第13話 ひとつだけ、我儘を
「……クローディア」
その声につられるように、クローディアはゆらりとエドガーの立ち尽くす廊下へと出た。それを追って出てきたジュリアンの姿に気がついたエドガーは、咄嗟に目を見開くも、立て直して挨拶を口にしようとする。
ジュリアンはそれを、手を振って遮った。
「ちょうど良いところに、オールディス伯爵。貴方に会いたがっている人がいる」
信じられない、と言うように一度強く目を閉じたエドガーが、ゆっくりとクローディアへ向き直った。
どちらも、何も言わなかった。ただ、かけるべき言葉を見つけようと彷徨っていた。
「お久しぶりです」
結局、絞り出せたのは無難な言葉で。
「ああ。元気そうで安心した」
帰ってくるのも、無難な言葉。
けれどクローディアは、静かに決意した。ゆっくりと、口を開く。
「元気そうに、見えますか」
「……いや」
「はい。あまり、眠れていません」
それを聞くなりエドガーの目に浮かぶのは、見慣れてしまった心配の光だった。口を開こうとするエドガーを、クローディアは首を振って制す。きっと出てくるのは、エドガーには何の非もない謝罪の言葉だろうと、想像がついてしまったから。
「それは、再び王宮に戻ってきたからではありません。殿下にお会いしたからでも。……エドガー様と、離れていたからです」
「……」
「離れていたのは短い間でしたが、エドガー様に会いたくて、夜も眠れませんでした」
「……っ」
突然、がばりと抱きしめられて、クローディアは驚きに身体を強張らせた。それに当然気がついているだろうに、エドガーは腕の力を緩めてはくれない。
クローディアが息もできないような強さで、言葉も紡げないほどにその硬い胸元にクローディアの顔を押し付けて、無言で抱き締めるだけ。
どれだけそうしていただろうか。ゆっくりと離れていった体温を少し寂しく思いながら、クローディアは大きく息を吐いた。
遥かに高いところにあるエドガーの顔を見上げれば、エドガーは腰を折って、クローディアに目線を合わせる。
「……私も」
「はい」
「クローディアに会いたくて」
「すみません」
「謝る必要はない」
短く言ったエドガーは、小さく息を漏らした。
「すまない。突然」
「いえ。……エドガー様」
「何だ」
「我儘を言っても、良いですか」
その言葉に少しだけ頬を緩めて力強く頷いたエドガーに、クローディアは目を細める。眩しかった。いつだって、震えるほどの優しさを向けてくれるエドガーを、心の底から大切に思った。
大丈夫だ、と確信していた。
エドガーは決して、クローディアの我儘を怒らない。大切に、大事に、クローディアの願いを叶えようとしてくれる。
だから、心の中から語りかけてくる恐怖に耳を貸しはしない。いつまでも怯えてばかりでは先に進めない。先に進みたいと、クローディアは願っている。だから。
「帰りたい、です」
「……クローディア」
「ここにいることで、私が確かな価値を持つのだとしても。それよりも、私は、エドガー様の側にいたいです」
「……っクローディア」
確かめるようにクローディアの名前を繰り返したエドガーは、恐る恐る、というように問いかけた。
「本当か」
「はい」
「私も、クローディアに側にいて欲しい」
「……はい」
その端正な顔立ちに浮かぶのは、紛れもなく安堵で。
その表情を見て、クローディアの心がふっと緩んだ。エドガーは、心の底から、クローディアが隣にいることを望んでいる。クローディアがもたらすことのできる富よりも、王家との繋がりよりも、クローディア自身を。
信じられないほどに温かなその確信は、ゆっくりとクローディアの心を溶かす。
「申し訳ございません、殿下――」
「うん。今この時をもって、オールディス伯爵夫人に頼んでいた仕事は終わり。……帰って良いよ」
少しだけ強張った笑顔を浮かべたジュリアンは、ゆっくりとエドガーに目をやった。エドガーの顔に浮かび上がる紛れもない怒りに、ジュリアンが自嘲するように笑って呟く。
「オールディス伯爵。言いたいことがあるのならば、言ったらどうだい?」
「……」
「言うまでもないことだけれど、不敬は問わない。当然、言わない権利もある。けれど、言いたそうには見える」
「はい」
一歩前に踏みだし、クローディアを背に庇うように身体の向きを変えたエドガーを、ジュリアンが静かに見つめた。
「殿下は――」
「エドガー様」
エドガーの口から迸りかけた激情を遮ったのは、クローディアだった。
「殿下と私の間では、もう終わった話です」
「そんなことは理解している。だが、私の中では終わっていない話だ」
クローディアの言葉を制すように口にしたエドガーに、今度はクローディアが口をつぐんだ。その声に含まれる明らかな怒気に、ジュリアンが静かに息を吐く。
「殿下、殿下は、どれだけクローディアを傷つけたか知っておられますか」
「知っているつもりではいるけれど、おそらく、この程度では到底足りないだろうということも、知っている」
「ならば、詳しく語りません」
「……どういうことかな?」
「想像し続ける、ということです。殿下の行動が、殿下の愛する人をどれだけ傷つけたか、その苦しむ姿を想像しながら一生を過ごしていただきたい、とご理解いただければ」
「……私の、愛する」
「違いますか」
ジュリアンよりも、エドガーの方がほんの少しだけ背が高い。
威圧するようにジュリアンを見下ろす藍色の瞳を、ジュリアンが見つめ返した。
「違うね。今の私が愛しているのは、ただひとりキャロライン嬢だけだ」
「とんだ嘘を。殿下は、クローディアに惚れています」
「違う。違う、よ」
ジュリアンは、静かにクローディアを見つめた。その銀色の髪を、揺れる紫の瞳を、縋るようにエドガーの服の裾を握りしめ、ぴったりと寄り添うクローディアを見つめた。
「私は、キャロライン嬢と幸せになると約束した。私には、彼女と幸せになる、義務がある」
自らに言い聞かせるように、重々しく発された言葉の真意を正しく理解したのは、クローディアだけだった。
クローディアに袖を引かれ、エドガーが開こうとした口を閉じる。ゆるゆると首を振ったクローディアに、なおもエドガーは不満を隠さない表情を浮かべる。ぎりりと食いしばられた歯の奥で、唸り声のような低音が漏れた。絶え間なくもれる荒い息が、クローディアの鼓膜を揺らす。
そして、堪えきれなかった低音が、エドガーの口から零れ落ちた。
「本気でそれを、仰っているのですか」
「……」
「生涯クローディアを想いながら、他の女性を幸せにすると? 殿下にとってはクローディアを失った愚かな行為の象徴である、他ならぬあの女性を? 幸せに? そう仰っているのです?」
「エドガー様」
落ち着いてエドガーの言葉を遮ったクローディアが、その眉間に寄せられた皺を指先でなぞれば、エドガーは無理矢理に微笑みのようなものを浮かべる。
尚も苛立ちを滲ませるエドガーの姿を認めて、くい、と、クローディアがエドガーの胸元を引いた。その意図を察したエドガーが、身をかがめてクローディアに顔を寄せる。
クローディアが少しだけ背を伸ばして、その2人の影がゆっくりと重なった。
その唇が優しく触れ合う様子を、お互いを唯一と定めたような2人の甘やかな触れ合いを、ジュリアンは静かに見つめていた。
やがてゆっくりと向き直ったエドガーと、ジュリアンの視線がぴたりと合う。
「……それでは、殿下。御前失礼いたします。数々の不敬を、お許しください」
「……そうだね」
「寛大な御処置、感謝申し上げます」
エドガーに手を引かれ、クローディアはゆっくりと歩き出した。その歩く速さは、いつもよりほんの少しだけ早い。小走りになるまではいかないものの、歩くことに意識を集中させ始めたクローディアを引き止めたのは、ジュリアンの声だった。
「オールディス伯爵」
「はい」
「……クローディアを、幸せにしてほしい」
「言われるまでもないことです」
振り返らぬままに答えたエドガーの足が、さらに早くなる。今度こそ小走りになりながら、クローディアはエドガーの後を追った。
クローディアが振り返ることもない。ジュリアンに関する過去の全ては、もう決着のついた事だった。
エドガーに手を取られ、ジュリアンに背を向けて、クローディアは長い時を過ごしたジュリアンの執務室を後にした。
「……あの」
だが。しばらく歩いていたところで、恐る恐ると言った調子でクローディアの後ろから声がかけられた。クローディアがゆっくりと振り返り、ぴたりと動きを止める。
「キャロライン様」
今のジュリアンの恋人であり、かつてクローディアから恋人を奪った女性。
誰よりも恐れ嫌っていた存在であるキャロラインの登場を前に、クローディアは静かに硬直していた。




