ブレーキ
その晩、本当に蛇の白焼きとやらを食わされた。
味は悪くなかった。
しかも体が必要以上に元気になった。
*
さて、鬼司の夫になったので、いろいろなことを聞き出せた。
かつて無盡原を支配していたのが、「閻魔」を名乗る男だったこと。もちろん本物の閻魔ではない。あくまで自称だ。
しかも男というか、少年であったらしい。
着任早々、男の鬼を追い払い、女だけにした。
その支配は、やりたい放題であったようだ。
閻魔ははじめ、鬼司に目をつけた。だが鬼司が固辞すると、姉イシに手を出した。かくしてイシが正妻となった。
だがまもなく、イシに不貞の疑いがかけられる。
浮気をしていたという告発があった。
男の鬼はいなかったのだが、亡者に手を出したということになっていた。
イシは追い詰められた。そんなことをしていないと訴えたのだが、閻魔は納得しなかった。
イシは処罰され、志許売に姿を変えられた。
鬼司は、姉の代わりに正妻となった。
閻魔は女たちを侍らせながら、見せつけるように交わった。
閻魔の寵愛を受けないものは、無盡原では志許売にされる。
しかし寵愛を受ければ、他の女より一段高い扱いを受ける。
女たちはこぞって閻魔に媚びを売った。
最終的に、このレースを制したのはナミであった。
そして鬼司に離縁が申し渡され、その期日が迫ったある日、閻魔は天の裁きを受けた。
ただ男一人に頼っていた秩序と権威は、一瞬にして消滅した。
女たちはうろたえた。
低俗なケンカを始めるものもいた。
怒りで志許売に変貌するものもいた。
鬼司はなんとか秩序を取り戻すべく、自分が無盡原を統治すると宣言した。
するとナミも名乗りを上げた。
彼女たちは黄泉国の政府に文書を提出し、いくらか修正を受けたのちゲームを始めることとなった。
それは長い戦いとなった。
ほとんどの女たちは愛想を尽かし、無盡原を去った。
いまでは鬼司とナミ、そして自我を失った志許売だけが、無盡原で戦いを続けている。
*
山菜と栗の炊き込みご飯。
俺はホクホクのメシをかっ込みながら、無盡原の行く末を思った。
あまりにしょうのない戦いだ。
もう住民などいないのだから、秩序はこれ以上乱れようもない。
鬼司が守ろうとしたものはすでに存在しないのだ。
なのに、決め事を交わしてしまったせいで、戦いをやめることができなくなっている。
不毛としか言いようがない。
椀を置くと、すすっと鬼司が寄ってきた。
「粗茶をどうぞ」
「ありがとう」
食事の途中でどこかへ行ったと思ったら、すぐこれだ。
俺の食事の進み具合を見ながら、あれこれ気を回してくれる。
それは嬉しいのだが……。
「近ごろ寒くなってきましたので、少し熱めにいれました。お気をつけくださいね」
「うん」
彼女は俺のためにいろいろしてくれる。
なのに俺は、彼女のためになにもできていない。
夫婦とはいったい……。
*
もちろん俺も、自由気ままというわけではない。
まず一点。屋敷から出ることを禁じられた。軟禁状態だ。会社にも行けない。
そして二点目。ネットができない。禁じられているというわけではないのだが、設備がない。鬼司にお願いしても、なんだか承諾してくれそうな気配がない。
なので俺は、ネットを遮断されたまま、この薄暗い屋敷で鬼司と二人きりで過ごすしかなかった。
しかも身の回りの世話はすべて鬼司がやるから、俺はただ生きているだけ。
寝転がってるだけでメシが食えるのだから、人によっては天国に思えるかもしれない。美人で甘えん坊の鬼もいる。
「旦那さま、なにか食べたいものはありますか?」
「蛇以外ならなんでも」
「ふふふ」
かわいい。
だがこちらは冗談を言っているのではない。
蛇は脂がのっていて旨かった。
そして体が元気になりすぎる。
*
だがある日、鬼司は血相を変えて俺に近づいてきた。
「旦那さま! 旦那さま!」
「どうしたの?」
敵との戦闘でも始まるのだろうか。
あるいは予想外の襲撃が?
「じつは用事ができて、半日ほど留守にせねばなりません」
「あ、出かけるの? いいよ。なにかできることある?」
鬼司は広間の雑巾がけやら、風呂掃除やら、いつも体を動かしている。俺もひとつくらい手伝うべきだろう。
だが、彼女は血走った目でこう応じた。
「いいえ! なにもしないでください!」
「なにも?」
「経験上、私が留守にしていると、例の小娘が必ず入り込んできます。ですので……」
コソ泥みたいな女だな。
だが俺も、彼女たちの決め事については少し学んだ。
「大丈夫だよ。丁重にお引き取り願うから。戦闘もしない」
「ええ、まあ、それはそうなのですが……」
「ほかにもなにか?」
鬼司は視線を泳がせまくっている。
この上ない動揺。
「で、ですから、その……」
「直接の戦闘は禁止なんだよね? 分かってるよ」
「いえ、ですから色仕掛けでですね……」
「えっ?」
ぷるぷると震えている。
拳を握りしめ、感情はいつしか怒りへとシフトしたようだった。
「あの阿婆擦れ、隙あらば人の男を寝取ろうとしてきますので!」
「寝取る……」
「その毒牙を逃れた男は、これまで一人もおりませぬ……」
「……」
みんな寝取られたのか。
なら彼女が怒るのもムリないな。
「安心してくれ。俺は君の夫なんだぜ。よその女には手を出さない」
「みんな口ではそう言いました……」
「誓いを立てる。まずは君に誓う。そして俺自身に誓う。俺はサークル・クラッシャーみたいな女は好きじゃないんだ。ジ・オーダーに反するからな」
「もし約束を破ったら?」
「鍋の具にしてくれ」
俺は自分でも驚くようなことを言った。
特に根拠もないのに大丈夫だろうか。
鬼司は身を寄せてきた。
「旦那さま! 私のことをそこまで……!」
「君は安心して出かけてくるといい」
「はい! 信じてますね、旦那さま!」
瞳を潤ませている。
よほど切実な問題なのだろう。
というより、過去の男たちよ、こんないい子を泣かせちゃダメだろうが。どいつもこいつも。
*
かくして鬼司は支度を済ませ、家を出た。
例の古物商と、なにやら大事な商談があるのだという。
さて、あとは俺が留守をつとめればいいだけの話。
俺はただの凡夫だが、それでも無盡原で戦ってきた。いまやゴーストに臆することもない。志許売の襲撃も生き延びた。みずから鍋の具になるほど愚かではない。命の捨て所はここではない。
「ね、人間! えっちしよ?」
「貴様ァ……」
普通に入ってきた。
ヘソを隠す気もないブラウス。ギリギリすぎるミニスカート。
なぜ制服姿なのであろうか!
いつもの巫女装束はどうした!?
「え、なんでそんな怖い顔してんの?」
「残念だが、あんたと話すことはなにもない。お引き取り願おう」
「ふぅーん」
にぃと笑みを浮かべて、顔を近づけてきた。
かわいい。
というより、この子は顔だけはいい。
彼女はくるりとターンした。
「ね、見てよこの服! かわいいっしょ? 男の人にウケるんだって? 人間も欲情する?」
「しない。失せろ。用はない」
「えー、なんでそんなつめたいの? 怖いんだけど」
「俺は鬼司を裏切る気はない」
彼女の表情を思い出す。
すがりついて、瞳を潤ませていた。
彼女は過去に何度も裏切られて来たのだ。せめて俺くらいは……。
だが、ナミは余裕の笑みだった。
「えー? でも人間が裏切られてる可能性はないの?」
「ないな」
「言い切れる? 古物商と商談とか言って、どこの男と会ってるかも分からないのに?」
「そんな女じゃない」
「ぜんぜん分かってない。あたしら、鬼なんだよ? 欲望のまま生きてんの。だいたい、この戦いに選ばれてる男たち、なに基準で選ばれてるか分かってる?」
なにか基準があるというのか?
ナミの答えはこうだ。
「結婚したい相手をピックアップしてんの。分かる? お歯黒ババア、この戦いを婚活に使ってんの! あいつも結構な阿婆擦れなんだから」
「勝手なことを言うな」
「勝手じゃないよ。最近入ったイケメンいるじゃん? あれに言い寄られたら、たぶん秒でオチるよ」
「証拠は?」
「あるよ」
*
俺はナミの黒い石から、過去の記憶を見せてもらった。
それによると鬼司は、そのとき将来を約束していた男がいたにも関わらず、言い寄ってきた男全員と関係を持っていた。悪びれた様子もなく。
「ウソだろ……」
「ウソじゃないよ。これが鬼の本性。理性なんて、ほとんどないんだから。だって、きもちぃほうがいいもんね。だから人間、あたしとえっちしようよ?」
「……」
いや、それはない。
鬼司がそういう人物だからといって、俺が同じことをしていい理由にはならない。
ならないが、俺は心の底から嫌悪をおぼえた。
フタをしていた感情が、溢れ出しそうになる。
「きゃっ」
俺はナミの角をつかみ、横倒しに投げ飛ばした。
「失せろ。いますぐ」
「ぼ、暴力はルール違反だよ……」
「いいから失せろ。ルールとかどうでもよくなりかけてるから。いまから刀を取ってくる。もし戻ってきたときにまだいたら、お前を殺す」
誰しも欲には勝てない。
それは分からなくもない。
俺もいま殺意に飲まれそうになっている。
人はしばしば心の交通事故を起こす。
だが、その前段として、人はこういう事故を、ちょっとした努力で防止できるはずなのだ。なのに、防止しようとさえしないのであれば、あらゆるものを失う覚悟でいて欲しい。
感情の屋台骨は、いっぺん抜いてしまえば、あとからハメ込んでも元には戻らない。
*
刀を手にして戻ると、ナミはまだそこにいた。
いたが、ちんまりと土下座していた。
「ご、ごめん人間! まさかそこまで怒ると思ってなかったから! でもあの映像はホントなの! あたしが勝手に作ったんじゃないよ? 鬼ってそもそもそーゆーものだし……」
「そこは怒ってない」
「じゃあ、なにが不満なの? 人間を誘惑しようとしたこと?」
「そうだな。けど、きっとそれだけなら、俺ももっと冷静でいられた……」
鬼司という女が、もっと理性的な女であったなら……。
俺は刀を放り、座布団に腰をおろした。
「頭をさげている相手を斬りはしない。けど、頼むから帰ってくれ。心の整理がつきそうにない」
「う、うん。ごめん。帰る。今日のことは、お互い忘れようね」
「……」
忘れられるものか。
鬼司、本当に君は、男なら誰でもいいのか……。
ナミは身を起こすと、苦笑いを浮かべたまま、そろりそろりと帰っていった。
じつにくだらない策だった。
過去の男たちは、こんなのに乗せられて、ナミに手を出していたのか。
男も女も、みんなクソだ。
ブレーキの利かないヤツは例外なく。
(続く)