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初恋なんてしたくなかった!!   作者: 空図
初恋なんていらない
16/26

2-1

 今度こそ、この初恋を終わりにしよう。



 その決心が簡単に揺らいでしまうことを私はよく知っている。

 いくら心に決めたところで、会ってしまったらそれでおしまい。

 だからこの夏休みはチャンスだった。

 気をつけていれば会わなくて済む。


 それなのにランニングに行こうと玄関を出たところで、隆が歩いてくるのが見えてしまう。決意が砕け散るのも、それに絶望するのももう慣れ過ぎている。私は自分の決意ほど安っぽい感傷をほかに知らない。



 四軒となりが隆の家だ。

 親同士の仲がいいということもあって、生まれた頃から一緒に遊び、一緒に成長してきた。


 いつなんて印はつけられない。


 恋の存在を知る前から、隆に恋していた。



 小学校高学年の頃から、隆ははっきりとかっこよくなった。

 周囲の子たちが次々と隆に恋していった。

 小学生時代の隆は女子からのアプローチに照れたり、困惑したりするだけだった。

 中学生になって隆はさらにもてた。

 一年でバスケットボール部の中心選手となり活躍したし、身長もぐんぐん伸び続けているし、何より隆は優しい。優しくて甘くて切ない笑顔を作る。それを向けられて平常心でいられる女子を私は信じない。

 一年の二学期、隆は三年の美人の先輩に告白されて付き合い始めた。



 隆が男の子から男になっていってしまうのを私はただそばで見ていた。



 その先輩が高校でほかに好きな人ができて隆は振られた。

 隆にとって多分初恋だった。

 隆は初恋の損失に深く傷ついたようだった。

 それからは短いスパンで彼女を代えていった。

 隆はそういうことをしても許される存在だった。

 私にその順番が回ってくることはない。

 私は妹のような幼馴染のポジションを捨てることができないのだから。



 そしてこの夏、隆は再び本物の恋をしてしまった。



 私にそれを身近で見続けるだけの気力がもうありそうにない。

 だからもうこの不毛な初恋に終止符を打とうと決めた。

 しかし隆は簡単に私の決意を踏みにじる。


「よっ」


 隆が斜めにかけたスポーツバッグに三泊四日の合宿で汚れた衣類が詰め込まれているのを知っている。隆が私に話さなくても、隆の母親からうちの母へ、そこから私へ隆の情報は流れてくる。


「よっ」


 それだけ言って走り去ることもできたのに、私の足は隆の横から動かない。


「これから走りに行くのか?」

「そう」

「どこまで?」

「夕日公園までかな」

「俺も行くわ。ちょっとだけ待ってて」


 待たずに走り出せばいいのだと思いながら、私は隆の背中から目を離せない。

 隆が門の中に消えてやっと、ストレッチをしなければならないことを思い出す。アキレス腱、膝の裏、足首は念入りに、それでも隆が来ないので首から背中にかけてもストレッチをする。


 肘を頭の後ろで掴んで、肩のストレッチをしているところで隆が出てくるのが見えた。笑顔で走り寄ってくる隆に、これ以上何を求めるのか、自分の中で育った恋心の余分さが目に染みた。


「行こうぜ」

「アキレス腱くらいやりなよ」


 隆はアキレス腱を伸ばしながら、両手を背中のほうで組んで伸ばす。その隆の腕の長さに不思議な気持ちになる。


 一緒に成長してきたのに、どこでこんなに差がついたのだろう。


「行こ」


 隆の返事を待たずに一歩を踏み出す。

 隆もすぐについてくる。 

 日中、部活の練習で散々走ったあとだったので、軽く流すだけのつもりだったのにスピードが出る。足の速さでは隆に負けるだろうけれど、現役陸上部の意地がある。それに話ができるくらいの速さで並んで走るとか、隆の背中を見ながら走るとか、そんなのは心臓に負担がかかり過ぎる。




 夕日公園は私たちの小学校の学区の端にある。


 小学四年生になって初めて自転車での遠出が許されて、隆を含む同級生数人で行ったときのことを今でも時々思い出す。


 自転車でたったの十分ほどだったけれど、大冒険くらいの意気込みだった。

 隆が先頭で男子数人が先に行き、女子が二人続いて私は一番後ろを走っていた。

 夕日公園の入り口までは平坦な道路だった。しかし入り口から遊具がある場所までは自転車を押して歩かなければならないくらいの坂だった。自転車を押して上って、公園の遊具で遊んだ。

 帰りは自転車に乗って坂を下りた。怖さがあったけれど、自分だけ意気地なしだと思われるのは嫌だった。順番は同じで最初に男子が、そして女子が続いた。私は最後尾で目いっぱいブレーキをかけながら下りていった。ずんずん進む友人たちから遅れて、下で待つ男子に冷やかされた。

 あと少しという辺りで、早く着きたいあまりにブレーキを離した。自転車はあっという間に加速して、私は公園の入り口の車止めに自転車ごとぶつかった。


 飛んだ。


 自転車から体が離れたことを自覚する間もなく、地面に叩きつけられた。

 痛みよりも恥ずかしさでいっぱいだった。 


 声を上げて泣いた。


 そのときの傷はこめかみの辺りにまだ薄く残っているし、その夜、母からびっくりするほどしつこく叱られた。それでも夕日公園を私が未だに好きなのは、あのとき隆が助けてくれたからだ。

 隆は血と砂と涙で汚れた私をおんぶして、近くのスーパーまで走ってくれた。

 スーパーの人たちに応急処置をしてもらって、電話で呼ばれた母に連れられて私は病院へ行って、額を四針縫った。口の中も切れて数日はご飯も碌に食べられなかった。

 それでも私は隆の背中のあたたかさだけを反復して、いい思い出として大切にしている。



 公園の入り口の坂を最後の力を振り絞って上る。

 ずっと並走していた隆が少し遅れるのがわかった。それでもっと差をつけたくて一生懸命に走った。


 公園に着いて芝生の上に寝転んだ。

 心地よい疲れがどっと私に押し寄せてきて、地面に吸い込まれそうな錯覚を起こす。

 少し離れたところに隆が寝転んで、隆の荒い息が耳元に届く。


 この淡い幸福がずっと続けばいいのにと思った。 



 しばらくして隆が口を開いた。 


「なあ」

「ん?」

「お前さ、小四のときにここの坂で怪我したの覚えてる?」

「うん」

「俺さ、さっきすげえ鮮明に思い出してさ」

「うん」

「あのとき、めちゃくちゃ怖かったんだ」

「え?」

「だってさ、お前、すげえ血だらけで、大丈夫かって訊いても泣いてるだけで答えなくてさ」

「うん」

「それで必死でお前おぶって、スーパーに駆け込んだんだけど」

「うん」

「その間中ずっとさ、お前死んじゃったらどうしようって泣きそうだったんだぜ」

「え?」

「おかしいよな。今考えたら、人間あれくらいじゃ死ぬわけないんだけど、あんとき子供だったから、本気で死ぬかもって怖かった」 


 何も言えなかった。涙が喉に栓をして。


「あ、ひいた? もしかして」

「ううん」


 やっと答える。

 涙で薄闇色の空が滲んだ。まずいと思って、タオルを顔にかける。


「そんでさ、うち帰ったらめちゃくちゃ母ちゃんに怒られてさ」

「ごめん」


 声に涙が滲んでしまう。

 隆は優しい。

 優しさは残酷だ。

 隆のあたたかさは私をあたためてしまうから、冷めていくのを一人で耐える羽目になる。


「お前はさ、特別じゃん。有里みたいに血が繋がった妹じゃないけど、友だちっていうには近すぎるしさ。幼馴染って不思議だよな。家族でも友だちでも恋人でもない。俺、あの日怪我したのがほかのやつだったら、きっとあそこまで必死に助けなかったと思うし」

「ありがと」

「おっ、お前がお礼言うなんて珍しいじゃん。あ、夕日綺麗だぜ、俺見に行くわ」


 そう言って隆は立ち上がって、離れていった。


 取り残されて一人、涙が引くのを待った。

 



「理沙―。お前も来いよ」


 隆に呼ばれて体を起こす。涙も汗もすっかり引いていた。


「めっちゃ綺麗だぜ」


 隆の立つフェンスに向かって歩く。

 夕日は街も隆も赤く染めて、今日の名残を心に刻ませる。

 隆の広い背中に触れたいと思ってしまう。

 もう一度背負われたいと思ってしまう。

 隆のことが愛おしくて仕方がないことが胸を締めつけて、自分が自分でなくなって、隆の背中に取り込まれたいと思ってしまう。

 自分を構成する物質が全部隆に向いているように感じる。

 目が離せなくて、息の仕方さえ忘れてしまう。


「好き」


 気持ちが漏れてしまう。


「あり」


 慌てて取り繕う。


「隙あり!!」


 誤魔化すように、隆の背中を涙と汗が染みたタオルで思いっきり叩いてしまう。


「いてっ」


 隆が大げさに反応してくれたのは、それでも振り向かなかったのは、きっと私の本心に気づいてしまったから。

 それでも気がつかない演技をしてくれているのは、この関係を壊さないため。


 隆と私は今から共犯者のように、私の恋心を殺すのだと思った。


 涙は出なかった。

 さっき泣いたからでも、平気だったからでもない。 


 涙まで、心と一緒に凍りついたのだと思った。


「先、行くね」


 私は走り出す。


 隆はもう追っては来なかった。

 

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