3
翌朝、目が覚めてもやっぱり南が鮮明に自分の中にいることに困惑した。
本ばかり読んでいる僕に恋なんて重荷だった。
しかもその相手が親友と同じだなんて、深く考えたくなかった。憂鬱で食事する気が起きずに、牛乳だけ飲んで学校へ向かった。
「おす」
始業ぎりぎりに教室へ走ってきた隆がいつも通りの笑顔でむかついた。
「おす」
本に視線を戻し、夢中で読んでいるふりをした。昨日芽生えた気持ちを隆に悟られたくなかった。できればそのまま、消し去ってしまいたかった。
「昨日さ」
隆は自分の席へ向かわずに話し出した。
「あのあと、行ったんだ」
聞きたくないけど、知りたくて仕方がなかった。こういう矛盾をこの先幾度も味わうことになる予感があった。
「場所はすぐにわかったんだけど、下から見ただけじゃ全然駄目。ガラス窓に碁会所ってでっかく書いてあって、その下に初心者歓迎ってあった」
「で?」
「それだけ」
チャイムが鳴って、隆は自分の席に着いた。僕は本に視線を落したまま、昨日の南と隆に続きがなかったことに安堵していた。
それから僕と隆は南のこともりっちゃんのことも話さずに過ごした。四時間目が終わり、給食を食べて、いつもなら体育館へバスケをしに行くはずの隆が僕の近くの空いている席に座った。
「なあ、ジャージ返しに来るよな」
隆は待っていた。南との続きが始まるのを。
「多分ね、そのために隆の名前とクラス訊いたんだし」
僕も待っていた。恋なんていらないと思いながら、南のことを一目見たくて、南の声をそばで聞きたくて仕方がなかった。そしてそれを隆に気づかれたくなくて必死だった。
待ち人は放課後に来た。
りっちゃんと一緒だった。南は昨日と同じ二つ結びで、それは歩くたびに制服の胸の辺りで弾んだ。当たり前だけれど、雨には濡れていなかった。真っすぐに近づいてくる南が僕のところで止まればいいのにと強く思った。けれど、南は僕なんか素通りして隆の前へ立った。教室には半分くらいまだ生徒が残っていて、他クラスの女子が隆を訪ねてきたのを面白そうに遠巻きに見ていた。
「昨日はありがとう」
南はうっすらと微笑んで綺麗に畳まれたジャージを隆に手渡した。すぐ横にいた僕のところまで柔軟剤の甘い香りが切なく届いた。
南は僕を見ない。
南に見られない自分なんて、いないと同じじゃないかといじけた気持ちがせり上がった。
南の後ろのりっちゃんは僕に小さく微笑んでくれた。
「風邪、ひかなかった?」
隆の声が擦れて、物憂げに響いて、僕の胸に妬心が芽生えた。隆が魅力的だという事実にすら、嫉妬してしまう人間に僕は成り下がっていた。
「おかげさまで」
南は大人っぽい子だった。言葉遣いも仕草も外見もすべて、手が届かないくらいに大人びていた。
「ならよかった」
隆は満足そうに、笑顔をゆっくりと作った。隆の作った空気に僕とりっちゃんがはっきりと弾かれたことがわかった。
「お礼したほうがいいって、りっちゃんに言われたんだけど、何がいいかわからなくて」
お礼なんていらない。そう隆が言うと思った。
しかし僕の予想なんて当たらない。
「じゃあ、俺と付き合ってくれない?」
隆は何でもないことみたいに口にした。
教室中に好奇に満ちたざわめきが広がっていった。指笛まで駆使した冷やかしが一部の男子から飛んできた。
隆は学年で一番人気のある男子で、一つ上の美人の先輩と付き合っていて、それでも時おり違う女子から告白を受けていた。そういうことはクラス中みんな知っていた。
「無理」
南は真顔で即答して、りっちゃんに助けを求めるように振り返った。
僕は隆の性急で大胆な行動に戸惑い、嫉妬し、それを拒んだ南に歓喜していた。そう醜いまでの歓喜。恋なんてするものじゃない。恋をすると否応なしに自分の心と向き合わされる。そうして自分がいかに矮小で、醜悪で、ちっぽけな存在か気づかされるのだ。
「残念」
隆はたいして残念でもなさそうに言った。
「とにかく、昨日はありがとう」
そう言って南は背を向けた。りっちゃんは隆と僕にぺこりと頭を下げて、南についていった。
クラスの男子が数人近づいてきて、隆を取り囲んだ。告白かよとか、軽いなとか、振られてんなよとか、彼女いいのかよとか、今の誰とか言われていたが、隆は無視して僕にこう言った。
「何で断られたと思う?」
真面目な顔だった。
「彼女いるからじゃないの?」
冗談だと思ったからじゃないのとは言わなかった。
「そっか、じゃあ別れてくるわ」
そう言って隆はそのまま、彼女へ別れ話をしに行った。美人の彼女の涙は、隆の心を動かさず、隆はその日からフリーになった。
次の日、隆は一人で五組へ行き、南に告白して振られた。僕は何もしなかった。それどころか自分の気持ちを誰からも隠しておきたくて、卑屈に縮こまっていた。
こんなふうにして僕たちは始まった。真夏がすぐそこまで来ていた。