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初恋なんてしたくなかった!!   作者: 空図
初恋なんて信じない
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 碁会所の扉を開ける。

 碁会所は学校の教室二クラス分といった広さで、入ってすぐ右手に受付カウンターがあった。そこで受付のおじさんと一緒に南が待っていた。


「本当に来た」


 南に言われて頷く。

 いきなり目の前に南がいて、その南が私服でおろし髪といつもと違っていてどきまぎする。昨日と違って、今日の自分が着古したTシャツにハーフパンツ、足元はサンダルという気の抜けた格好だということを急に思い出して恥ずかしくなる。


「こちらへ」


 りっちゃんから電話をもらっていたという南は、碁会所の人に頼んで、受付の奥にある事務所を貸してもらっていた。向坂プロのような人気棋士がいきなり現れたら、碁会所が騒ぎになってゆっくり話せないと思った南の配慮だった。


 室内には三十代半ばくらいのサラリーマン風の男性がいた。


「成田くん!!」


 向坂プロが大声を上げたので驚く。


「よっ、向坂」


 男性が笑顔で片手を上げて、向坂プロは泣きそうに顔を歪めた。クールビューティーの意外な表情の変化が成田さんと向坂プロの関係を物語る。


 成田さんは元院生で、そこで向坂プロと同時期に切磋琢磨していた仲だという。

 院生というのは囲碁棋士を目指す人が集まる場所だと南に教えてもらう。


 囲碁の世界は狭いようだった。


 南は棋譜をもう事務所のテーブルへ置いてあった。


「見せてもらったけど、なかなか面白かったよ。稚拙さの中に可能性が伸びていく」


 成田さんが棋譜を向坂プロに渡す。


「そう」


 向坂プロの視線は受け取った棋譜には落ちない。


「成田くんがこの子に教えてるの?」

「違うよ。たまに一緒に打ってるだけ。今日もたまたま俺と打ってるとこに電話来たからさ、閃ちゃんに古い知り合いだって説明して一緒に待たせてもらったんだ」

「そうなの。久しぶりに手合せしたいわ」


 向坂プロが何だかうっとりするような潤んだ瞳で、甘さを湛えた口調で話す。


「ごめん。もう時間ないんだ。行かないと」


 成田さんが腕時計を見て言う。


「久々に向坂の顔見ようと待ってただけだからさ」

「そうなの?」


 向坂プロもこんな声が出せるのだと、落ち着かない気持ちになる。


「ああ。俺、シンデレラだから」

「何それ」

「九時までにうちに帰らないとなんなくてさ、ここ八時半には出ないとならないってわけ。家族が待ってるから、行くわ」


 成田さんが南と僕にも手を振って出ていこうと、ドアに手をかける。


「待って!!」


 向坂プロが全然優雅じゃない手つきでバッグから名刺を取り出して渡す。


「連絡して」

「わー。プロの名刺貰えるなんて感激だな」


 そう言って成田さんはスーツの胸ポケットから名刺入れを出して、向坂プロに渡した。


「一応、俺のも。気が向いたら連絡してよ」


 そう言って成田さんは出ていった。


「絶対するから」


 向坂プロの小さい声はきっと成田さんまで届かなくて、だから室内に切なく響いた。


 向坂プロが眉根に皺を寄せて、僕に千円札を握らせて飲み物お願いと追い出す。


 一緒に追い出された南と碁会所の入り口で飲み物を買う。

 向坂プロには缶コーヒー、南と僕はカフェオレ。

 南は何も言わない。

 向坂プロと成田さんの過去に何があったのか、あるいは何もなかったからの向坂プロの動揺なのかわからないけれど、僕も何も言わない。

 ただ横にいる南の気配を全身で感じながら事務所に戻った。



「拙い。序盤はひどすぎる。何も考えないで打ってももう少しまともに打てそうなくらい」


 向坂プロが棋譜を見ながら南に言う。


「でも面白い」


 向坂プロが南の目を見て言った。


「ありがとうございます」


 南が頭を下げる。僕から受け取った缶コーヒーを開けながら、向坂プロは僕たちに座るように促した。

 僕も南も向坂プロに倣って缶のカフェオレを開けた。

 カフェオレの冷たさが胃に落ちていく。空腹に気がついて、大量の朝食のあと何も食べていなかったことに思い当たり、今日一日の慌ただしさが少しおかしい。


「ところで、あなたが今年に入ってから囲碁を始めたって本当?」


 向坂プロは疑り深いらしい。


「はい」

「本当に成田くんが教えたわけじゃないの?」

「成田さんには月に一、二回手合せしてもらってます」

「そう。じゃ、今まで、どんなふうに勉強してきたか、詳しく話してちょうだい」

「詳しく、ですか?」

「ええ、できる限り」

「はい。まず今年のお正月に囲碁棋士になろうと決めました」

「は? 囲碁を打つ前に棋士を志したってこと?」

「はい、そうです」

「まあいいわ。で?」

「それでお年玉で囲碁の入門書を二冊買いました」

「それから?」

「それで、それを読んでから冬休み中は、ネットで囲碁を打ちました。それから祖父に頼んで、碁盤を買ってもらって、ここに通い始めました」

「普段、どれくらい勉強を?」

「えっと、まず朝は二時間半ネット碁を打ちます。学校では棋譜を見たり、詰碁をしたり、朝のネット碁の検討をしたりもします。放課後はここへ来て七時まで打ちます。帰宅してからも寝るまでは碁会所での検討をしたり、棋譜並べをしたりします」

「何時まで?」

「だいたい一時くらいには寝ちゃいます」

「休みの日は?」

「土日は基本的に朝から七時までここにいて、夏休みは九時までここで打っています」

「そう。ここでは誰と打っているの?」

「たいていは近所の人です。上はアマ七段くらいの人がいます」

「それだけじゃないでしょ」


 向坂プロのまなざしが厳しく変わる。


「はい。ここで会った野能原(ののはら)先生に週に二時間教えてもらっています」

「野能原七段ね。悪名高い先生」


 向坂プロが口を歪ませる。


「そうかもしれませんが、私に段をくれました」

「高かったでしょう?」


 向坂プロが意地悪な微笑みを浮かべる。いつもの調子に戻ったみたいで何だか嬉しい。


「元々級段は高いものです。野能原先生のせいじゃありません」


 南が少し強い口調になる。向坂プロに馬鹿にされていると感じているのかもしれない。


「野能原先生に指導していただいているくせに、なぜ私に師事したいと言ったの?」

「野能原先生は碁の勉強をされていないからです」

「それが?」

「私はすぐに野能原先生より強くなります」

「それで?」

「もっと強い先生に教えてもらう必要があると感じました。それで大会に出ることにしたんです。そこで上位に入ったら有名な先生に声をかけられるかもしれないと」

「甘い考えね」

「はい。東京大会四位では誰からも声をかけられなかった。だから昨日先生に声をかけられて、チャンスだと思ったんです」

「何でそんなに囲碁棋士になりたいの?」


 そこまで強気で向坂プロとやり合っていた南が黙った。


 南がなぜプロを目指すのか、それは僕も大いに気になっていた。


「黙秘かしら?」

「弟子にしてくれるんですか?」

「弟子は取らない主義なの」

「そうですか」

「でも、指導してあげてもいいわ」

「本当ですか?」 


 南の声が弾む。 


「ええ、毎週金曜日、有楽町で囲碁教室の講師をやってるの、私。そこへ通いなさい」

「ありがとうございます。先生が私を弟子にしたいと思うくらいに強くなります」

「ふふ、あなたがものすごく強くなったら、弟子ではなくて私のライバルになるんじゃないの?」 


 受付のおじさんが事務室に入ってきて南に声をかける。南のお祖父さんが迎えに来ているという。もう時計は九時を回っていた。


「これは私から倉田さんに渡してあげるわ」


 向坂プロが南の棋譜をひらひらさせる。


「ありがとうございます」

「じゃ、行きましょう。高橋くん、駅まで案内してね」


 向坂プロが飲んだ空き缶を南が片づけて、受付のおじさんにお礼を言って外に出た。


「先生わざわざありがとうございました。高橋くんもありがとう」


 そう言って南はお祖父ちゃんと一緒に商店街のほうへ歩いていった。



 駅でタクシーに乗り込む向坂プロを見送ってから、駐輪場へ向かった。歩きながら、今日の不運と幸運を思った。それから、結局、南がなぜプロを目指しているのか聞けなかったことに気がついて、ちょっと物足りない気分になった。



 南はしっかりと喜んでいたように見えた。

 南が囲碁に苦しむのは囲碁をそれだけ楽しんでいるからではないのか。南が囲碁を嫌っているように見えるときがあるのは、それだけ囲碁が好きだという証拠にはならないのだろうか。南が囲碁に向かう姿勢は僕に渇望の二字を思い起こさせる。



 南はどうしてあんなに囲碁を欲しているのだろうか。






 うちへ着いて、両親の質問攻めに辟易しながら温め直したナポリタンを食べた。

 父が向坂プロと写真を撮ってもらって、さらに我が家の白いノートパソコンにサインまでしてもらっていたことに驚く。これからパソコンを使うたびに、向坂プロの意地悪な笑顔を思い出しそうでうんざりした。


 自室に戻ってベッドに横になる。

 枕につくと、後頭部のこぶがやっぱり痛んで、お医者さんの名刺がバッグに入っていることを思い出す。

 その瞬間に、おじいちゃんプロと田代プロの伝言と連絡先を南に渡し忘れていることに気がついた。


 りっちゃんに電話しようにももう十一時近い。

 明日にしようと思って、ちょっとだけと目をつむる。

 お風呂にも入っていないのに、眠りがすぐそこにあることに抗えない。


 途切れる意識のしっぽは南の笑顔だった。


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