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夏休みでも部活があるのはありがたかった。
走っていれば嫌なことも忘れられるなんて都合のいいことは起こらないけれど、何もしないよりはずっとましだった。
練習前に朝も走り、練習後には友だちと区民プールに行ったり、ボーリングやカラオケに繰り出したり、図書館へ行って宿題をしたり、忙しく過ごしている。
今朝も夕日公園の下まで走ってから部活へ来ている。全体練習のあとの個人練習は、長距離選手は学校の外周だった。
外周を走るのが好きだ。
いつも閉じ込められている校舎を外から見ると、案外小さくて、そこで起きていることも取るに足らないことだと思えてくるから。
ちょうど体育館の真裏にさしかかったところで、バスケットボール部の姿が見えた。休憩中らしく、みんなそれぞれに飲み物を手に談笑している。みんなの視線がこちらを向いているような自意識過剰に陥って、恥ずかしさに走るペースを上げる。
「理沙―」
隆の声が聞こえたような気がしたが、足を止める気にはなれなかった。
「おい、理沙って」
少し走ってから隆に肩を掴まれて止まる。
隆に会うのはあの日以来一週間ぶりだった。
「何?」
嬉しさに顔がにやけてしまわないように、隆を思い切り睨みつける。
「部活午前で終わりだろ?」
「そうだけど」
「そのあと何してる?」
特に決まっていなかったが、部活の仲間を誘ってどこかへ行こうとは思っていた。
「出かける」
「そっか、じゃあ夕方行くわ」
「は?」
「六時過ぎなら帰ってるだろ?」
「まあ」
「じゃ、そういうことで」
隆は走り去って、私も練習中だったことを思い出す。
私が止まっている間に、後ろを走る後輩の姿が近くなっていることに気がついて、隆とのことを変に誤解されたくなくて走り出す。
隆がうちに来るなんて、いつぶりだろう。二年に上がってからは初めてだ。小学生の頃は毎日のように行き来していたのに、中学校の制服が私たちに男女の意識を強くさせて、二人きりで部屋で遊ぶのに罪悪感に似た恥ずかしさを植えつけたような気がする。
部活のあと、私はどこへも行かなかった。隆がいつ来てもいいように、部屋を掃除して、シャワーを浴びて、それから着古した部屋着のTシャツとジーンズに着替えた。
チャイムが鳴って、母が出て、隆が私の部屋に上がってくる足音が聞こえた。
「トントン」
ドアがノックされて驚く。今までの隆はそんなことしなかったのに。
「どうぞ」
ベッドに寄りかかったままで言った。
ドアが開いて隆が入ってきて、私のすぐ横に座った。
どんな感情も匂わせたくなくて、それなのに切なさに唇が震えて、慌てて声を出す。
「何の用なわけ?」
上手く邪険な感じに言えたと思う。
「実はさ、賢兄に用事だったんだけど」
賢兄とは私たちの四個上で高校三年生の私の兄だ。隆にとっても兄のようなものだった。私にとって隆の妹の有里が妹のようにかわいいように、兄は隆をかわいがっている。
「まだだけど」
がっかりを悟られないように平常心を装って言う。
「ああ、おばさんに聞いた」
「じゃあ、何よ」
「まあ、お前にも用あったし」
「あっそ」
つんけんした態度で隆と向かい合っているところへノックもなしで母が入ってきて、麦茶とカステラを置いていく。母だって、密室に私と隆がいても、何か間違いが起こるかもしれないなんてことは考えもしないのだ。何かを期待するのはこの世に私一人だけなのだ。
そしてそれは永遠に起こらない。
「お前さ、花火大会行く予定ある?」
来週の土曜日、花火大会がある。それは夏の一番のイベントだった。本会場までは少し遠いけれど、駅前公園や夕日公園からも花火はよく見える。
「多分、行くけど」
「誰と?」
「奈々」
昨年初めて子供だけで花火大会へ行くことを許されて、小学校からの親友の奈々と駅前公園に行った。来年も行こうねと約束したけれど、奈々に彼氏ができたので、一緒に行くかどうかはまだ確認できずにいる。
「二人で行くわけ?」
「まだ決まってないけど」
「じゃあさ、俺と行かない?」
時が止まった。
そんな気がした。
あの日の告白まがいから隆が出した結論だとしたら、と期待してしまう。
隆の顔など見られない。
ただ甘い期待に浸されていく。
「無視すんなって。お前さ、今好きなやついる?」
心臓が定位置を大きく外れて動いている。
あのとき隆が振り向かなかったことに、意味などなかったのかもしれない。
私の気持ちが迷惑ではなかったのかもしれない。
「なあって」
隆を見る。
顔が熱いのはエアコンの効きが悪いからだと、心の中で言い訳をする。
「バスケ部の上杉って知ってるだろ? 四組の」
期待した罰が一気に降ってくる。
「上杉がさ、お前のこと気になってるらしくて、花火大会に誘えってうるさいんだよ」
羞恥と落胆を呑み込んで、隆を睨む。
「今日俺がお前に声かけたの見てて、疑われちゃってさ」
上杉くんがあの中にいたかなんて覚えていない。ただ、ずんずんと心が冷えていくのだけがよくわかる。
「幼馴染だから、付き合うとかあり得ないって、ちゃんと否定したんだけどさ」
あり得ない。
全否定。
私の恋心に死刑宣告が下された。
生きる道がないときに人はどうしたらいいのだろう?
「そしたら、幼馴染なんだったら、花火大会誘えよってしつこくてさ」
隆に私など見えていないと同じだと思った。
妹のような幼馴染は、この世にはいないのだから。
「別にいいけど」
そう答えてしまったのはどうしてだろう。
「マジで? 上杉喜ぶわ」
隆の笑顔が痛い。
隆が待ち合わせ場所や時間なんかを決めていくのを聞きながら、自分がどんどん消えていくように感じた。