第0話 婚約破棄と、壊れかけた令嬢
「愛のない政略結婚を希望いたします」
その言葉を、アレクサンダーは微かな驚きと圧倒的な後悔を持って受け止めた。
真っ直ぐにアレクサンダーを見つめる紫色の瞳は、迷いなく透き通っている。その凛とした姿は、何十年と妻一筋のアレクサンダーでさえ見惚れるほどに清らかで美しい。
長年の王妃教育の賜物、と言うべきか。
いついかなる時もすらりと背筋を伸ばした、次期王妃。
クローディア・オルブライト侯爵令嬢は、そんな人間だった。
だが、全ては過去の話になった。
――父上。クローディアとの婚約を解消したいと考えています。彼女も同意しています。
社交界では随分と持て囃されているという甘い顔立ちを、らしくもない悲壮な決意に歪めてアレクサンダーの元へやってきた、王太子ジュリアン。
ジュリアンの婚約者として、幼い頃から王宮に出入りしていたクローディアをよく知っているアレクサンダーにしてみれば、その言葉はひどく信じがたいものだった。
今まで、実の娘のように育ててきたという贔屓目を抜きにしても、クローディアは優秀だった。申し分ない能力と人望を持っていた。陰で血の滲むような努力をしていることも、アレクサンダーはよく知っていた。
そして何より、クローディアとジュリアンの婚約は、ジュリアンの一目惚れから始まったのだ。
「……息子が、申し訳ない」
答えにならぬアレクサンダーの返答に、クローディアは軽く首を傾げた。その薄い桃色の唇が、淡々と言葉を紡ぐ。
「陛下が謝られるようなことではございません。婚約の解消に、わたくしも同意いたしました」
「だが。ジュリアンの言い出したことには、逆らえないのだろう」
「……いえ。わたくしも望んだことです」
そう言ったクローディアの瞳が、少しだけ揺れた。応えの前に、わずかに間があった。それを正しく認めたアレクサンダーは、焦げるような熱を抱えながら唇を噛む。
2人の婚約の解消が、クローディアの同意の上だと聞いて、アレクサンダーは驚きながらも許可を出した。それが2人の選んだ道ならば、と。もともと政略結婚ではない2人だ。不可能なことではなかった。
だが、実際はどうだ。何があろうとその表情を変えることのないクローディアが、アレクサンダーの言葉に微かに動揺した気配を見せた。加えて。
王家で手配するこれからの婚姻に、望むことはあるかと問うた時の答え。
それが、愛のない政略結婚、だったのだ。
「望んだこと、か」
「はい」
クローディア・オルブライト侯爵令嬢は、ジュリアン王太子を心から愛していた。
この国に住む人間なら、赤子でも知っているようなことだ。
王宮には、さほど広くはないが手入れの行き届いた、鮮やかな赤い薔薇の庭園がある。
それはジュリアンが、クローディアのために作らせたものだった。そして、クローディアも、王宮に訪れたときは必ずその庭園に足を運び、しばしの休息を楽しんでいた。
燃えるような赤色に負けず劣らず、頬を染め上げながら、心底愛おしそうに薔薇に顔を寄せるクローディアの姿を、アレクサンダーは今でも鮮明に思い出せる。
その姿はまるで一枚の絵のようで、事実そんなクローディアに目を奪われる人間も多かった。
あの時のクローディアの姿は、幸せに満ちていた。愛情が溢れ出るような表情をしていた。
だからこそ、愛のない政略結婚、という言葉は、強くアレクサンダーの胸を締めつけた。
「望むものは、それだけか」
「はい。わたくしに、もう良縁は望めないかと存じますので。家の重荷には、なりたくありません。十分すぎるほどのものです」
それなら、貴女を愛し大切にする男を探そう。
そう言いかけて、アレクサンダーは咄嗟に言葉を呑み込んだ。クローディアが、愛し愛される結婚を望まないのは、間違いなくジュリアンに責任がある。
「愛のある結婚を望まないことを、不思議に思われますか?」
クローディアは、聡かった。一瞬のアレクサンダーの迷いを正しく読み取り、微かな微笑みを浮かべながら、クローディアは語った。
「……愛なんてものは、もう懲り懲りなのです」
なんでもない、というような様子で口にしたクローディアの姿は、アレクサンダーの目には酷く痛々しく映った。
愛、と口にした時に少しだけ力のこもるクローディアの手は、隠しきれていない声の震えは、少しだけ増えた瞬きは、未だ彼女の心がどこにあるかを如実に示していた。そうして、それを悟ってもなお、そんなクローディアにかけるべき言葉を、アレクサンダーは持たなかった。
けれど、妻をこよなく愛するアレクサンダーは、言わずにはおられなかったのだ。
「国王ではなく、幼い頃から貴女を見守ってきた、アレクサンダーという1人の男の意見として、聞いてほしいのだが。私としては、貴女に愛し愛される人を見つけてほしい。それは何よりも必要な存在であると、思う」
「……申し訳ございません」
静かに謝罪するクローディアの、静まり返った湖面のような瞳に、アレクサンダーは頬を歪めた。一瞬の逡巡の後、アレクサンダーは口にした。
「……そうか。良縁を探す」
「ありがたく存じます」
その瞬間に、クローディアの口元がふっと緩んだ。愛されない結婚に、心から安堵したように、アレクサンダーの目には映った。
壊してしまったのだ、と悟った。
クローディアを初めて目にしたときのアレクサンダーの印象は、無垢で天真爛漫な少女、だった。
愛らしい顔立ちにふわふわと舞い上がる細い髪の毛。故オルブライト前侯爵夫人の忘れ形見だというその娘は、愛情を一身に受けて育ったとは到底言い難い身の上のはずだが、それを一切感じさせぬ純粋で幼気な笑顔が印象的だった。
その笑顔と邪気のない話し方は周囲に立つ大人たちの頬を緩ませていたが、そんなクローディアを妙に緊張して瞬きもせずに凝視している1人の子供がいた。
それが、ジュリアンだったのだ。
そこからは、ジュリアンの強い願いを聞き遂げる形で婚約が決まった。
愛情を受けずに育ち、心のどこかで愛に飢えていただろうクローディアは、ジュリアンの献身に頬を上気させた。
そしてそれから、クローディアは変わった。
「いや。全て、我が息子の責任。クローディアという人がありながら、他の女性に心奪われた」
「ど……うしてそれを」
美しく、強く。生来の甘えたがりは鳴りを潜め、誰が見ても称賛のため息をつくような淑女が生まれた。決して揺るがず、折れず、ひたすらに微笑みを浮かべ続ける姿は、素晴らしき手本としてよく人の口に上がった。
けれどそんなクローディアの顔に、抑えきれなかった感情が浮かぶ。ほんの一瞬息を止め、思わず、というように言葉を漏らしたクローディアを目にして、アレクサンダーは自らの予想が正しかったことを悟る。
勘違いであってくれ、と願ったものだった。けれどその願いは、たった今潰えた。
「申し訳ない」
振り絞るように、アレクサンダーは呟いた。アレクサンダーの権限を以てすれば、婚約の解消の取り消しは可能だろうが、今のクローディアがそれを望むとも思えなかった。
ただ、息子が見初め、そして捨てた、ひとりの折れそうに儚い令嬢を見つめた。
「できる全てを以て、良縁を探す」
アレクサンダーには、一つ当てがあった。
ジュリアンとの婚約の解消を聞くや、クローディアを妻として迎えたいと王都まで直訴しに来た男。普段は無愛想な男だが、繊細で一途な優しさを持っていることを、アレクサンダーはよく理解していた。
クローディアに心底惚れ込んでいることは間違いないが、その強い想いをクローディアに押し付けることなど考えもしない男だろう。
あの男なら、あるいは。
一点の曇りもなく美しい、けれど作り物のように生気を失ったクローディアの幸せを、アレクサンダーは心から願わずにはいられなかった。
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