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二回戦開始の十分前に南は席に着いて、僕とりっちゃんは話しながら開始の合図を待っていた。
「囲碁のプロって、誰かの弟子にならないとなれないもなの?」
気になっていたので訊いてみる。
「違うけど。師匠がいたほうが、早く上達するかもしれない」
「あの人、美人だけど、何か感じ悪くなかった」
「向坂プロのこと?」
「うん」
「あれは南が悪いよ。向坂プロって、たしかにすごく美人で人気だけど、それだけじゃなくて、実力もあるんだよ。女流タイトルも取ったことあるし、勝率も高い」
向坂プロの肩を持つようなりっちゃんに少し腹が立つ。タイトルとか勝率とかよくわからないけど、すごいってことはわかる。きっとプロの中でもトップクラスにいる人なのだろう。
「でもさ、南があんなに真剣に頼んでんのに」
「高橋くんが思ってるより、プロは遠いよ。閃がすべてを捨てて目指しても届かないかもしてないくらい、すごく遠いんだよ」
「りっちゃんは南がプロになれないと思ってるの?」
声を荒げてしまう。
「なれないとは思わない。閃がこのまま望むなら、なれたらいいとは思う」
それきりりっちゃんは黙ってしまって、僕は苛立ちを抱えたまま、二回戦が始まるのを待った。
南の二回戦の相手は女子だった。
ピンクのフリルのついた半袖ブラウスに、紺色の膝までのスカート。ショートカットの前髪には銀色の星形の飾りがついたヘアピン。ちょっとつり目で、勝ち気そうな顔立ちをしている。
「どっから来たん?」
対局前に対戦相手の子が南に話しかけた。関西のイントネーションが耳慣れないせいか、きつく感じる。
「東京」
南はそっけなく返す。
「ふうん。見たことない気がするんやけど、もしかして元院生かあ?」
院生とは何だろう?
となりのりっちゃんに訊きたい気もしたけれど、さっきの気まずさを引きずって、りっちゃんに話しかけづらかった。
「違う」
「そか」
そこで二人の会話は途切れて、対局が始まった。
瞬く間に盤上が石で埋められていく。先ほどの対局よりずっとスピーディーに進んでいく。南は今回も白で、打つ姿がやはり綺麗だ。
対局は先ほどより長くかかり、今回も南の勝ちだった。南はまた結果の報告をしに行って、今度は席には戻らずに僕たちのところへ来た。
「りっちゃん、ちょっと出よ」
小声で南が言って、僕たちは廊下へ出た。
廊下には対局を終えた選手たちやその家族が話をしたり、休憩をしたりしていた。そこに混じって南も休憩を取る。お昼のときみたいに南は目をつむらなかった。おかげで僕は自分の視線の向かう先に迷った。
どうしても南ばかりを見てしまう。
「食べすぎだと思ってるでしょ?」
僕の凝視が気になったのか、南がちょっとはにかんで、それがかわいすぎてまいってしまう。
「囲碁ってすごく頭を使うから、甘いものがすっごく欲しくなっちゃうんだよね」
恥ずかしそうにする南はたしかに食べすぎだった。板チョコ二枚と大判のマカダミアクッキーを一枚すでに平らげている。
「そうなんだ」
本当は南がかわいくて見惚れていただけなんだけどね、なんて言えるわけがない。
「りっちゃん、ちょっと休む」
そう言って壁に寄りかかって立ったまま南は目を閉じた。
「多分、私たちが思うより、ずっと対局って疲れるんだと思う」
りっちゃんが小さな声で話す。
「一手打つあの短い間に、閃は頭の中を猛スピードで回転させてる」
「うん」
「だから心配になる。閃がどんどん消耗されていくみたいで」
囲碁の魅力を掴み切れない僕は南がなぜこんなに過酷な挑戦をしているのか理解できないでいた。
りっちゃんが声をかける前に南は目を開けて、三回戦の席へ向かった。
三回戦の相手は小柄で細身、柔らかそうな肌が中学生にしては幼い印象の男子だった。
それまでと同じように対局は始まり、南は今日初めての黒だった。南の早さに比べて、相手は少しゆったりとしたリズムで白を繰り出していく。
盤上には順調に黒と白が並んでいった。
十分過ぎ、南の手が止まった。
盤上を見ても優劣はわからない。
いつまで経っても南は動かず、相手の選手が焦れたようにペットボトルの水を飲んだ。横のりっちゃんと目を合わせる。りっちゃんもよくわかっていないようだった。でも僕たちは南がまずい状態なのではないのかとういうことだけは気づいていた。
南の目は盤上で何かを探すように彷徨っている。
「あの女の子の友だちかい?」
私語は禁止のはずなのに、小声とはいえ話しかけられて驚く。朝見かけたおじいちゃんプロが僕のとなりで南を指差していた。
「はい」
無視するわけにもいかず小声で返事をする。
「残念じゃが、終わりじゃな」
おじいちゃんプロの言葉につい声が大きくなる。
「何でですか!」
周囲の視線が僕に向き、りっちゃんが人差し指を口元にあて、しっとジェスチャーをする。
「君は碁を知らんようじゃな」
おじいちゃんプロは周囲の視線など気にならないように続ける。
「はい、まあ」
「ありゃ、もうこのまま進めても黒に勝ち目はないんじゃ」
まだ盤上は三分の一も埋まっていないのに、それは理不尽なような気がした。
「あとは負けを認めるだけじゃ」
おじいちゃんプロはそう言ったけど、南は諦めなかった。
南がさらにたっぷり時間を使って次の一手を打った。僕には碁打ちの良し悪しなんてわからない。ただその一手はおじいちゃんプロを唸らせた。
「うううむ」
そしておじいちゃんプロが楽しそうに言った。
「ははあ。こういうことがあるから、いつまでも碁がやめられん」
それから南は止まることなく、黒い碁石を盤上に送り出し続けた。
対局時間が終わり、碁盤は並べ替えられて、升目が数えられる。ルールを知らない僕はただ見つめるしかない。
「惜しかったなあ」
おじいちゃんプロが言った。
南の対戦相手が席を立ち、勝敗を係の人に伝えに行った。
南は席に取り残されている。負けたのだ。
「序盤がまずかった。じゃが、あの一手は素晴らしかった。あれで流れが変わった。あの状況から二目差までとは。ああいう子が伸びてくるのかもしれん」
おじいちゃんプロのひとりごとの最中に、南は沈鬱な顔で僕たちのところへ来て、ごめん、と言って、会場から出ていった。
南は一度も立ち止まらずに階段でエントランスまで下りて、そこの長椅子に崩れるように座った。
そしてそのまま動けなくなった。
南は発熱していた。
電車で帰れそうもなかったので、りっちゃんが南のお祖父さんへ連絡して迎えに来てもらった。南のお祖父さんは僕たちに何度もお礼を言ってから南を連れ帰った。