4
火曜日は母の美容室の定休日なので、昼食は母と一緒に食べた。素麺と昨日の残りの豚の角煮。普通に美味しかったけれど、母の話のとりとめのなさに苛々した。
部屋に戻って、ベッドへ横になる。本をめくっても文章が頭に入ってこない。夏休みの課題はとっくに終わってしまった。天井を見上げながらセミの声を聴く。そしてまた、隘路へ自ら進むように南のことを思う。
学校があっても南に会えない日のほうが多かったけれど、それでも教室の窓からグラウンドを走る南を見かけたり、放課後急いで校門をくぐる南とすれ違ったりする機会はあった。夏休みにそんな偶然はない。南に会えないのが辛かった。碁会所まで行ってみようかなと何度も思ったが、思うだけで足がすくんだ。恋をして、自分がこんなにも意気地なしで臆病だったのだと知った。
僕は恋をして、粉々に砕かれた。
そのかけらを拾い集めて、僕は僕を作り直したつもりだった。
それなのに僕のかけらは前とは違うところに納められ、砕かれる前の自分には戻れない。バラバラになった感情は僕の制御下から離れ、矛盾に満ちた間違いばかりを繰り返す。頭と心がかけ離れすぎて、自分が二人いるみたいに遠い。こういう矛盾の迷路に閉じ込められた状態を思春期と呼ぶのかもしれない。
「光佑、電話ー」
母が階下から僕を大声で呼んだ。
「誰?」
階段を下りながら訊いた。
「渡辺さんていう女の子よ」
母の笑顔に苛立ちながら電話の子機を受け取って、部屋に戻ってから保留を解除した。
「もしもし」
「急に電話してごめんね」
声に棘があったのは、りっちゃんのせいじゃないのに、りっちゃんは申し訳なさそうに声を落とした。
「いや、全然」
「あの」
「うん」
「電話番号は書道部の一組の子に訊いたの。それで、突然ごめん」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
優しい声が出せただろうか。
「あの、閃のことなんだけど」
心臓は正直だ。早鐘を打ち鳴らす。
「うん」
「来週の火曜日なんだけど、もし時間あったら閃の応援に行かない? 会場、地下鉄ですぐだし」
南に会える。それだけのために今の僕なら何でもしてしまいそうだった。
「高橋くんは興味ないかもしれないけど、ほら、井上くんは閃に会いたいかなって思って」
腑に落ちる。
舞い上がる自分の中に、冷静さが生まれる。隆を直接誘えばいいのに僕なんか通さずにと思ってすぐに、僕なんかを誘ってくれてありがとうと言いたくなる。最近の僕はてんでバラバラに自己主張して、本体の僕を困らせてばかりいる。
「それで井上くんのこと、高橋くんが誘ってくれないかと思って」
りっちゃんはそれでいいの?
そんなことは訊けやしない。りっちゃんだって、きっと僕と同じなのだ。たとえ好きな人が自分の親友と付き合う手助けになったとしても、一目会いたいのだ。りっちゃんの気持ちは痛いくらいにわかった。
「いいよ。誘ってみる」
それからりっちゃんの携帯電話の番号と自宅の番号を聞いて、折り返しかけることを約束して電話を切った。隆に電話をかけるのも子機を下へ返すのも全部後回しにして、ただ南に会える幸運に目をつむった。
ベッドに横になって、自分の体から熱が蒸発して天井にあたって、雨になってそれがゆっくりと降りてくる。そんな空想をするともなくして、甘やかな予感に身を委ねた。
そのまま眠ったらしい僕は母に揺り起こされた。
「何だよ」
母に対して反抗的な態度をとってしまう。声に腹立ちを乗せて、それを母に察してほしいと思ってしまう。僕の怒りをわかってほしいと懇願したいくらいに、湧き上がる苛立ちを抑えられないのだ。
「隆くん来たよ」
約束はしていなかった。隆は約束なんてしなくても気が向いたら遊びにくる。
「上がってもらうわよ」
母が部屋から出ていって、隆が階段を上る足音が聞こえてくる。
南を知ってから、僕の隆に対する感情が複雑になった。今までだったら隆のふいの訪問は、面倒くさいけれど嬉しいものだったのに、今日のこの気持ちに入り交じるすっぱさは何だろう。
「おす」
ノックもせずに入ってきた隆の背の高さに、肩幅の広さに、腕の逞しさに、笑顔の爽やかさに、つまりは隆の美徳すべてに僕は嫉妬してしまう。羨んだところで手に入ることなどないのに、焦れるように憧れてしまう。そんな自分の醜悪さに追いつめられてしまうから、隆を真っすぐに見ることができない。
「読書中」
枕元に伏せてあった読みさしの文庫本を開く。
「寝てたくせに」
隆はベッドの脇に腰を下ろす。
「隆くんいらっしゃい」
母がコーラとポテトチップスを運んできて、僕に手渡す。隆にありがとうございますも最後まで言わせないうちに、母を部屋から追い出して、苛立ち紛れにポテトチップスの袋を思い切り開ける。中身が少し飛び散って、母にも隆にも普通でいられない自分に恥じ入る。コーラのペットボトルを隆に一本渡し、ポテトチップスはベッドの上に広げる。
「何?」
「別に、部活終わったから寄っただけ」
「そう」
惨めな気持ちで、ベッドに飛び散ったポテトチップスを拾って口に入れる。僕の好きなコンソメじゃなくて、隆の好きなうす塩で泣きたいような不安な気持ちになる。
「まあちょうどよかった」
隆に対していつもと同じ調子で話せているのか気になる。
「ん」
隆が僕を見上げて、口角を上げる。文句なくかっこいい。女子だったら誰だって心惹かれるはずだ。
「さっき、いやちょっと前、りっちゃんから電話あった」
隆が眉を上げて、目をちょっと開く。驚いたときの隆の表情。
「え、そういう仲?」
隆がちゃかすようでなく、真面目に問う。
「全然違う」
「残念」
その意味を深読みしてしまう。隆は僕の気持ちに気がついているのだろうか。それで僕とりっちゃんがくっついたら、いやりっちゃんでなくてもほかの誰かと付き合い始めたらいいと思っているのだろうか。頭の中で早巻きでそんなことを考えてしまい、隆が僕のことなど恐れるはずないことに思い当たって思考は止まる。
「お前に伝言」
何気ないふうに言葉を舌に乗せる。
「俺に?」
隆はポテトチップスを口に放り込む。隆の指が長いことにも嫉妬してしまう。
「南の大会があるから、一緒に来ないかって」
早口になってしまった気がする。
「囲碁の?」
「ああ。来週の火曜日」
「俺、無理だわ」
「何で?」
そんな簡単に言うなよ。思うだけで口には出せない。
「来週月曜から木曜まで合宿」
「聞いてない」
「言ってない。てかお前彼女でもないし」
「まあ、そうだけど」
「光佑行ってこいよ」
それはどういうつもり?
言えない気持ちがどんどん胸に重くたまっていく。
「りっちゃんと行って応援して来いよ」
「二人なんてりっちゃんが嫌がるだろ」
隆が行かないと意味ないんだよ。
「りっちゃんみたいなかわいい子とデートできるチャンス逃すなよ」
確かにりっちゃんはかわいい。あの、隆が南に最初に告白したときだって、後ろにいた子のほうがかわいいじゃんって言うやつもいた。でもそういう問題じゃないだろう。りっちゃんだって、隆と行きたいんだから。
「俺も試合のとき、応援が力になるから。行ってやったら喜ぶと思う」
僕はずるいから答えなかった。
行きたいと思っていたし、隆が行けないことが飛び上がるくらい嬉しいのに、何も言わずにコーラを飲んだ。隆もコーラをゴクゴク飲んだ。
それから隆と僕はたいして話もせずに漫画を読んで、夕方隆は帰っていった。それが僕たちのスタンダードな遊び方だったけれど、沈黙に責められているような気持ちになって、隆の整った顔を何度もこっそり盗み見てしまった。
隆に訊きたいことはいっぱいあった。
南のことはもう諦めたの?
僕が行っても何とも思わないの?
僕の気持ちに気づいているの?
でも何にも言えなくて、そんな言えない言葉が降り積もって、窒息しそうに苦しかった。
夕飯のあとで子機を二階に持って上がり、りっちゃんの携帯電話の番号を押した。少しだけ緊張した。りっちゃんはすぐに出て、僕だけでも行ってくれるなら嬉しいと言った。一人だとつまんないからというのは正直なところだろうと思った。
次の火曜日の十時に駅で待ち合わせすることになった。
会場までは地下鉄で十五分くらい、会場はそこから歩いてすぐらしい。お昼休憩に三人で食べるように、お弁当を持っていくとりっちゃんが言ったので、僕は会場で飲み物を買うことを提案した。ついでに帰りにお茶でも奢ろうと密かに思いながら電話を切った。
夜ベッドに入ってから考えごとをするのが習慣になった。
りっちゃんと待ち合わせて出かけるなんて、南に誤解されないだろうか。
何を着ていったらいいんだろうか。
お小遣いは足りるだろうか。
南はどのくらい強いのだろうか。
ぐるぐる、ぐるぐる、いつまでも考え続けて、時計の針ばかりが進んで行く。