サイコパス
鍋が供された。
白菜に豆腐、鶏肉、きのこ、水菜。
いわゆる水炊きだ。
椀にはつやのある白飯も盛られている。
「どうぞお召し上がりください」
「……」
すました顔でメシを勧めてくる。
ナミはいまだ天井から吊られたまま。
「あのー、彼女はいつまで吊るしておくつもりなんだ?」
俺が尋ねると、鬼司は微笑のまま首をかしげた。
「気になりますか?」
「なるよ」
「目障りでしたら処分しますが……」
するとナミは「やめてー」と体をバタつかせた。
着物の上からとはいえ、麻縄が食い込んで痛そうだ。
鬼司はかすかに息を吐いたかと思うと、ふところから小刀を取り出し、手首のスナップでヒュンと投げ飛ばした。
「ぎゃん」
刃は見事に麻縄を切断。
ナミはゴッと鈍い音を立て、床へ墜落した。
かなり痛そうだ。
佐藤みずきは満足そうな顔で、音もなく拍手をしている。
ここにはサディストしかいないようだ。
「さ、食事にいたしましょう。ですが、もしまだ気になるようでしたら……」
「いや結構。十分だよ」
鬼司がとんでもないことをしでかしそうだったので、俺もこれ以上は言わないことにした。
*
味はよかった。
薄味ではあったが、鳥と白菜の旨味がよく出ていた。
「ごちそうさま」
「お粗末さまです」
「いつも鬼司さんがひとりで?」
「ええ」
ここの支配者の妻だったというのに、ひとりで料理を作っている。
しかも普段は、俺たち人間のためにさえ。
前時代的と言われるかもしれないが、それでも男は、料理のできる美人に弱い。そんな鬼司に離縁を迫るとは、ここの支配者とかいうヤツは、いったいどういうつもりだったのだろうか。
あとから来たナミのような若い女が、すべてを覆すのは、どこの昔話にもよく出てくる話ではあるが。
「ちょっと、お歯黒ババア! あたしにも食べさせなさいよ!」
「鍋の具になりたくなかったら、もう少し言葉遣いを改めたほうがいいのでは?」
いまだに犬猿の仲というわけだ。
*
食事が終わると、鬼司はナミの足をつかみ、通路の奥へと引きずっていった。
「なに? どこ行くの? ねえ、人間! 助けてよ!」
声が遠ざかってゆく。
しかし乱暴するつもりはないだろう。
結局、大量の刃物は脅しにしか使われなかった。
しばらくすると、鬼司が一人で戻ってきた。
「冬木さま、一献いかがです?」
「いや、いいよ。今日は佐藤さんと一緒に帰るから」
「もう遅いですし、お泊りになられては?」
「いやぁ……」
正直、泊まりたい気持ちはある。
一人で来ていたなら。
佐藤みずきは真顔だ。
「そうね。もう帰るわ」
「沐浴はなさいます?」
「いらない。それより車を用意して。もう用もないし」
まるで召使いにでも命じるような態度だ。
もっとも、彼女たちの下半身の都合で、こちらは命を危険にさらしているわけだ。こんな態度になるのもムリはない。
俺が「悪いね」と言うと、鬼司は微笑のままかぶりを振った。
「ではすぐにお車を手配します。しばしお待ちを」
*
佐藤みずきの希望で、なぜか同じ車に乗ることになった。
二台で帰ったほうが効率的なのに。
「私、今日はあなたの家に泊まるわ」
「は?」
窓の外を眺めていた佐藤みずきが、いきなり奇妙なことを言い出した。
身勝手の極み。
彼女は、俺の返事がお気に召さなかったのか、ゆっくりとこちらへ向き直った。
「なにか困るの?」
「客人を招けるような部屋じゃない」
「寝る場所くらいあるんでしょ?」
「ああ。俺の寝るスペースがな」
「ならそこでいいわ」
そこでいい?
まあそうかもしれない。
こいつはいいんだろう。
だが、俺がよくない。
「そうやっていつも男の家に転がり込んでるのか?」
俺はそんな言葉を返した。
イヤな気分にさせてやろうと思ったのだ。
彼女はうっすらと笑みを浮かべた。
「するわけないでしょ?」
「なら、なんで俺だけ」
「気づいたの。自分より弱い立場の相手に、偉そうに振る舞うのって、楽しいなって」
「仕返しってことか。つまり君を家に泊めれば、もう過去を清算したってことでいいってわけだな?」
「それはあなたの良心の問題ね」
じつにいいところを突いてくるな。
いまの俺は、ガキのころと違って良心の塊だ。
そう言われちゃ、応じないわけにはいかない。
「分かった。ただ、もう人殺しなんて依頼しないでくれよ」
「しない。そっちは鬼道師の仕事で叶えてもらうから」
「もうひとつ。ちょっと散らかってるけど、苦情は言わないでくれ。俺のせいじゃないからな」
「はい?」
*
というわけで、渋々ではあったが、佐藤みずきを自宅へ招き入れた。
雑然とした我がアパートへ。
「まあ散らかってるけど、べつに歩けないほどじゃないじゃない」
「うん……」
彼女にソファをすすめて、俺はクッションに腰をおろした。
飲み物を出したりはしない。出せるようなものもない。
だから途中でコンビニに寄った。
佐藤みずきはしげしげと室内を観察している。
「バイク好きなの?」
「いや」
「でも雑誌もポスターもバイクばっかり」
古びた棚、古びた雑誌、古びたポスター。
どれも俺のセンスじゃない。
俺は素直に応じた。
「前の住人のだよ」
「えっ?」
「といっても、俺が追い出したわけじゃない。居抜き物件……って言っていいのかな。夜逃げしたらしくてね。値段が安かったから、そのまま使ってる」
「えっ?」
さすがにドン引きしているな。
それがどんな住人だったのかは、じつは俺も知らない。
きっとバイク好きだったんだろう。
工具とヘルメットも置きっぱなし。
エロ雑誌もあった。
日用品は男物ばかり。
「俺、好きなんだよね、こういうの。人の家に勝手に住んでるみたいでさ」
「実際、人の家に勝手に住んでるんでしょ?」
「ちゃんと契約してるよ」
「信じられない。気持ち悪くないの?」
「気持ち悪いし、気に食わないところだらけだね」
「じゃあなんで住んでるの……」
ソファに座るのも不快になったのか、佐藤みずきは立ち上がってしまった。
「なんでだろうなぁ。たとえば人類が滅んだあとにさ、サヴァイヴするとしたら、こんな感じかなって思うんだよね」
「本気で世界を滅ぼしたいの?」
「想像するだけだよ。もしこの地上から全人類を消そうと思ったら、とんでもない大仕事になる。そんな努力をするくらいなら、普通に金稼いで楽しんだほうがマシだろ」
「当たり前でしょ……」
身をちぢこめている。
もう帰りたそうだ。
実際そうしてくれるなら、こちらとしてはありがたい。
「やっぱりサイコパスだった」
「違う。もし俺が追い出したんならそう言われても仕方ないけど。これはちゃんと合法なんだ。非難されるいわれはない」
俺はペットボトルの麦茶を飲んだ。
ほっと安心する味わい。
佐藤みずきは観念したのか、ソファに腰をおろした。
「はぁ。やっぱりああいうタイプの子供は、こういう大人に育つんだ……」
「俺に言わせりゃ、君のほうがどうかしてるよ」
「どこが?」
「好きでもない男の家に泊まるなんて」
「は? 好きだけど?」
「は?」
鼻から麦茶が出そうになった。
好き?
冗談というより、もはや愚弄に近いな。
ここがアメリカだったら、裁判か、もしくは銃撃戦になっているところだ。
「クソみたいなジョークをさ……」
「違う。ジョークじゃない。好きなの」
「本気で?」
「この世界に現存する男の中で、一番好き」
「……」
消去法、というわけか。
いちおう告白っぽい感じなのだと思うが、彼女に照れた様子はない。
「でも、あなたは私を好きになる必要はないわ。私は立場を利用して、あなたを追い詰めてるだけだから」
「いじめだな」
「そうよ。いじめてるの。でも私は優しいほうよ。相手が泣いたら許してあげるんだから」
「泣けばいいのか?」
「いまはやめて。帰りの電車ないんだから」
頭がどうにかなりそうだ。
愛の告白のはずなのに、まったく興奮しない。
邪魔としか思えない。
ウザい友人が、予定外の時間に泊まりに来た感じだ。
「君の考えが理解できない」
「当然でしょ。誰だって、他人の考えなんて理解できないんだから」
「でも普通、推測くらいはできる。君の場合は、推測さえできない」
「寝てる間になにしてもいいけど、赤ちゃんできたら責任とってね」
「安心してくれ。そんな気はない」
倫理観がぶっ壊れている。
まあ、ナメられているだけの可能性もあるが。
それでも、ナメられるだけで済むなら安いものだ。
*
その晩、もちろんなにごともなく終わった。
彼女はソファで、俺は布団で寝た。
性欲はまったく湧かなかった。
頭が混乱してそれどころではなかったのだ。
「起きなさいよ。いつまで寝てるの?」
朝、目覚ましが鳴る前に、佐藤みずきに起こされた。
「何時?」
「六時半」
まだメイク前ではあったが、彼女は一通り身なりを整えていた。
本来ならあと二十分は寝られるところだ。
「分かった。起きるよ」
「なにか食べたいものある? 買ってくるけど」
「じゃあおにぎりでも。財布はそこにあるから」
「いい。私が払うから」
行ってしまった。
*
顔を洗っていると、彼女が戻ってきた。
「ただいま」
「お帰り」
「いまの私、なんか彼女ヅラしてる勘違い女みたいじゃない?」
「奇遇だな、俺もそう思ってたところだ」
認知能力まではぶっ壊れていないらしい。
「これ、おにぎり。鮭と梅とツナマヨ。あとお茶」
「ありがとう」
「ひとつ残しておいてね。私も食べるから」
「先に選んでいいよ」
「じゃあツナマヨ」
ぐっ、それは俺が食おうと……。
朝のニュースを眺めながら、俺たちはもそもそとおにぎりを食った。
想像通りの味。
質は悪くない。だが値が高い。こっそり量も減らされている。最近のコンビニは、庶民の店というよりは、一人暮らしの会社員向けになっている。
「佐藤さんよ、昨日のことなんだけどさ」
「うん?」
「俺と付き合いたいとか、そういうことじゃないんだよな?」
「違う」
「じゃあなんなんだ」
「今後もたまに泊まりに来るから」
テレビを観ながらそんなことを言う。
まったく答えになっていないのだが……。
「彼氏、作らないのか?」
「作ってもいいけど、だいたい都合のいい女としか思われないから」
「そんな男と付き合うなよ……」
「でも一人は寂しいじゃない?」
そんな理由で……。
一瞬、トラウマがフラッシュバックしそうになり、俺は慌てて記憶にフタをした。
記憶、というか、感情に。
「俺は、過去を清算したいとは思ってるんだ。そのためなら、まあ泊まるくらいなら受け入れてもいい。けど、それ以上はさ……」
「べつにいいよ。特になにも期待してないし」
閉じたコミュニティ内で「男女の関係」が発生すると、他の関係性まで壊れることがある。いわゆるサークルクラッシュだ。ジ・オーダーとは対極の状態。
無盡原の対立だって、それが原因だろう。
だから俺は、相手を探すときは、なるべく輪の外へ目を向ける。秩序の破壊というリスクを負ってまで、わざわざ輪の中から相手を選ぶ必要はない。
鬼司に手を出すのはギリギリでアウトな気もするが……。結果として相手にされなかったわけだから、セーフということにしておこう。
テレビのニュースは相変わらず。
愛くるしい動物のニュース、危険な煽り運転、海外の災害、生活の知恵と称した新商品のアピール、ミュージシャンが映画のタイアップで新曲をリリース、本が何万部売れたのどうのこうの、お笑い芸人のワイプ……。
政治の話はほぼナシ。
能動的に調べようとしない限り、社会構造に興味を持つ機会さえ与えられない。
空疎な気持ちのまま、俺は左上の時刻を眺めるだけ。
今日もまた、ブラック企業での勤務が始まる。
(続く)