第9話 途切れた鎖
愛されて、いるのではないか。
クローディアは、目を伏せて自らの手を見つめた。
エイダの訪問から数日後。エドガーも出かけてしまい、自室で1人になったクローディアは、そっと息を漏らした。
甘やかしたい。妬いた。
そして、触れ合った熱。
それは、同情の域を超えているように感じられた。大切にしたい、という範疇を、とうに脱しているような気がした。そしてその感情の名前を、クローディアはもう知っていた。
今までそこから目を逸らし続けていたのは、クローディアだ。
けれど、このままではいられないことは、クローディアにもよく分かっていた。
あの時以来、どことなく余所余所しくなったエドガー。以前より明らかに外出も増えている。それが、クローディアのことを避けての行動であるのは明白だった。
全てなかったことにして流すには、お互いに意識しすぎていた。
愛されなくて良い。むしろ愛されたくない。
かつて必死で心の中で繰り返していた言葉を思い返す。
もし、愛されない、ということが、ああしてクローディアに触れる指先がなくなるということならば、かけられる温かい言葉から温度が失われることならば、嫌だな、と思う。
嫁いでからの短い間。思いがけない優しさと、甘い言葉と。紛れもなく、それはクローディアの幸せだったのだ。
ばたばたと、複数人の足音が聞こえて、クローディアは顔を上げた。扉の隙間から漏れ聞こえる、切羽詰まったような話し声。この屋敷の使用人は粒揃いで、平時であれば、こうしてクローディアが自室にいるときにその存在を悟らせることなどありえない。
程なくして、どん、と勢いよく扉を叩く音が響いた。クローディアは数度ドアの前で手を彷徨わせた後、扉を細く開ける。
「お休み中失礼いたします。奥様に、緊急のお手紙です」
丁重に差し出された手紙を、クローディアは受け取った。
その深い赤色の封蝋に描かれる模様は、クローディアにとって良く見慣れたものだった。途端に、手紙を握っていた手が震え出す。
震える紙の上であっても、その上に張り付く文字を読み取ることは簡単だった。
オルブライト侯爵家。クローディアの実家にして、息苦しい記憶の残る場所。
口の中が渇ききっていた。数度、短い呼吸を繰り返した。
静かに目を閉じて、開けて、手紙を取り出した。クローディアの目が、その筆跡を追う。
ややあって、はらり、とその手から手紙がこぼれ落ちた。
震える手で顔を覆う。
曰く。
水面下で行われていた、オルブライト侯爵家の不法な裏取引。
すなわち、クローディアの所有する持参金が不正な手段によって得たものであり、然るべきところに回収されるべきものである、ということ。
「あ……」
意味もなく、クローディアの口から声が零れ落ちた。
愛されたい、と思った。愛したい、とすら思った。最後に必要なものは、一歩踏み出して手を伸ばす勇気だけだと思っていた。
あの甘やかな触れ合いは、クローディアの幸せであり、何よりも欲しいものであった。
けれど。
クローディアは、強く唇を噛み締める。その手は、細かく震えていた。
全ては、クローディアに価値があり、エドガーがクローディアを捨てることはできない、という前提の上での話。
ふらり、とよろめいたクローディアの足が、床に落ちた手紙を踏む。
紙の潰れる音をどこか遠くに聞いた。がくんと足から力が抜け、クローディアは堪えきれず崩れ落ちた。勢いよく床にぶつかった膝から、鈍い痛みが伝わってくる。
美しく磨き抜かれた、年季を感じさせる艶やかな床の上で震える己の手を、クローディアは見つめていた。
こうして、政略的な均衡が釣り合わなくなった時に破談になる結婚は珍しくはない。
今頃オルブライト侯爵家は大騒ぎになっているだろうし、戻ったところでクローディアに居場所はないのは確かだが、クローディアはそれを拒めるだけの力を持ちあわせてはいないのだ。オールディス伯爵家からしてみれば、詐欺も良いところだろう。実家を一切見ようとせず、その惨状に気がつかなかったクローディアにも責任はある。
だからこの手紙を目にした瞬間、クローディアは覚悟を決めた。今までの温かい生活を全て手放して、この胸に芽生えかけている気持ちを忘れて、この屋敷を出ていく覚悟を。
けれど、と思うのだ。
きっと今のエドガーは、政略としての価値を失ってもなお、クローディアを捨てたりはしない。
今までの生活の中で、大切に、大切にクローディアを包み込んだ優しさは、決して打算や偽りの上にあるものではなかった。
だが、人の気持ちは移り行くもので。
唇を噛み締めて、クローディアは俯いた。は、と小さな吐息が口から漏れる。
その視線が、周りに散らばる手紙を捉えた。その手紙は、2枚あった。
ふう、と息をつくと、クローディアは深呼吸した。震えていた身体が、ゆっくりと静まっていく。大丈夫だ。感情を抑える術は、長年の王妃教育の中で身につけた。動揺し、もう1枚ある手紙を見落とすなど、クローディアらしくもない。
目を通していなかった2枚目を拾い上げ、クローディアは静かに目を通す。その、見覚えのありすぎる筆跡に、クローディアの唇が微かに開く。
ジュリアン。
長いこと思い出すことすら忘れかけていたかつての最愛の名を、クローディアは声にならない声で呼ぶ。
簡単な内容だった。
クローディア、ひいてはオールディス家の現状を把握している。今更だと全て理解した上で、クローディアを助けたい。オールディス伯爵夫人としての仕事のない時に、私の元で職を与えようと思うが、どうだろうか。
そんな、内容。
軽く目を走らせた程度でも分かる。破格の対応だった。それこそ、持参金に匹敵するくらいの。
王家としては、あからさまにクローディアやオールディス伯爵家を優遇するわけにはいかない。しかし、クローディアに大きな負い目のある王家としては、この窮地を放っておけない。
わざわざ直筆の手紙を届けさせたくらいなのだから、ジュリアンも、多少なりとも譲歩の姿勢を見せているのかもしれない。たとえクローディアに、気持ちが残っていなくても。
それが、わざわざオルブライト侯爵家からの手紙を装って送られてきた理由なのだろう。公的な駆け引きでなく、私的な意図であるとクローディアに示すための。
そういう思惑が絡み合っての、ぎりぎりの策であることを、クローディアは一瞬で悟っていた。
これを受ければ、クローディアは怯えなくて済む。
いつエドガーの気持ちが移り行くだろうか、再び捨てられるのでは、という恐怖から逃れ、エドガーの役に立っているから安心だと、強固な鎖があるのだと、胸を張っていられる。
決意は一瞬だった。
だから。
身の内に宿る怒りを、何を今更、だとか、もう顔も見たくない、だとか、そういう感情を全て押し込めて、クローディアは微笑む。
長年の教育で手に馴染むようになったその表情は、息をするように浮かべられるはずだった。けれど堪えきれずに、その表情は少しだけ揺らぐ。
―― 好きなもの、やりたいことを、見つけてほしい。
エドガーがそんなことを言うから、クローディアは、好きなものと一緒に見つけてしまった。
嫌いなものも、やりたくないことも。
「……こんな感情、知りたくなかった、わ」
それでも、このまま怯え続けるくらいなら。
一つ息を吸って、吐いた。
思い出すのは、赤い薔薇の花びら。大輪の薔薇に相応しくあろうとしていた、あの頃。
窓辺に飾られた薔薇の花を見つめて、クローディアは、透き通るような微笑みを浮かべた。
◇
「エドガー様。夜分遅くに申し訳ございません。お時間よろしいでしょうか」
夜遅く、クローディアは1人、エドガーの部屋の扉を叩いた。




