第8話 罪深い愛
春が去り夏が顔を覗かせる今、貴女は何処にいるのかしら。
青空に白い雲が映えるこの季節は貴女の瞳を思い出す。18年前、唯一貴女が私の前で目を開いた瞬間の色が、忘れられない。
彼と同じ引き込まれてしまいそうな力強い青灰色の瞳。きっと彼も……彼も喜ぶと思ってたの。あんな彼を見るまでは。
愚かな私はただ泣き叫び、心を閉じた。起きればただボンヤリと貴方の瞳と同じ色の空を見つめて、日が登れば思い出に浸り、日が暮れれば現実に涙を流し、冷たいベッドに一人くるまって眠る。何年もそうしてるうちに、気がつけば貴女も何処かに行ってしまった。
「セネット家に平民の血はいらん。婚前交渉なぞしおって、なんのつもりだ。乙女ではない女を娶りたがる物好きなんぞ、まともな男じゃないんだぞ。女のくせに婚約を嫌がった愚か者が」
療養の為、田舎にいたはずの父の言葉が今でも耳に残っている。はっきり、貴女を棄てたと言った父の言葉に、また心を閉じた。
どこかの奥深い所にある部屋の中、私と貴方とあの子が一緒にお茶会をして、楽しくお喋りをする夢の中に、ずっとずっと入り浸ってしまった。
そして、いつの間にか十年以上時間が経っていた。もう、私があの子を産んだ時と同じ歳になってしまった貴女は今、どんな顔をしているの?
貴女のこと何も知らないの。貴女の顔は小さな赤ん坊の寝顔。起きてる顔なんて見たのは一回きり。貴女の温もりなんて分からない。貴女の重さも抱っこしてあげられなかったから、分からない。貴女の好きな物なんてもっと分からない。何色が好き?食べ物は何が好き?お裁縫はどうかしら?読書の方が好きかしら?もしかしたら、野原を走り回るお転婆さん?
何も知らないの。
私の子はどんな子供なの?どんな風に生きているの?素敵な人はいるのかしら?笑って過ごせているのかしら?
ねぇ、『ディアナ』と名付けるはずだった貴女は今どんな名前で生きて、どんな表情で生きているの?幸せに生きていますか?
どうか許して、なんて言わないわ。どれほど愚かな事をしたかなんて、誰に言われなくても分かってる。
子供が生きているのかすら知らない愚かな私のことは忘れてちょうだいな。新しいご両親を本当の親と思ってちょうだい。
けれど、笑顔で過ごすことだけは忘れないで。情け無い親でごめんなさい。
教会の庭に出ると見張り役が後ろをついてくる。ああ、いやねえ。どうせ一人っ子だから家を継ぐ必要のある私が私生児を産まないようにするつもりなんだろうけど、三十代の嫁き遅れをどうこうしたい男なんて居ないんだから意味ないわ。
監視してることを隠しもしない見張りを放って庭を回る。
「ラモーナ姉さん、お久しぶり。五年ぶり、いえ六年ぶりね」
私の教育係の娘のラモーナは数少ない話相手だったが、八年前に養女を引き取ったとかで重荷でしかない私とは疎遠になっていた。
「こんにちは、リリス。正確には六年とニヶ月ぶりよ。体の調子はどう?良ければ今度、お茶会しましょう?セレナが独り立ちして暇なのよ」
もちろん、断る理由はない。庭の隅にあるガーデニングチェアに腰掛け、お喋りに興じていると、カースティン神父の一人息子が近寄ってきた。
「あ、あの……ミ、Ms.セネット。あ、ああ、あの、あの……う、うぅ、と、父さんが、呼んでる」
焦げ茶のミディアムヘアに紺に近い紫の瞳を隠したライリー。目尻は不安そうに垂れていて、社交恐怖のせいでどもりが酷い。
「ああ、ありがとう。ライリー、神父さんがいらっしゃる方を指差してちょうだい」
ビッと孤児院の方を指差したライリーはガバッと頭を下げ、目を丸くしている間に走り去ってしまい、声をかける暇もなく、あっという間に角を曲がって見えなくなった。
「リリス、放っておきなさい。あの子はコミュニケーションをとる事自体負担になるの」
そのままラモーナは買い出しに行くとかで先に帰ってしまった。アルフレッド神父はよく孤児院の方にいるそうだが、今日もそうなのだろうか。
「やぁ、リリス・レア・セネット。体の具合はどうだね」
貫頭衣のようなキャソックに身を包んだアルフレッド神父は抱っこしていた子供を下ろし、椅子を勧めてくれた。
「こんにちは、神父様。体は軽くなりました」
そうか。と微笑むと頭を撫でられた。驚いて払いのけてしまうと、青っぽい紫の瞳に目を奪われた。
「いいかい、リー。失ったモノにいつまでも固執してはいけない。手の中にあるモノを大事にするんだ。君の手の中にあるモノはなんだい?」
彼の温もり?いえ、もう消えてしまった。あの子の母になれた事?もう、あの子の母じゃない。なら、何かしら。
「……まだ、分かりません」
俯くと、また頭を撫でられた。今度は払いのけずただ甘受する。
「まだ分からないならいいさ。『未だ』、なんだ。いつか分かる日が来る。君の手の中にあるモノを探すこと。これは宿題にしよう」
私は弱いわね、いつまでたっても。聖書の背表紙をなぞる。私は女神様のようにはできない。自分の娘のために死ねない、弱い女だわ。
『dear Luna』の章は特に色々な解釈があるが、女神様は私にとって母親の理想像のように見える。
ああ、女神様のように、貴方のために死ねたら。あの子の為に死ねたら、私はどれ程報われたのかしら。
入道雲がすぐそこまで迫ってきた。ああ、そろそろ帰らないと。