに微笑みが唇に乗る。
「嫌うわけ、ありません」
「……ありがとう」
「そして私、幸せです」
少し強くエドガーの肩を押せば、その腕の力が緩んだ。するりと抜け出したクローディアは、真っ直ぐにエドガーの顔を見つめて、口にする。
「エドガー様に、幸せにしてもらいました」
そう言った瞬間に、くしゃりと歪んだエドガーの表情を、クローディアはじっと見つめていた。
エドガーも、苦しかったのだろうと思う。愛というものの面倒臭さは、ままならなさは、散々クローディアも味わい、理解していた。
だからこそ、クローディアを愛しながら、愛されたくないと言うクローディアを側に置く苦しみは、想像できるとは言えないけれど、その一欠片くらいは分かる気がした。だから。
「エドガー様、私を愛してくださいますか」
「ああ」
「愛し、愛される結婚がしたいです」
「もちろんだ。……クローディア、愛している」
「私も、愛しています」
夢のようだ、というエドガーの呟きに、クローディアは少しだけ微笑む。夢だったら困ります、と悪戯っぽく返せば、私も困る、と真顔で答えが返ってきた。
大切に、大切にされているのが分かるから。クローディアの頬は、いつまでも緩んだままだ。
「一つ、聞いて良いか」
「はい」
「殿下とは、どんな話を」
意表を突かれ、クローディアは目を瞬かせる。その反応を誤解したのか、慌てたように嫌だったら良い、と付け足すエドガーに、首を振って答えた。
「少し、昔の話を。殿下が愛してくださった私は、昔の私だったようなのです。昔のような無邪気で天真爛漫な姿を求めて、他の無邪気な令嬢を選んだ、と」
「……取った手段は心の底から気に食わないが」
クローディア、と囁く声。
「どうか、自由に振る舞ってほしい。美しい女性の姿が求められる場面はあるが、私の前でくらい楽でいてほしいし、気を遣わないでほしい。その方が嬉しい」
「はい」
「そういうクローディアは、息が止まるほどに可愛い。クローディアの言葉を借りるなら、我儘を言っても良いか」
「……っは、はい」
熱くなった頬を冷ますように勢いよく頷いたクローディアの頬を、エドガーの手が絡め取った。
「私以外の男と、軽率に2人きりにならないでほしい。殿下……昔のクローディアの恋人であれば、尚更。私だけを見ていてほしい。私が、クローディアの全てになりたい」
「っ2人きりでは……それに、私の気持ちはもう殿下からは離れています」
「分かっている。だが、分かってくれ。余裕がないんだ」
熱っぽく囁くその声に、優しく、けれど情熱を孕んだ手つきでクローディアの頬を撫でる骨張った指先。
「近寄りがたさが消えたクローディアを、自然に笑うようになったクローディアを、そういう目で見ている男の多さを、頼むから自覚してほしい」
「私が自然に笑うようになったのだとしたら、それはエドガー様のお陰です」
「……そういう言葉も、他の男に向けないでくれ」
「当たり前です。私にはエドガー様だけですから」
はあ、と深い溜め息をついて、エドガーががっくりと肩を落とした。クローディア、と名前を呼ぶ声に混じる疲れたような、困ったような響きに、クローディアは首を傾げた。困らせるようなことを言ったつもりは、なかった。
「本当に、すごいな」
ぼそりと零すと、その真意を問いただす間もなく、エドガーの腕が再びクローディアを絡め取った。
「私は、重い男だ」
「そうでしょうか」
「分かっていても、嫉妬と独占欲でおかしくなりそうだ」
「嬉しいことでは、ないですか。それに、私も同じです」
すり、とクローディアはその胸元に頬を寄せた。温かくて、強い鼓動を感じさせるそこに、引き寄せられるようにして頬を擦り付ける。
「絶対に捨ててはいけないなんて、重いでしょう」
「全く」
断言したエドガーの顔は、けれど厳しかった。まるで初めて会った時のような、眉間に皺の寄った表情を見たクローディアは、そっと指を伸ばしてその皺をなぞる。
「笑って、ください」
そう言うも、表情の変わらないエドガーに、思い切って身体を伸ばして口付けた。ちょん、と一瞬だけ触れて離れたクローディアの唇を、エドガーの視線が吸い寄せられるようにして追う。
ぐっと強く握られたエドガーの拳を緩めるように指の隙間を撫でれば、一瞬でその手が引っ込められた。
「……エドガー様、怒っていますか」
「いや」
そう答えたきり押し黙ってしまったエドガーを、クローディアは不安げに見上げる。しばらく沈黙が続いた後、その視線に耐えかねたように、エドガーが呟いた。
「耐えている」
「……」
「クローディアを、今すぐ襲いそうな衝動と戦っている」
「襲っ……?!」
それを聞くなり、咄嗟にびくりと身を引いたクローディアを認めると、エドガーは複雑な表情で息をついた。
「頼むから、しばらくそれくらいの距離でいてほしい。今の私は、どこかおかしいから」
「は、はい」
再びの、何とも言えない沈黙。頬を真っ赤に染め上げたまま、微動だにせず恥ずかしさに耐えている2人。
凍りついた時間を動かしたのは、到着を知らせる御者の声だった。
差し伸べられたエドガーの手を取って、クローディアはゆっくりと馬車から降りる。
ぴたりと視線が合って、クローディアは微笑んだ。そのまま屋敷の中に入り、シーズン外だからか使用人の姿もほとんど見えない静かな廊下で、クローディアはエドガーの肩に指先をかけ、背を伸ばすと、その耳に口を寄せる。
「襲ってくださって、構いません」
その言葉にぴたりと動きを止め、身体を強張らせたエドガーが、ややあって震える声で口にする。
「本気か」
「はい」
「迷いはないか」
「はい。私を、本物の妻にしてください」
クローディアがそう言った瞬間、ふわりと身体が浮いた。
両手でクローディアを優しく抱え上げたエドガーに、言葉を発そうとするも、あっさりと唇に封じ込められる。
「すまないが、この方が早い」
クローディアを揺らさないように気をつけながら、けれど見たこともないような速さで廊下を歩くエドガーの顔を、クローディアは目を細めて見つめた。
優しく温かい夫の腕の中で、クローディアは幸せを噛み締めていた。
そしてこの日、クローディアは本当の意味で、エドガーの妻になった。
繰り返し触れる熱に、低く掠れた声で囁かれる愛に、クローディアは婚約が解消されたあの日から数えて初めて、はらりと、涙を零した。
堪えきれぬ嗚咽を漏らすクローディアを目にするなり動きを止めたエドガーに、クローディアは抱きつく。縋るように温かい身体を抱きしめて、全身をぴたりと沿わせる。触れ合う身体に、全身が溶けて混ざり合っていくようで。
揺れて霞む視界の中で、ただエドガーの姿だけが明瞭だった。




