世界が悪い
そして俺は、しばしの日常生活に戻った。
残業代も出ないのに、ひたすら会社に居座るだけの毎日。
それでも、無盡原にいるよりマシだった。
忍者のおじさんは死んでしまった。
奥さんと出会って結婚して、子供を授かり、幸福になるはずだったのに。
きっと真面目な男だったはずだ。
なのに、彼自身はおそらくなんらのミスもしていないのに、妻子を失った。残された長女も育てることができなくなり、妻の実家へ預けることになった。
無盡原で出会ったとき、彼は「シノビ」としか名乗らなかった。
誰にも存在を知られぬよう、世を忍んでいたのかもしれない。
*
数日後、無盡原に招集された。
鬼司によれば、欠員の補充にはしばし時間がかかるという話だった。
だから三人。
俺たちは黒刀を手に、無盡原に立った。
今日もいつものように、ただゴーストを斬るだけならいいのだが……。
軽く素振りをしていると、高橋さんが近づいてきた。
「冬木さん。こないだはごめんなさい」
「えっ?」
「せっかくいろいろ考えてくれたのに、私、ちゃんと聞くことができなくて……」
悔しそうに下唇を噛んでいる。
彼女が独走したせいで、忍者も巻き添えになった。
そのことを悔いているのだろう。
佐藤みずきがなんとも言えない顔で遠方を見た。
忍者が父親であるということを、高橋さんは知らない。
いま知らせれば、より不幸な結果を招くことになるだろう。
「いや、いいんだ。俺も言い方がマズかった。次からはもっと協力していこう」
「うん……」
納得していない顔。
責任を感じているから、いっそ悪く言ってもらったほうが楽という感じか。
だが俺は、そういう気の利かせ方はしない。というかできない。
「いろいろ思うところはある。責任なら、俺も感じてる。大人として、最適な行動を取れなかった」
「違うよ。私が悪いんだ」
「君にも悪いところはあった。だが俺も同じだ。誰だって完璧じゃない。まずはそこを理解するところから始めるんだ。欠点を知らなければ、成長することもできない」
我ながら、もっともらしいことを言っている。
すると高橋さんは、目に涙を溜めた。
「変なフォローやめてよ! 私のせいで、あの人死んじゃったんだよ……」
これから戦闘だというのに、自分を追い詰めている。
「たしかに、取ってつけたようなフォローに聞こえるかもしれない。けど、後悔しても彼は生き返らないんだ。だから、この経験は次に活かすしかない。まあ、理論上は……だけど」
そう。
俺が言ってるのはただの現実。
そして彼女は、現実を受け入れまいとしている。
この方向性では、会話が噛み合うはずもない。
佐藤みずきは肩をすくめている。
「高橋さんさ、見学してなよ。今回は私とその人でやるから」
おいおい。
あまりに冷たい気もするが。
高橋さんは手の甲で乱暴に涙をぬぐい、キッと佐藤みずきへ視線を向けた。
「やだ。私も戦う」
「ダメ。自暴自棄になってて危なっかしいから」
「なってない」
「なってる」
火に油を注ぐなよ……。
いつの間にか肩で息をしていた高橋さんは、むっとした顔で佐藤みずきへ告げた。
「そういう自分だって、いつも彼氏に当たり散らして、場の雰囲気悪くしてるだけじゃん」
ピクリと佐藤みずきの眉が動いた。
「彼氏? 誰のこと?」
「この人」
「違う。その人は彼氏でもなんでもない。むしろ宿敵だから」
「なにそれ」
「私はその人と対立してるの。彼氏じゃないから。二度と間違えないで。虫唾が走る」
気持ちは分かるがそこまで言うな。
高橋さんはずっと鼻をすすった。
「みんなのこと、仲間だと思ってたのに……」
「利害関係ではあるわね」
「めんどくさい大人ばっかり! いい! もう私一人でやる!」
おい……。
さっきの反省はどこ行ったんだ?
俺は佐藤みずきの腕をつかんだ。
「やめろよ。大人げないぞ」
「別に。ホントのこと言っただけよ。サイコパスが説教しないで」
「サイコパスじゃない」
「はい? 人を傷つけて楽しむようなヤツがサイコパスじゃなかったら、なんだっていうの?」
「あのまま大人になってたらマズかったろうけど、いまは違う」
ちょっと奇行に走ったくらいでサイコパス呼ばわりしないで欲しい。
たしかに当時の俺はおかしかった。
だが、さすがにおかしさに気づいて、小学校にあがるころにはやめたはず。
すると高橋さんが「ケンカしないで!」と怒ってきた。
誰のせいだと思ってんだ……。
*
その後、会話は途絶。
ゴーストが現れたので、バラバラに戦った。
佐藤みずきの指摘した通り、高橋さんはやや無謀な戦いぶりだった。
ゴーストの群れに突っ込み、身体への接触もいとわず刀を振るった。寿命を減らす戦い方だ。俺はフォローに回り、周囲のゴーストを薙ぎ払った。
彼女は鬱陶しそうにしていたが、目の前で死なれるよりはマシだ。
他人がどうなろうと知ったことじゃない。
それでも、目の前で人が苦しむ姿は見たくなかった。
刀を振るっているうち、やがて銅鑼が鳴った。
ゴーストたちは撤退。
今日もなんとか生き延びた。
「冬木さん……」
高橋さんが近づいてきた。
また泣きそうな顔になっている。
「ごめん。私、また同じこと……」
「ちゃんと反省できてるじゃないか。次はもっとうまくやれる。まだ十代なんだし、毎日成長できるよ」
「うん……」
*
広間に戻って食事を済ませ、沐浴をした。
するとまた高橋さんが来た。
「大丈夫だった? 私のせいで、結構ゴーストに囲まれてたけど」
怒りっぽいけど素直な子だ。
目がくりくりしていて、子犬みたいな印象を受ける。
「平気だよ。大人だしな」
「でも大人の人でも……」
「あの病院の奥にいたヤツはボスだったんだ。普通のゴーストとは違うよ」
「ならいいけど……」
これから帰宅なのだろう。スポーツバッグを持っている。その持ち手のところに、色落ちしたぺもんぬのキーホルダーを見つけてしまった。
人違いならいいと心のどこかで思っていたが、やはり本当に親子だったようだな。
「あ、これ? 知ってる? ぺもんぬ」
「名前だけは」
「私、むかしこれ好きだったみたい。ちっともかわいくないのにね」
「……」
俺はなんとか愛想笑いを浮かべようとしたが、実際どんな顔になったことやら。
つらすぎる……。
「これねー、親が買ってくれたの。ボロっちくなっちゃったけど、なんか捨てらんなくて」
「分かるよ。俺もそういうのある。きっと大事にしたほうがいいと思う」
「だよね」
明るい笑顔を見せてくれた。
彼女は、自分に親がいないことまでは言わなかった。その両親との思い出のキーホルダーなのだ。大事に決まっている。
「じゃ、私そろそろ帰るね。今日はありがと。またね」
「ああ、また」
彼女は手をぶんぶん振って去っていった。
鬼司のヤツめ、こんないい子を戦いの道具に使いやがって。
などと怒りに燃えそうになったところで、俺はもっと怖いヤツに出会った。
「冬木さん、女子高生とワンチャンあるとか勘違いしてないよね?」
真後ろに佐藤みずき。
頼むから政治家たちは、足音もなく人の背後に立つのを禁じる法律を作ってくれ。ちゃんと選挙に行くからさ。
「下心なんてないよ」
「どうだか。落ち込んでる女に親切にして、あわよくばと思う男って多いから」
「そうかよ。だが安心してくれ。そういうことにはならないから」
「なるならないの話じゃない。可能性があるだけでも鬱陶しいの」
「そっちへ振り向いてもいいか?」
「なんの許可よ? 勝手にすれば?」
手に刃物を持っていないことを願いつつ、俺は向きを変えた。
ポニーテールでもなく、髪の濡れたままの佐藤みずきが、そこに立っていた。
しかし色っぽいというよりは、亡霊みたいな雰囲気を漂わせていた。
「なあ、佐藤さんよ。あんたも見ただろ? あの子は父親を失ったんだぞ? ちょっとは優しくしてやろうと思わないのかよ?」
「冬木さん、あなたサイコパスなだけじゃなく、偽善者でもあるワケ? そうやって気を遣ってたら、余計に気づかれるでしょ?」
「一理ある。だがサイコパスじゃない。偽善者なのは否定しないが」
「偽善パスよ」
「……」
いまのギャグか?
たぶん酒の席だったら爆笑してたと思うが、このタイミングだと軽く心臓が止まりそうだ。
照れ隠しのつもりか、佐藤みずきは手で髪をわしゃわしゃと暴れさせた。
「とにかく、あなたは女子高生に近づかないで。犯罪っぽい感じがするし」
「分かった。なるべく距離をとるよ」
「あと、勘違いされると困るから、いちおう言っとくけど。別に嫉妬とかじゃないから。あなたにいい思いして欲しくないだけ」
「オーケー」
とんでもなく性格がねじ曲がっている。
だが、すべては世界が悪いのだ。
世界がこいつの性格を捻じ曲げた。
俺が怒ったところで、その過去は変わらない。
通り過ぎようとすると、すかさず呼び止められた。
「どこ行くの?」
「酒だよ」
「たまにはまっすぐ帰ったら?」
「タダ酒なんだぜ? 飲まなきゃもったいない」
「そんなこと言って、鬼司とワンチャンあるとか考えてないでしょうね?」
「どうだろうな」
「死ね……」
いちいち怖いんだよ。
どうせ相手にされてないんだし、それくらいいいだろうが。
*
俺が酒を飲んでいると、佐藤みずきは忌々しげな顔で帰っていった。
大広間には二人きり。
鬼司がぼんやり虚空を見つめる脇で、俺はひとり酒を飲む。
このザマじゃワンチャンもネコチャンもあったもんじゃない。
「鬼司さんよ、こないだの話、覚えてるか?」
彼女はギョロリと眼球を動かし、こちらを見た。
「どの話です?」
「賞品として、あんたをもらいたいって話だよ」
きっと素面じゃ言えない。
こういうところが、酔っ払いの嫌われるところなんだろう。ま、俺は気にしないが。
彼女はにこりともしなかった。
「人と交わっても、いい思い出がありませんので」
「だから殺すのか?」
「いいえ。勝手に死ぬのですよ。人の寿命は長くありませんから」
「前の男が何年生きたか知らないけど、俺の寿命が短いとは限らないぜ」
「長生きした鬼道師はおりませんよ」
「つめてぇな……」
結果は最初から分かっていたが。
すると彼女は居住まいを正し、こちらへ向き直った。
「あなたには、佐藤さまがいるではありませんか?」
「そういう仲じゃないよ。あんたも知ってるだろ」
「お似合いだと思いますが」
「勘弁してよ」
幼馴染だからといって、仲良くする筋合いはない。
そもそも、あの女の頭になにがあるのか、サッパリ分からない。
きっと破滅的なことしか考えていないんだろう。
誰にも幸福になって欲しくないのだ。
そしてまた、自分も幸福になりたくないのだ。
学生時代、この世界が、彼女に優しくなかったばっかりに。
(続く)