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初恋なんてしたくなかった!!   作者: 空図
初恋なんて信じない
2/26

 あの日、僕と(りゅう)は学校の玄関口で夕立に足止めされていた。

 傘はなく、校内に戻るのは億劫だった。

 それで何となく空を見上げながら突っ立っていた。大粒の雨がまっすぐに潔く落ち、次々と地面に刺さっていくのは壮観だった。熱された地面が冷まされていく匂いが漂っていた。


 すぐにやむだろうという僕たちの根拠のない予測は外れ、雨は勢いを増していった。

 そろそろ諦めて中に入るべきかもしれないと、下駄箱のほうを振り向いた僕の視線を彼女は横切った。

 そして躊躇なく雨の中へ歩いていった。

 となりで隆が息を呑んだのがわかった。

 一瞬にして全身を雨に打たれた彼女は、濡れて初めて気がついたというふうに空を見上げ、それから慌てて玄関口まで走って戻ってきた。


「何やってるの!!」


 彼女が駆け戻った先にいた少女が声を上げ、鞄からタオルを出して渡した。


「ごめん、りっちゃん。気づかなくて」


 彼女はタオル一枚ではどうにもならないくらい濡れていたが、それでも前髪の辺りと顔くらいは拭いてから、りっちゃんにタオルを返した。


「傘、使っていいけど、着替えてから行ったほうがいいよ」


 りっちゃんは鞄から折り畳み傘を出して渡して、代わりにタオルを受け取った。彼女が傘を開く間に、りっちゃんは彼女が拭き残したほとんどにタオルをあてていった。


「傘ありがと」


 りっちゃんに笑顔で傘を振って、彼女は再び雨の中へ戻っていった。


 彼女に目を奪われていたのは僕だけではなかった。


 隆が雨の中へ駆け出していった。隆も瞬く間に濡れた。


「待って!!」


 隆の声は、強い雨にもかき消されずにはっきりと届いた。


 振り返った彼女に隆は手に持っていたジャージの上を差し伸べた。


「制服、透けてるから」


 隆は彼女の返事を待たずに、強引に傘と彼女の鞄を奪って、自分のジャージを渡した。小さな傘は隆の手で彼女の上に置かれ、彼女は無言のまま、隆のジャージを濡れた制服の上に重ねた。

 ありがとうと彼女が言った気がしたが、はっきりとは聞こえなかった。隆がなんて応えたのかもわからなかった。

 僕から見えたのは隆の後ろ姿と、大きすぎるジャージを腕まくりする彼女、そして二人の上に開いた真っ赤な傘だけだった。


「りっちゃん、この人のクラスと名前聞いといて」


 彼女は叫んで、隆から鞄と傘を受け取って走っていった。

 二つ結びにされた長い髪は、左右に揺れて、小さな傘には納まらない。

 雨はまだまだやみそうになくて、せっかくりっちゃんが拭いてくれた彼女を再び濡らしていくのだろうと思った。


 彼女はあっという間に校門を抜けて見えなくなった。



 隆がゆっくりと戻ってきたのは、もう余すところなく雨に濡らされたからだったのか、彼女との余韻に浸っていたからだったのか。


「すみません」


 りっちゃんが駆け寄ってきて、もう絞れるくらいに雨を吸っているタオルを隆に差し出した。隆は首を振って断り、自分の鞄からタオルを出して首からかけた。かけただけでなかなか拭き始めない隆に苛立ちを覚えたのが、それから始まる嫉妬の嵐の最初だったのかもしれない。


「早く拭けよ」


 僕の声に一応といった感じで隆はタオルを使い、りっちゃんに向き直って「あの子、名前は?」と訊いた。


「せん。南(せん)。方角の南に、閃きって書いて、せん」


 彼女にぴったりのこれ以上ない名前だと思った。


「何年何組?」


 隆が質問を重ねる。


「二年、五組です」


 同じ学年だった。それまで彼女の存在を知らなかったことに驚いた。あんなにくっきりとほかの誰とも違うのに。


「どっちが?」


 隆が訊いた。


「私も閃もです」

「そっか、俺も二年。一組。だからタメ語で。てか、続き中で話さない?」


 隆の提案にりっちゃんが頷いて、僕たちは校舎へ戻った。

 トイレで体操服に着替えてくるという隆と途中で別れ、僕とりっちゃんは一組へ入った。


 教室の窓からはどんなに目を凝らしても、もう赤い傘は見えなかった。


「そこ座って」


 僕はりっちゃんに窓際の席を勧め、りっちゃんの後ろの席に座った。


「自己紹介でもしようか」


 雨音だけが響くのが気まずくて言った。


「高橋くんでしょ?」


 りっちゃんはなぜだか僕のことを知っていた。


「それと井上隆くん」


 それでわかった。隆は目立つ。バスケットボール部のレギュラーで、体育祭や文化祭などの行事ごとでは常にクラスの中心。性格は明るくて軽い。身長は僕より十センチ以上高くて、もう百七十を超えているし、何より顔がかっこいいから女子に人気がある。だからよく一緒にいる僕まで、知らない女子にも名前を知られているわけだと納得した。たとえ僕自身がさえないやつだったとしても。


「隆、有名だからね」


「そう、だね」


 曖昧にりっちゃんが言って、かわいく小首を傾げたところで隆が教室に入ってきて、二人は雨が上がるまで話し続けた。


 僕は横で読みかけの本を開いて、ただめくりながら意地汚く二人の会話を聞いていた。



 それはこんな感じだった。


 まず隆は自己紹介をして、りっちゃんは僕のときみたいに知っているとは言わず、最後まで聞いた。

それはりっちゃんのことはりっちゃんと呼べるくせに、南のことは閃ちゃんなんて呼べない僕みたいだった。

 次いで隆は僕を親友と紹介し、りっちゃんに「そっちは?」と訊ねた。

 りっちゃんは渡辺律という名前で、隆が「りっちゃんって呼ぶね」って言って、りっちゃんが恥ずかしそうに頷いたから、それに南がりっちゃんって呼んでいたから、りっちゃんは僕の中でもりっちゃんになった。


 りっちゃんは第一小学校出身だと言って、同じ小学校出身の隆は気がつかなくてごめんと謝り、りっちゃんは同じクラスになったことないからと、ほんのり笑顔を浮かべた。隆が僕を第三出身と話し、りっちゃんは南が第二出身と教えてくれた。


 それからりっちゃんは南のことばかり話した。それは隆が南のことばかり訊いたからかもしれない。



 南はお祖父さんと二人で暮らしている。


 南のうちは商店街のすぐそばにあって、南は商店街のアイドルとして、娘か孫みたいにかわいがられている。南が歩けば店内から次々と声がかかり、両手が塞がるくらい貢物を貰うこともある。コロッケとか、つくだ煮とか、豆腐とか、みんな南に自分のところの自慢の一品を食べさせたくて仕方がないらしい。

 お祖父さんは夕飯の支度が面倒なときに、商店街一周して来いって南に冗談を飛ばすそうだ。


 南が小学校に入学するときは大変だったらしい。

 ランドセル、自転車、入学式のワンピースに靴なんかが商店街の各店から入学祝いで届いて、お祖父さんは代金を支払おうとしたけれど、お祝いを突っ返すような無粋な真似をするなって言われて、そのときにお祖父さんは南名義の通帳を作った。そして貰った物を買ったつもりでする、つもり貯金をお祖父さんは始めた。


 りっちゃんは南の両親については何も話さなかったから、どういう事情でお祖父さんと二人で暮らしているのかはわからないけれど、南が愛されて育ったってことはよくわかった。


 どうして南のことをこんなに詳しく、りっちゃんが知っているかというと、二人が従姉妹だからだ。小学校高学年の頃から二人はよく遊ぶようになったそうだ。となりの学区なのに、それまではほとんど交流がなかったのも南の家庭の事情ってやつかもしれない。

 二人は親しくなって、週末にはお互いの家でお泊り会をしたり、りっちゃんのうちの家族旅行に南がついていったりするくらいに盛んに交流した。

 中学校へ入学して、同じクラスになって、今は親友とも姉妹とも呼べるような関係。

 昨年の冬に南のお祖父さんが入院することになったとき、一時期南はりっちゃんのうちに居候していたそうだ。今でもお祖父さんが検査入院したり、用事があったりするときにはりっちゃんのうちへ泊まりにくる。


 りっちゃんにも南はたっぷりと愛されている。


 南は成績優秀で一年の二学期は通知表がオール五だったそうだ。

 運動も得意で、りっちゃんと二人、一年生のときはバトミントン部に所属していた。でも今は活動が少ない書道部に二人とも在籍中。

 南には部活動に割く時間がないからだ。

 そしてりっちゃんはそんな南を応援したくて、一緒に書道部へ移籍した。


 りっちゃんの世界が南を中心に回っているように感じるのは、僕が南を中心にりっちゃんの話を聞いていたからだろうか。


 南は自由になる時間のすべてを囲碁の勉強に使っている。


 それはお祖父さんの入院をきっかけに、今年の正月から囲碁のプロを目指すようになったからだ。お祖父さんの入院と囲碁のプロが僕の中では繋がらないけれど、とにかく南は決めた。そのために南は書道部に転部し、あの日も雨の中走って碁会所へ向かった。


 碁について知識がなかった僕があの日知っていたことは、白と黒の石を升目に並べていくゲームで、おじいさんたちが趣味でやること、こんな程度のものだった。それは今でも大して変わらない。


 僕が囲碁に思いを巡らせているうちに、二人の会話は囲碁から離れていった。


 書道部で南が先輩に目をつけられている話、りっちゃんのうちの飼い犬がりっちゃんのお父さんよりも南に懐いている話、りっちゃんのお母さんが南の好物ばかり作る話。


 途中で気がついて、りっちゃんが隆に「部活は?」と訊いた。隆は「土日がバスケの練習試合で代休になった」と答えた。それで時間があって、僕に付き合って図書館へ行っていたから雨に降られたと嬉しそうに話した。おかげで南に出会えたと言わんばかりに。



 りっちゃんが隆を見つめる視線は雄弁で、りっちゃんがずっと前から隆に恋していたことがわかった。僕にわかるくらいなんだから、多分隆にも伝わってしまった。でも隆はそういう視線を見て見ぬふりすることくらい慣れっこだった。



 雨が上がり、そろそろ帰ろうかという話になった。

 帰る方向が一緒だったので、歩きのりっちゃんに合わせて、僕と隆は自転車を引いた。りっちゃんと僕が並ぶ形になり、後ろを隆がついて来た。


「さっき、何で雨の中に入って行ったのかな」


 そのときはまだ、南をなんて呼んでいいかわからなかった。


「多分、考えてたんだと思う。あの子、囲碁のこと考え始めると、ほかのこと見えなくなっちゃうから」


 そんなことがあるだろうか。考えごとをして、降りしきる雨に気がつかずに進むなんて。


「おかしいと思うかもしれないけど、閃てそういう子なの。プロ棋士になるって決めた日から囲碁のことで頭がいっぱいで」

「囲碁ってそんなに面白いの?」

「わかんない。私は簡単なルールを知っているくらいだから」

「そうなんだ」

「閃にとって囲碁は特別だから」

「特別?」

「多分」


 横でりっちゃんが首を傾げた。りっちゃんにも南がなぜプロ棋士を目指すのか、そこまで囲碁に没頭できるのかわからないのかもしれなかった。


 りっちゃんのうちは学校のすぐ近くだった。


「ここだから」


 立派な一軒家の門に手をかけてりっちゃんは僕たちに振り向いた。


「あのさ」


 帰り道は無言だった隆が口を開いた。


「碁会所って、この近くなの?」

「うん。駅前の大きい本屋さんあるでしょ。そこの向かいにサンセイビルっていうのがあって、そこの二階」

「そっか」


 隆は自転車にまたがって、今来た道に方向転換した。碁会所へ行くのだと思った。


「行く気?」


 僕の声は引きつっていたかもしれない。


「ああ」

「何しに?」

「さあ」


 ただ気になって、そう小さく言って隆は自転車を漕ぎ出した。さよならも言わずに。


「井上くん、今日はありがとう」


 隆の背中にりっちゃんが叫んで、隆が片手を上げて応えた。


「じゃあ」


 僕は隆についていきたい気持ちを抑えて、自転車にまたがった。


「うん。高橋くんもありがとう」


 りっちゃんの笑顔が泣きそうに見えたのが気のせいだったらいいのにと思った。


「また明日」


 僕は自転車に乗って、隆と反対方向へ進んだ。

 急ぐ必要なんてないのに、全力でペダルを漕いだ。


 すべてを振り切るように、力いっぱいペダルを踏みつけた。



 うちへ帰っても、夕飯を食べても、お風呂へ入っても、布団へ入っても、放課後のことばかり考えた。


 あの赤い傘の中で南は隆になんて言ったのか、隆をどう見上げたのか、隆をどう思ったのか。


 南は僕の存在に気がついたのか、南の視線に僕は入れていたのか。隆はあのあと南に会ったのか、何か話したのか。


 南はなぜ囲碁のプロ棋士になりたいのか、それはどのくらいの本気なのか。


 南の縛った髪から滴り落ちる雨。りっちゃんに謝る南の瞳、肌の白さ、唇の赤さ、髪の黒さ。濡れた制服に浮かんだ南の下着と体の線。それを隠した隆の白いジャージ。




 眠れぬ夜の始まりは、恋の始まりを思わせた。






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