第12話 向き合った過去
「……昔の、私」
幼い子供のようにその言葉を繰り返したクローディアを、ジュリアンは小さな微笑みを浮かべて見つめる。
「うん。無邪気で、可愛くて、純粋で……私が守ってあげなければ、と思わされた、幼い頃の君」
ずっと、怖かったんだ、とジュリアンは言った。
「クローディアは、信じられないくらい綺麗になっていって、母上のような美しい女性に、花が開くみたいに変わっていって……それが、私のためだというのは、分かっていたつもりだったけれど、それでも、怖かったんだ。
心から愛していた君が、変わっていくのが。私の庇護なんか必要としない強い女性になっていく君が、眩しいと同時に、知らない人のように感じられた。もう、クローディアは私を必要としてはいないのではないか、なんて不安になって」
「あの時のわたくしは、殿下を心から想っておりました」
「……ごめん、ありがとう。けれど当時の私は、それが分からなくて、クローディアが離れていった寂しさを埋めるように、彼女にのめりこんだ。彼女で庇護欲を満たして、甘えてくる彼女を可愛がって、それでずっと本当の感情を誤魔化していた」
言葉を切ったジュリアンが、静かに口にした。
「ごめん。そんな言葉では、足りないと思うけれど。今更だと、分かっているけれど」
「殿下が謝られるようなことではございません。殿下のお心に添えなかったのであれば、それはわたくしの過失です」
「……うん」
君が昔みたいに、私に心を許してくれることは、ないんだね。
微かな微笑みと共に漏らされた途切れ途切れの呟きに、クローディアは返す言葉を持たなかった。
「君の雰囲気が変わったのは、結婚したから?」
「はい」
迷いはなかった。
ジュリアンの言う変化が、かつてのクローディアに似たものであるのなら。ジュリアンの隣に立つため、必死に礼儀を身に纏うようになる前の姿であるのなら。
それはきっと、エドガーに嫁ぎ、心を許すようになったからなのだろう。心を隠す必要はないと、優しく触れてもらったからなのだろう。
「そう。……あくまでも、仮定の話として聞いてほしいのだけれど」
「はい」
「私がクローディアをまだ想っていると言ったら、君はどうする?」
痛いほどの沈黙が部屋に満ちた。
湧き上がる感情に、クローディアは唇を噛む。一番は怒り、なのだろう。今更だ、という怒り。あれだけ酷い捨て方をしていて、クローディアに消えない恐怖を植え付けて、今更どの口が、という。
不敬は気にしないで、クローディアの本音が聞きたい、と言うジュリアンの言葉が、最後にクローディアの背を押した。
「仮定の話でしたら。信じられません、とお答えいたします」
「それは、私の言う愛など信じられない、という意味?」
「はい。言うまでもありませんが、それがひとつです。もうひとつ、わたくしに加えて、キャロライン様までも裏切ろうとするという行為が、到底現実のものとは思えない、という意味でもあります」
ぎゅ、とクローディアは唇を噛み締めた。
言ってしまった。今更ながら震え出す身体を気取られないように、全身に力を入れて抑えつける。
「……続けて」
「想う人に捨てられることは、苦しいです。二度と恋などしないと心の底から思い、大切な人からいただいたはずの愛の言葉が信じられなくなるくらいには、傷を残します。その傷を、わたくしだけでは飽き足らず、キャロライン様にまで植え付けようと、殿下はそうお考えですか? 何度不貞を働かれるおつもりですか? わたくしの他に、何人傷つけるおつもりですか?」
痛いほどの沈黙は先程と同じだけれど、ジュリアンの様子は大きく違っていた。
目を閉じて、自らを御すように、数度震える息を吐いたジュリアンは、ゆっくりと口にした。
「その通りだ。ごめん」
「殿下」
クローディアとジュリアンの道が交わることは、二度とない。愛するどころか、男性として見ることは決してないし、これからも共にいたいとは一切思わない。怒りが消えることもない。
最も長い時を共に過ごした、かつての最愛。その言葉に込められた心からの後悔を、罪の意識を、クローディアは確かに感じ取った。
そして同時に、その声にこもる熱も、かつて愛を囁かれたときのような熱も、クローディアは感じ取っていた。
最後に、ほんの少し言うくらいは、許される気がした。
「わたくしのことなど忘れ、キャロライン様と、幸せになってください」
大きく、ジュリアンの表情が歪んだ。数度小さく呼吸したジュリアンは、表情を戻すと、一拍おいて、静かに頷いた。
ずっと心を重く縛っていたものが、するりと解けていく感覚がした。
「オールディス伯爵夫人、貴女は今、幸せ?」
「……幸せ、でした」
幸せだった。エドガーの暮らす屋敷を出て、この王宮に来るまでは。
逃げ出した自覚はあった。エドガーの想いになんの答えも出さぬまま、長い距離を言い訳にあの屋敷を出た。
それがどれだけエドガーを苦しめているかなど、想像がつくはずなのに。想う人が離れていく恐怖を、クローディアも痛いほどに分かっているはずなのに。
「今は?」
「……分かりません」
「それは、私がここに呼んだから?」
「いえ」
違う。断ることはできた。
エドガーから離れることを選んだのはクローディアだった。その方が、安心できると思ったから。こうしてオールディス伯爵家の支えとなることが、何よりもクローディアの心を落ち着けると思ったから。
けれど、ここに来てから、苦しいことばかりだ。
会いたい。名前を呼んでほしい。触れてほしい。甘やかされたいし、できるか分からないけれど、甘やかしてもみたいと思う。
寝台に潜り込んで目を閉じれば、思い出すのは藍色の瞳。胎児のように身体を丸めて、自らの身体を抱き込んで、ただ時が過ぎるのを待っている夜。
じりじりと追い詰められていくような感覚に、ゆっくりと身体が麻痺していく。
まるで、全身がエドガーを求めて叫んでいるようで。だから、分からない。
「オールディス伯爵を、愛しているんだね」
少しだけ微笑んで、ジュリアンが言った。合わせていた目線を外して、ジュリアンはゆっくりと身体を起こす。
「懐かしい顔を、している」
その言葉は、ほとんどクローディアの耳には届いていなかった。
愛している。
言葉にしてしまえば、簡単だった。
この感情は、つまりそういうことで。会いたいのも、触れたいのも、側にいたいのも、捨てられたくないのも、全部、愛しているから。
「殿下」
「何?」
「少しの間、お暇をいただきたく存じます」
「帰るの?」
「はい」
そう、と小さく返したジュリアンが、扉を自ら開けた。慌てたように駆け寄ってくる側近を無視して、ジュリアンが扉の方へ指先を伸ばす。
「どうぞ。帰るんでしょう?」
開いたドアの向こうを目を見開いて見つめながら、言葉を失って立ち尽くすクローディア。訝し気に眉を寄せたジュリアンは、ゆっくりとクローディアの視線を追って、そこに立つ人影を捉えた。
「……エドガー様」
クローディアの震える声だけが、凍りついた空気を揺らした。




