7
全部の試合が終わって、アナウンスが流れた。
「これから十二時半までお昼休憩になります。各自昼食を取ったら、五分前には席についてください。新しい席順は十二時以降にボードにて確認をお願いします」
南は動かない。眠っているのだろうか。
「りっちゃん」
となりのりっちゃんを呼ぶ。
「閃はいつもなの。今、頭の中で一人検討してる」
「検討って?」
「検討って、対局を最初から振り返って、こうすればよかったかな、ああすればよかったかなって検討することなんだ。本当は相手がいたほうがいいし、普通はもう一度碁盤に並べていくんだけど、閃は自分の頭の中に碁盤があるから、そこに並べていってるの」
説明されてもよくわからなかった。
「それって、今やった試合を頭で再現してるってこと?」
「そう」
「南って天才なの?」
「違うと思う」
「さっきの再現できるなら天才じゃん」
「ううん、囲碁を真面目にやっている人たちなら、みんなできることみたいだよ」
「じゃあ、囲碁やってる人たちみんな滅茶苦茶頭がいいってこと?」
「そうだと思う。今日、来ている中学生だって、有名なとこの子多いし」
囲碁が僕の中で百段階くらいレベルアップした。
囲碁ってすごい。
南ってすごい。
そんなすごい中のすごいのプロ棋士が、さっきの白髪のおじいちゃんプロで、五段の美人プロなのだ。そう思っていたら、その美人プロが南に近づいてきた。
「具合でも悪いの?」
南の肩に手を乗せて訊く。
「いえ」
南が顔を上げて、美人プロを見上げる。
「向坂先生!!!」
南がつんのめるくらいの勢いで言った。
「ええ」
どうやら向坂という名前らしい美人プロは微笑んで頷く。
「弟子にしてください!!!」
南の唐突なお願いに、僕は隆の告白を思い出し、向坂プロは笑い出し、りっちゃんは慌てて南に駆け寄った。
「何してるの!!」
りっちゃんの言葉を無視して、南は向坂プロを真っすぐに見つめる。その視線は強すぎて、まるで睨んでいるみたいだ。
「お願いします」
南が挑むように向坂プロへ言う。全然お願いする姿勢じゃなくて、近くにいるこっちが焦る。
「閃」
りっちゃんが咎めるみたいに言う。
「お友だちかしら?」
向坂プロがりっちゃんと僕を見て言う。
「私が心配するまでもなかったみたいね」
そう言って背を向けようとする向坂プロに南が続ける。
「お願いします!」
「ふふふ、ごめんなさい」
向坂プロが微笑みながら言う。
「お願いします!」
「私まだ弟子を取るようなレベルじゃないのよ」
「どうしたら弟子にしてくれますか?」
「だから、弟子は取らないの」
「この大会で優勝したら弟子にしてください」
南は真剣で強引だった。
「優勝できると思うの?」
向坂プロの口調が冷たく変わった。冷酷さが美しさを際立たせる。
「はい。そのつもりです」
「どこの代表?」
「東京です」
「名前は?」
「南閃」
「聞いたことがないわね。いいわ。万が一優勝したら、あなたを弟子一号にしてあげる」
「ありがとうございます」
南が深々と頭を下げる。
「お礼なんてしなくていいわ。まぐれで勝てるような大会じゃないから」
向坂プロが会場から出ていく。
よくわからないけれど、南がすごく馬鹿にされたような気がして、腹が立った。万が一なんて、まるで南が優勝できないみたいな口ぶりじゃないか。
「りっちゃん。お腹空いた。人少ないところでお昼食べたい」
南はそれだけ言って、会場を出ていった。
僕とりっちゃんは追いかけるしかない。
どこへ行っても人が多くて、結局僕たちは会場の隅に戻って食べていた。
お弁当はりっちゃんのお母さん特製のカツサンドとポテトサラダサンドで、飲み物は約束通り自動販売機で僕が買った。南がミルクティー、りっちゃんがレモンティー、僕はコーラにした。
りっちゃんも南もさっきのことがなかったみたいに、何も話さないから、僕も何も聞けなくて、もやもやした気持ちのままでサンドイッチを頬張る。南と一緒にいるのに、ちゃんとサンドイッチは美味しくて、コーラはしゅわしゅわして、そんな当たり前が僕のものであることが不思議に感じた。
「サンドイッチ、美味しいね」
無言で食べるのは失礼な気がしてりっちゃんに話しかける。
「ありがとう」
「カツって手作り?」
「そう、お母さんがはりきって朝から揚げてた」
「お母さん料理上手なんだね」
「うん」
りっちゃんと僕の会話は多分南には届いていない。
何と南は目をつむって食べているのだ。多分頭の中で碁石を並べている。
「囲碁のルールがわかんないから、どう見ていいのかわかんなかったよ」
「私もだよ」
「そうなんだ。りっちゃんはどこら辺で南が勝つってわかったの?」
南の前で南って口に出すのに緊張する。南は目を閉じたままで、サンドイッチを頬張っている。
「全然わかんないよ。相手の子がありませんって言うまで、ハラハラしてた」
「そっか」
「次の試合の相手も男子かな?」
沈黙にならないように話題を探しただけだった。
「高橋くん」
南にふいに呼ばれて、全身が震えた。
「囲碁は試合じゃなくて手合。あと手合せとか対局って言うんだよ」
「そうなんだ」
「私、手合わせって言葉が好き」
僕じゃなくて、手合わせが好きって言ったのに、僕の体が勘違いして反応する。顔が熱くてたまらない。南に赤面を見られないように、下を向いたけれど、意味なんてなかった。南は目をつむったまんまだったから。
「ポテトサラダも手作りだよ」
そう言って、りっちゃんは南の空いた手にポテトサラダサンドを乗せる。南はお礼も言わずに、ポテトサラダサンドを口に運ぶ。
囲碁のことしか考えていない南と、南のことばかり考えているみたいなりっちゃん。僕は二人に挟まれて、黙々と残りのサンドイッチを食べた。