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初恋なんてしたくなかった!!   作者: 空図
初恋なんて信じない
5/26

 火曜日が来た。


 駅まで自転車で十分もかからないのに、うちを九時半に出た。遅刻なんてして迷惑をかけられないと思ったからだ。


 駅にりっちゃんはまだいなかった。

 ショーウインドーに映る自分を見る。こんなことはナルシストのかっこつけがやることだと、ちょっと前の自分なら軽蔑していたのに、真剣に細部まで見てしまう。友だちが囲碁の大会に出るから、ちょっとみんなで応援しに行く。そう言ったのに、デートだと思い込んでいる母は全身を新品で揃えてくれた。それは願ってもないお節介だった。

 グレーの半袖シャツはボタンが全部色違いの形違いで、袖口を折り曲げると白と紺のボーダーが覗くようになっている。下は紺色の九分丈のパンツで、細身のシルエットがすっきりとした印象だ。足元も新品のスニーカーで、いつもの母なら絶対に買ってはくれない値段のスポーツブランド。黒とグレーのバイカラーで、今日の服とよく合っていると思う。髪のカットは約束を取りつけた次の日に、母の美容室でやってもらった。長めだけれど、すっきりと仕上がった前髪をワックスで流して、けっこういけていると思う。バッグは革の黒いトートで、これは去年従兄弟がうちに忘れていったのを拝借してきた。

 ガラスに映るよそゆきの自分の姿に気合いが入る。今までは視界に入れなかったかもしれないけれど、今日は南の視界に確実に入るのだ。そう思うと、うずうずした。


「高橋くん、待った?」


 約束の十分前にりっちゃんはやってきた。

 水色と白のストライプのワンピースに、足元は白いサンダルで夏らしく、涼しげだ。肩までの髪はサイドが編み込まれて、かわいらしい。そう、りっちゃんはかわいいのだ。文句なくかわいい。容姿も仕草も声もかわいい。それなのに、りっちゃんのことを好きにならずに、よく知らない南に恋している自分が本気で不思議だった。


「ううん。全然」


 りっちゃんとなら、分裂しない自分でいられると思った。安心できるかわいい女友だち。あの雨の日に出会ったのは、初恋だけじゃなかった。こんなに素敵なガールフレンドにも出会ったのだ。僕はその発見に気分がよくなった。


「りっちゃん、今日、すごくかわいいね」


 りっちゃんの頬が赤く染まるのに満足した。慣れないことをして、自分の頬も熱くなった。


「高橋くんも似合ってると思う」


 りっちゃんは律儀に言ってくれて、僕は簡単に自惚れる。南への制御不能な恋心など放っておいて、りっちゃんと楽しくて甘い関係を築いたらいいんじゃないのかと思った。りっちゃんだって、隆へ片思いを募らせて苦しむより、僕と付き合ってみたら案外楽しいんじゃないだろうか。こうやって、僕は辛い恋の逃げ道を見つけた。


「ちょっと早いけど、行かない?」


 そう言って、りっちゃんの持っていた大きな保冷バッグを持ってあげる。思っていたより軽かった。


「ありがとう」


 りっちゃんの声が震えたのが、緊張でも驚きでもかまわない。南が理不尽に僕の心を奪ったみたいに、りっちゃんの心を奪ってみたい。そんな乱暴な欲望に僕は飲み込まれた。あの日から僕は多重人格になったみたいに忙しない。




 地下鉄は空いていた。二人で並んで座る。今さらデートみたいで少し緊張する。同級生に会ったらなんて言ったらいいのだろうと考える。となりのりっちゃんからは南とは違う女の子の匂いがした。


 りっちゃんは電車の中で、今日の大会の説明をしてくれた。地元の小さな囲碁大会だと思っていた僕は、それが全国大会だと知って衝撃を受けた。リビングのパソコンで下調べしておくべきだったと思う。こんなにも南に恋い焦がれていながら、囲碁のことを調べもしない自分の愚鈍さに呆れる。


 南は選手の受け付けが始まる九時に合わせて会場へ向かったらしい。南が寝坊していないか心配で朝七時に南に電話をしたというりっちゃんが、やっぱりかわいい。


 会場は市ヶ谷駅からすぐ。開会式が十時から始まり、試合は十時半開始予定。僕たちは試合開始に間に合うように行くことになっていた。

 出場選手は全国から精鋭百人。その百人が十六組に分かれて予選リーグを戦い、各組一位だけが決勝トーナメントへ進むことができる。決勝トーナメントの初戦までが一日目の日程だ。りっちゃんはこの大会が二日間にわたって行われることすら僕に教えてくれていなかったのだ。


 明日はどうするのかと僕が訊く前に、りっちゃんは閃にはもちろん勝ってほしいけどかなり厳しいと言った。


 南は五月に行われた東京予選で四位になって、全国大会への出場権を得た。

 全国大会に進めるのは東京四位までなので、ぎりぎりの通過だったらしい。南の囲碁の実力はわからない。でもあんなに毎日囲碁の勉強をしている中学生がほかにいるとは思えなかった。

 囲碁歴半年で、東京代表までなった南は予選の日よりももっと強くなっているはずで、南が負けるとは思えなかった。南は本当にプロになれるかもしれないと無責任に夢想する。




 市ヶ谷駅から徒歩二分。大通りから少し入ったところが会場はだった。勇壮な建物で、威厳とか権威とかを勝手に感じてしまう。


「すごいね」


 囲碁とはこういう立派なものなんだぞって、言われている気がした。


「立派だよね。私も予選のとき、驚いた」

「レゴみたい」

「レゴ、そうかな」


 白と黒が組み合わさった美しい建物は僕にレゴを連想させたが、りっちゃんにはぴんとこなかったみたいだった。


 全国大会と書かれたピンクの旗が揺らめく入り口を抜けて、広いエントランスを通り、案内看板の矢印に従って会場へ向かった。開会式が終わったところらしく、少しざわざわしている。


 会場には中学生に見えないような小さい子供から大人までたくさんいて、少し暑い。子供は男子が多くて、大人の男女比は同じくらいに見える。


「小学生くらいの子も多いね」

「小学生の部に出る子じゃないかな」


 りっちゃんが当たり前みたいに言うから驚いてしまう。


「え?」

「あ、高橋くん知らなかった? この大会は小学生の部と、中学生の部があるんだよ」


 りっちゃんは近くに貼ってあったポスターを指さす。


「知らなかった」


 りっちゃんって何か抜けている。


「ごめんね」


 そう言って首を傾げるから、僕は口の中で別にいいけどって言うしかない。


 人が少なそうな場所へ移動して会場全体を見る。


 広い。


 ずらりと並ぶ机と椅子が壮観だ。机には碁盤が置かれ、碁盤の上には木製のお茶うけ入れのようなものが二つ。多分碁石が入っているのだろう。碁盤のわきには目覚まし時計が二つ並んだようなものがあって、それでタイムを計るのだろうと推測する。


 会場の一角、すごい美人が壇上のそばでカメラに囲まれているのが目に入る。周囲の人の会話から、その美人がプロ棋士で五段だということがわかって驚く。あんなに若くて綺麗な人も囲碁のプロなのだ。その横にいる白髪のおじいちゃんのほうがよっぽど囲碁棋士っぽいのにと思っていると、後ろのおばさんたちの会話でそのおじいちゃんもプロ棋士だとわかる。何段かは話していなかったけれど、すごい段に違いないと思う。


 知らないことばかりで疑問が増えていく。

 囲碁って何段まであるんだろうか?

 この会場にプロは何人いるんだろうか?

 囲碁のプロって全部で何人いるんだろうか?

 プロになるにはどうしたらいいんだろうか?


 帰ったらパソコンで検索してみようと思う。


 南を応援するのに、僕は無知すぎる。



「あ、閃だ!」


 りっちゃんに先を越されて、少し悔しい。

 南は組み合わせ表が貼り出されたボードの前にいた。南を応援に来ているのだから当たり前なのに、南がいて動揺する。心臓が早足になる。南に見つかりたくない気持ちに苛まれる。見たいけど、見られたくない。近づきたいけど、逃げたい。南に関わると、やっぱり僕は分裂してしまう。


「行こ」


 りっちゃんが南に駆け寄っていく。


 会場の中学生が私服七割、制服三割といった中で、南は制服姿だった。

 淡いブルーの見慣れたセーラー服が新鮮に感じるのは、南がいつもの二つ結びではなく、ポニーテールにしているからだろうか。広い会場の中で南だけが僕に向かって発光しているみたいに眩しくて、目を背けたくなる。それなのに南から目が離せない。


「閃!!」


 りっちゃんが南を呼ぶ。


 南が振り向いて、南の瞳がりっちゃんを捕らえる。


「あ、りっちゃん」


 南が僕にも気づいてしまう。


「高橋くん」


 南が僕の名前を呼ぶ。それだけで僕の機能は停止してしまう。


「二人とも来てくれてありがとう」


 返事なんてできなくて、南を無視したみたいになってしまう。


「予選のとき、一人で退屈だったから、高橋くんが一緒に来てくれてよかったよ」


 りっちゃんがフォローするみたいに言ってくれて、おかしな空気には多分ならなかった。


 南は僕たちに自分がP組で一回戦の相手が三重代表の中学一年生だと教えてくれる。


 僕は頷いて聞いていたけれど、南がそれに気がついていたかはわからない。

 ボードに貼り出されたあれこれを見ながら、予選が三回戦あることを知る。


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