2-7
「ただいま」
リビングには母と兄と、隆がいた。
「ただいまじゃねーよ!! 何時だと思ってんだよ!!」
母でも兄でもなく隆に怒鳴られて時計を見る。もう十時になろうとしていた。
「理沙、何のために携帯電話があるの! それにその恰好どうしたの?」
母に言われて思い出す。
浴衣からは土と草と火薬の匂いがして、母が結ってくれた髪も乱れている。
「ごめん」
「仕方がないわね。人混みで隆くんたちともはぐれたんでしょ?」
「……うん」
隆がどんな嘘を母に吹き込んだのかは知らないけれど、話を合わせる。
「着替えてらっしゃい」
「うん」
「着替えたら呼べよ、ちょっと話あるから」
隆には返事をせずにリビングを出た。隆と話したくなんかなかった。隆に対して罪悪感に似た後ろめたさを感じてしまう。
のろのろと着替えた。
どろどろに汚れてしまった浴衣が綺麗になるのか不安になる。
携帯電話が鳴る。
電話は別れたばかりの晃からだった。
「もしもし」
「うん」
「タクシーにかんざし落ちてたけど、理沙のだよね?」
「……うん。そう」
髪を触ってかんざしがないことを確かめて返事をした。
「じゃあ、次会うときに渡すね」
「ありがとう」
次があることに驚く。連絡先を交換したけれど、具体的な二人の未来なんて全然見えてこなかったから。
「遅くなって怒られなかった?」
「うん」
晃には嘘ばかりついてしまう。
「よかった。一緒に謝ったほうがよかったかなとか考えてたんだ」
「真面目だね」
「重いかな?」
「全然」
ドアが荒々しくノックされる。
「ごめん。もう切らないと」
「うん。理沙、またね」
「うん。また」
電話を切ってドアを開けると、隆が入ってくる。
「お前さ、何やってるわけ?」
いきなり怒鳴られて腹が立つ。
「何で隆に怒られないといけないわけ?」
「何でって、お前」
「隆こそ、何やってんのよ。二人だけで抜けちゃって、そっから全部おかしくなったんじゃない。何で隆なんかに責められなきゃいけないのよ」
全部、全部、隆のせいなのに。
「心配したんだよ」
「心配って何よ」
「知らねえやつについて行くんじゃねえよ!!」
隆の怒りが嫉妬だったらいいのにと期待してしまう。それに気づいて惨めな気持ちになる。
「とにかくおばさんにはお前ら女子グループと俺ら男子グループがはぐれちゃって、そんで俺ら携帯ないからとりあえず先に帰ってきたことになってるから」
返事なんてしたくない。
隆に庇ってなんてほしくなかった。
親に叱られる覚悟くらいできていた。
「りっちゃんも心配してたから明日にでも電話しろよ」
隆もりっちゃんのこと、りっちゃんって呼ぶくらいに親しいことにも胸が痛む。隆と仲のいい女の子なんてたくさんいるのに。
「光佑があの田代ってやつには好きな女がいて、それがすげえ年上の超絶美人だから中学生なんか相手にするはずないって言ってたけど、そんなのわかんないからな。男なんてみんな何するかわかんないからな」
ブチッときた。こういうのをキレたって言うんだと思う。
「あの人はちゃんと相手にしてくれたから」
自分でもぞっとするくらいに冷たい声が出た。
「相手って何だよ、お前、あいつに何かされたのかよ」
「だったら何? ていうかされたって何? 私がしたかったとは思わないわけ?」
「今日会ったばっかのやつだろ」
「だったら何? 私の勝手でしょ。余計なお節介やめて」
「ああ余計なことして悪かったな!!」
隆が乱暴にドアを閉めて出ていった。
ぐずぐずに泣いてしまう。
隆の幼馴染ですらもういられないかもしれない。
隆の怒った顔、呆れた顔、困った顔が次々と私の行動を責める。
そして隆の笑顔が私を裏切った私自身を責め立てる。
私と晃が結んだのが恋だとしたら、この隆への気持ちは何なのだろう。
きっと昔の恋の残像に惑わされているだけなのだ。私はそんなふうに、晃との恋を本物だと信じようとしていた。信じようとしている時点で本物じゃない証拠なのに、それでもなお信じたかった。
私はもう安心できる温もりを手に入れたと信じたかった。
「理沙」
兄に呼ばれた。
「何?」
「入るぞ」
泣き顔は隠せなかった。
「勝手に入って来ないでよ」
「飯」
兄は夕食を机に置いて、ベッドの下で体育座りしている私の横に腰を下ろした。
「隆、心配してうちまで来てくれてたんだぜ」
また涙が噴き出してきて、膝の上に顔をうずめた。
「母さんも俺も心配だったよ。父さんは出張でいないし、電話には出ないしさ。でも隆が学校の子と一緒でそのうちの一人が足怪我しちゃって歩くの遅くなったから、遅れてるだけだと思うって言うからさ。ていうか隆のその嘘すげえバレバレでさ、母さんも嘘だってわかってたと思うけど、隆があんまりにも必死で理沙のこと庇うから、俺たちも十時まで待ってみようって話になってさ。何にもなかったのは運がよかったからだと思えよ。女子中学生がこんな時間までうろうろしてたら、最悪殺されることだってあるんだから」
正論だと思った。何かに流されてしまった危うい自分を思い出す。
「あと、お前ら、声大きすぎ。下まで丸聞こえだった。母さん風呂だったからセーフだと思うけど、聞こえてたら大変だぜ。隆じゃないけど、俺だって反対だよ。会ったその日にどうこうなんて、理沙遊ばれてるんだよ」
「決めつけないでよ。何にもなかったし、真面目な人なんだから」
「真面目な人は中学生をこんな時間まで連れ回さないよ」
「私が帰りたくないって言っただけだから」
「それでも帰さなかった男が悪い」
「もう寝る」
そう言ってベッドに潜った。
むしゃくしゃした。
乱暴な気持ちが次から次へとわき上がる。
兄が「飯食えよ」と言って出ていった。
どこから考えたらいいかわからなかった。
まず明日りっちゃんに電話して、と思ったところで、携帯電話の着信履歴を確かめていないことを思い出して、携帯電話を操作する。
家、家、家、家、隆の家、りっちゃん、家、家、りっちゃん、上杉くん、りっちゃん。
留守番電話を再生する。
母、母、隆、りっちゃん、母、りっちゃん。
明日の朝、ちゃんと母に謝ろうと思う。きっと悪い想像をしてしまったに違いないから。
それから南さんと隆を引き合わせたことで、りっちゃんと高橋くんを傷つけたことを思い出す。
恋の矢印が乱れ飛んでいる。
隆の矢は南さんを射ただろうか?
上杉くんはしっかりと私に失望してくれただろうか?
晃は本気なのだろうか?
隆が言っていた年上の美人が晃の失恋の相手だろうか?
それとも晃が失恋したっていうのは話を合わせてくれただけだろうか?
でもそんなことはどうでもいい気がした。
晃が好き、晃が好き、晃が好き、好き、好き、好き、好き……。
胸の中に晃への恋心を積み重ねていって、その下で消えずにいる隆への思いを覆い隠してしまいたい。
晃、晃、晃。晃のことを思いながら眠りを待った。
知ってしまった晃の温もりが恋しい。




