第11話 逃れられない恐怖
「愛している。ただそれだけだ。だから、クローディアを求めた」
言葉を失ったクローディアに、エドガーは振り絞るように告げる。
「政略も、何もかも、嘘ではないが本当でもない。クローディアが、少しでも安心して私の元へ嫁いでくれるのなら、と。そう思ってのことだった」
すまない、と呟いたエドガーが、そっとクローディアの手を取った。そこから伝わる体温に、クローディアはびくりと身を震わせた。
「……いつから、どうして、ですか」
「クローディアが、ジュリアン殿下の婚約者になってすぐの頃から、だ。社交シーズンにジュリアン殿下に寄り添うクローディアを見て、言葉を交わして、その純真な愛らしさに見惚れたものだったが……そこから、美しく凛とした女性へ成長していく姿にも、同時に見惚れていた。
どれだけ努力したのだろうと、どれだけ自分に厳しく気高い女性なのだろうと思うと同時に、彼女が安らげる場所になれれば、心のままに振る舞える相手になれれば、と夢想した。私の方が笑顔にできると、嫉妬心からか大それたことを思ったりもした。
それが事実かどうかは、正直、分からなくなってしまったが。あの日から変わらず、クローディアを想っている」
だが、と小さく言ったエドガーが、甘やかな声での語りをぴたりと止めた。
「この程度でクローディアへの想いを語り切れるとは思っていないし、今するべきことでもないと思う。本題に戻すが、良いか」
「……はい」
「つまり私は、クローディアに金銭を求めてはいない。クローディアの幸せだけを求めている。だから、頼む、話は受けないでくれ」
「……」
「嫌なのだろう?」
エドガーは、迷いなく断言した。
「クローディアのあの振る舞いは、心を殺している時の振る舞いだ。王都にいた時のように、最初にここに嫁いで来たときのように。周囲からの求めに応じて、自らの望みを殺しているときの顔だ。違うか?」
「……嫌、です」
ぽろり、と溢れたクローディアの言葉に、エドガーは小さく微笑む。まるで、それで良い、と言うように。
「ですが。私は、エドガー様の隣にいたいです。離縁は、嫌です」
「言った通り、私がクローディアと離縁するわけがない」
「そう仰ってくださるのは嬉しいです。それでも、エドガー様の愛に縋って生きるのは、怖いです」
「クローディア」
「また、簡単に揺らぐような、愛、というものに、居場所の全てを預けて生きるのが、怖いのです」
「……っクローディアは」
ぱっとクローディアの手を握っていた手が離れる。すぐに、痛いほどの力で顎を捉えられた。
頬を歪め、苦しげに眉を寄せたエドガーの顔が、視界いっぱいに広がる。
「私のクローディアへの想いが、あの王太子と同じだと。私もクローディアを捨てると、そう言っているのか」
「……申し訳ありません。怖いのです」
絞り出すように言ったクローディアを見て、エドガーの手が離れた。
「いや。今のは、意地が悪い質問だった」
短く呟いて、エドガーは座っていた場所に腰を落ち着けると、数度息を吐く。
「怖い、か」
「……はい。すみません」
エドガーは、長い、長い溜め息を吐いた。
「確かな繋がりがあれば、安心できると」
「はい」
「そしてそれは、クローディアがオールディス伯爵家にもたらす富や、王家との個人的な繋がりだ、と」
「……はい」
分かった、とエドガーは呟いた。
ぐったりとソファに身を沈め、抑えきれない激情に震える声をどうにか抑えつけて、エドガーはクローディアに告げる。
「許可する。貴女がもたらすものは、この領地のためになる」
「……ありがとうございます」
それより他に、クローディアは答えを持たなかった。
小さく首を振ったエドガーが、ドアを片手で示す。
「すまないが、出てくれ。いつまでも冷静でいられる自信がない。正直、無理矢理にでも引き留めてしまいそうだ」
「……はい。申し訳ございません」
精一杯の謝罪に、エドガーは小さく頷いた。
部屋を出る寸前に聞こえた、私のためにありがとう、というエドガーの呟きは、紛れもない優しさだ。小さく唇を噛んで、クローディアは部屋を出た。
愛している。
その言葉が、これほどまでに重く胸にのしかかるものであると、クローディアは知らなかった。
◇
「クローディア」
クローディアは答えなかった。耳を揺らす懐かしい甘い声。視界に飛び込んでくるのは、美しい金色の髪に、鮮やかな青の瞳。
ジュリアン王太子。クローディアのかつての婚約者。
側に控えていた1人の男性が、すっとジュリアンに近づくと、小さな声で何事か囁いた。分かった、と小声で返したジュリアンは、やや不機嫌を滲ませた声で言い直す。
「オールディス伯爵夫人」
「はい」
「……違う、良いや。気にしないで」
返事をしながらも、クローディアはわずかに首を傾けた。
王太子の執務補佐。そのために、クローディアは呼ばれたはずだった。
王妃教育を受けていないジュリアンの新しい恋人キャロラインは、まだ王太子妃として必要な働きができていない。今まではそれをジュリアンが肩代わりしていたが、それも限界が来たらしく。
仕事の全てを知り、かつ窮状にあったクローディアに声がかけられた、ということを、クローディアは王宮に来てから知った。
けれど、ジュリアンがクローディアに仕事をさせるような素振りは一切なく。何をするでもなく、こうして会話にならない会話をしながら、執務中のジュリアンの横に立ち続けるだけの数日が続いていた。
からから、と窓の外を転がっていく枯葉の音を聞くともなしに聞いて、窓から見える葉を落とし切った古い木々をぼんやりと見つめる日々。
「ねえ」
「お呼びでしょうか」
「うん。女性にこういうことを聞くのは、失礼だと分かっているのだけれど」
雰囲気、変わったかな。
想像もしない言葉に、クローディアは数度目を瞬かせる。
「そういうところ。前は、一切感情が見えなかったのに。今の反応、まるで、昔の君みたいで」
「……っ申し訳ございません」
精一杯、教えられた通りに振る舞っていたつもりだった。
かつて褒められたあるべき女性の姿であろうと思っていたのに。エドガーとの生活の中で変わってしまったものを突きつけられたようで。
確かに、エドガーはそれを望んだ。けれどそれは、この国の王太子の前で望まれる姿ではない。
すっと姿勢を正したクローディアの姿を横目で捉えたジュリアンは、持っていたペンを置くと、くるりとクローディアに向き直った。
かたん、と小さな音が執務室に響く。
「ねえ、クローディア」
物言いたげに近寄った側近を片手で制し、ジュリアンはクローディアへ問う。
「私に、怒っている? って、当然だよね」
小さく溜め息をついたジュリアンが、迷うように、ゆっくりと口にする。
迷子の子供のように視線を揺らし、下からクローディアを見上げるジュリアンの姿は、クローディアにとって初めて見るものだった。
「君をここに呼んだのは、一度きちんと話して、謝りたかったからで」
「……」
「あの時の私はどうかしていた。恋情でおかしくなっていた。彼女への愛情が本物だと信じて疑わなかった。けれど、最近、気が付いたんだ」
うん、と小声で呟いて唇を噛んだジュリアンが、ゆっくりと立ち上がった。そのまま、少しだけ屈んで、クローディアに目線を合わせる。その、覗き込まれるような角度は、クローディアの胸に奇妙な懐かしさを覚えさせた。
「私は、彼女にずっと、昔のクローディアを重ねて見ていた」




