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帰り道、りっちゃんは饒舌だった。
一人で観に行った東京地区予選のこと、予選通過を報告しに南と一緒に碁会所へ行ったこと、りっちゃんのうちでお祝い会をしたことを楽しそうに話した。
ことさらに明るい声が痛々しくて、りっちゃんを慰めるすべを知らない自分が歯痒かった。
今日の南についてはりっちゃんも僕も話せないでいた。
地元の駅に着いて、二人で駐輪場まで一緒に歩いた。
「閃、全然楽しそうじゃなかったでしょ」
りっちゃんは唐突に言った。
「え?」
「閃が囲碁を打ってて、心から楽しそうにしてるの見たことないの」
セミの声がうるさくて、りっちゃんの声がうまく届かない。
「今日だって勝っても嬉しそうじゃなかった」
「そんなこと」
一回戦、二回戦で勝利した南は安堵の表情を浮かべただけだった。あまり嬉しそうではなかったかもしれない。でもそれは喜ぶ暇なく次の対局があったからではないのか。
「閃は囲碁が嫌いなの」
「そんなはずないよ」
嫌いならあんなに努力できるわけがない。誰だって好きな気持ちに引っ張られて頑張れるんじゃないか。
「閃はいつも苦しそうに囲碁を打つの。閃は囲碁の対局相手にじゃなくて、囲碁そのものに負けたくなくて必死なの」
りっちゃんの顔が苦しそうに歪む。
「意味わかんないよ」
「そうだよね」
「りっちゃんは南に囲碁やめてもらいたいわけ?」
りっちゃんは南を応援しながら、南が囲碁から離れればいいと思っているように今日一日感じていた。
「閃がやめてくれたら、いいとは思ってる」
「何だよ、それ!! だったらなんで応援なんて誘うんだよ! 何でりっちゃんは応援してるんだよ。南がプロになれるって、一番近くにいるりっちゃんが信じてあげなくてどうするんだよ!!」
僕は逃げた。
ちゃんとさよならもせずにりっちゃんに背を向けて、自転車を漕いだ。
流れる汗がシャツの襟もとに落ちていく。日中はそれほど暑さを感じなかったのに、夕方になって、どうしようもなく暑い。
りっちゃんとそんなふうに別れてしまったから、南の熱が下がったのか気になってもりっちゃんに電話をかけることもできないでいる。南のうちの電話番号はわからないし、知っていてもきっと僕みたいな腑抜けはかけることなんてできない。
窓を閉めてもセミの声が消えなくて、頭の中を整理することもできない。
夏の夜は明るすぎて、眠ることもできない。
寝返りばかり打っていた気もするけれど、それでも朝は来た。
出勤前の母に起こされて、遅い朝食をとる。四つ切りのトースト二枚にバターとブルーベリージャムをのせて、目玉焼きとウインナーにはケチャップをたっぷり、それを冷めたコンソメスープで流し込む。牛乳を取りに冷蔵庫へ行くと、昼食用のラップに包まれた焼きそばがあって、それまで食べてしまう。頭が重くて、せめてお腹を重たくしてバランスを取らなければいけない気がしていた。
食べ過ぎてお腹が切ない。
母がつけっぱなしにしていたテレビのワイドショーを見ながら、リビングのソファで昼寝ができたらどんなに気持ちがいいだろう。そう思っているのに、リビングの隅のノートパソコンが目に入ってしまう。
起動して、囲碁大会のホームページを検索してしまう。
見つけてしまう。
今準々決勝が行われていることがわかってしまう。
囲碁に興味なんかないのに、南だっていないのに、僕が大会二日目に行かないといけない理由なんてないのに、出かける準備をするために階段を駆け上がってしまう。頭の中には考えごとをする隙間なんて残っていないから、自分の行動の意味を見つけることができない。
会場では小学生の部、中学生の部、それぞれ四対局ずつ行われていた。準決勝と順位戦らしい。中学生の部は全員男子で、小学生の部は女子が一人きりだった。昨日より試合も人も少なくて、観戦は小さな輪のようになっている。この輪から南が弾き出されたことを思い出す。それで昨日南を倒した対戦相手を探したけれど、いなかった。昨日の決勝トーナメント一回戦で負けたのだろう。
よどみなく進む対局が昨日より高いレベルであったとしても、それを見る目が僕にはなかった。私語は禁止のはずなのに、りっちゃんみたいな行儀のいい観客ばかりじゃなかった。僕の周りは下手な解説者ばかりで、囲碁がわからない僕の混乱を助長させた。
何をしに来たのだろうと思いながら会場を出る。
廊下にも人は少ない。その少ない人の中に昨日の南の二回戦の相手を見つけた。
その子は廊下の壁に背中をつけて足をぶらぶらさせている。つまらなそうに一人きりで。
「あの」
こんなふうに知らない子、それも女の子に話しかける勇気が僕にあったことに驚く。
女の子は顔を上げて僕を見る。元々のつり目がいっそうきつく感じられた。
「あの、昨日、南の、あの東京の代表の」
「なんや自分、ナンパか?」
女の子が意地悪そうににやりと笑う。
「ちがっ」
「じゃあなんや?」
「昨日、あの、P組の二回戦で当たった南の知り合いなんだけど」
「そんで?」
それでどうしたんだろう。見つけたから話しかけてしまっただけだった。
「やっぱりナンパか。ほんならジュースでも奢ってや」
エントランスまで下りて、昨日南が座り込んだ長椅子の向かい側でジュースを飲んだ。
知らない女の子に声をかけ、お茶に誘う。それだけでナンパとなるならば、僕は生まれて初めてのナンパに成功した。そこだけ切り取って話したら隆はどんなに驚くだろうかと思う。しかしそれが南に繋がる糸になりえるならば、僕はきっと隆には話せないんだ。僕はずるくて小さくて強欲だ。
その子は大阪代表の中学三年生で、永井愛梨という名前だった。
小学校四年生のときに、学校の囲碁クラブへ入会して、あっという間に上達した。
五年生で学校代表に選ばれて団体戦に出ることになった。
結果は惨敗。
小学校の中で完結していた囲碁が外へ広がるきっかけになった。
永井は囲碁教室に通い始める。週に一回の教室で先生に習い、そのほかの日はインターネットで碁を打った。どんどん強くなっていく手応えがあった。
六年生になって全国囲碁大会の大阪地区予選へ出た。結果はベストエイトだった。
中学に囲碁部はなかったけれど、囲碁から離れられず、小学生の頃同様に囲碁漬けの日々を送った。囲碁は上達した。しかし大阪地区予選の壁は高かった。
三年生になり、永井は両親と約束させられることになった。
全国大会で二日目、つまりベストエイトに残れなかったら囲碁をやめると、受験勉強に専念すると、それが自分の人生にとってベストな選択だと納得した。
いつまでも囲碁ばかり打っているわけにはいかない。
まさに背水の陣で挑んだ地区大会で準優勝して、全国大会へ進んだ。
大会の出場者の中には見知った選手、有名な選手がたくさんいた。その中で勝ち進むのは至難の業だと思った。しかし抽選の結果、永井の入ったP組は無名選手揃いだった。いけると感じた。
その通りに一回戦は余裕で勝利した。二回戦も無名の南が相手で敵ではないと思った。しかし南に負けて、三回戦を残し、永井の全国への挑戦は終わった。三回戦は十分もかからずに圧勝した。それで気になって南の対局を見たそうだ。
自分を倒した相手が、圧倒的に負けていた。
しかも負けを認めずに盤上にしがみついている。
みっともないと思った。
囲碁の世界にはマナーがある。
礼の心がある。
南の行いはそれに反すると永井は思った。
囲碁初心者未満の僕に永井は囲碁の勝敗について簡単に説明してくれた。囲碁では最後まで打って、地、つまり升目を数えて勝敗を決める場合と、対局の途中で大差がついてこれ以上進めても勝ち目がないときは潔く負けを認めて終わる場合がある。素人目にはわからなくても囲碁を知っている人から見たら、昨日の南が止まったところはもう投了、つまり「ありません」と負けを認めるべき局面だった。そう見えた。たしかにおじいちゃんプロもそんなことを言っていた気がする。
しかし南はあわや形勢逆転というところまで相手を追いつめた。
永井は対局中に泣きながら打って、それでも負けを認められなかった小学生時代を思い出した。
囲碁を諦めない自分を思い出した。
囲碁をやめる約束は半分だけしか守れない。
帰ったら受験勉強に専念する。
そして囲碁の強い高校へ入って、高校生日本一を目指す。
囲碁のない未来は想像できない。
そんな話を流暢な関西弁で軽やかに話してくれた。
永井の携帯電話が鳴って、一緒に来ている囲碁教室の先生が呼んでいると言った。永井は囲碁教室の先生とほかの大阪代表の子やその保護者たちと一緒に来ていた。
「色々教えてくれてありがとう」
「こちらこそジュースごちそうさま」
「永井は囲碁が好きだよね?」
これだけは訊きたかった。
「好きちゃうで。好きやなんて言葉じゃ足りひん。うちは囲碁がなかったら退屈で死んでまうわ」
そう言って永井は僕に手を振ってエレベーターに向かった。見送りながら、今日の永井は銀色のヘアピンをしていなかったなと、どうでもいいことを思う。
目の前の無人の椅子に昨日の南を思う。
座り込んだきり動けなくなった南。
多分限界まで消耗していた南。
お祖父さんに抱きかかえられるようにして、タクシーに乗り込んだ南。
南、南、南、南……。
南を思う。
バターになりそうなくらい、ぐるぐる思う。