13
外に出るとタクシーがもう着いていた。
向坂プロがタクシーまで先に足早に近づいていって、運転手さんと何かを話している。
「どうかされました?」
倉田さんが向坂プロに訊く。
「高橋くんを送っていこうと思いまして、もう一台すぐ来られるそうなので、これ私に譲ってください」
「えっ?」
「お願いします!!」
「打ち上げに向坂先生を連れていかないと、俺が怒られますよ」
倉田さんが僕に助けを求める視線を送る。
「僕、地下鉄で帰りますから」
「私、彼を送ってからホテル行きますから」
「そんな」
「美人は遅れて登場したほうが、ありがたがられますから。というわけで、井上先生、田代先生、のちほど」
そう言って、向坂プロはさっさとタクシーに乗り込んで、僕を強引にとなりに座らせた。
「とりあえず月島方面へ」
タクシーは走り出した。
僕は並んで座る美人の意図がわからなくて、気持ちがざわついた。この人に限って、僕の体調が心配ということはないだろうと思う。僕のことが気に入ったなんて思いついた時点で犯罪レベルの勘違いだ。
「月島のどこら辺へ行きますか?」
「とりあえず駅のほうへ」
運転手に答えてから向坂プロは僕を見つめた。向坂プロの顔が綺麗でどきどきしてしまう。向坂プロの魅力は僕を不純にする。
「南さんのことだけど、今日これから棋譜見せてもらうことできないかしら?」
「え?」
「携帯持ってないのよね? 私の使っていいから、呼び出してくれない?」
「南の番号知らないんです」
「はあ?」
向坂プロは声に不満を乗せるのが得意らしい。
「でも、南の親友になら連絡つきます」
「じゃあその子に連絡して」
「でも」
「何よ」
「うちに行かないと電話番号がわかりません」
「はあ?」
勝手についてきたくせに尊大な態度で、腹が立つ。それでも逆らえないのは、向坂プロが美人だからだろうか、南の師匠候補だからだろうか。運転手さんに自宅の場所を伝える。
「ねえ、本当にあの子、今年から囲碁を?」
「何回も言ってますけど、多分そうです。そう聞きました」
「そう。何回聞いても信じられないけど、もし本当にそうなら」
「なら?」
「あの子に教えてあげてもいいかなと思ってる」
「本当ですか?」
「ええ。弟子にはできないけど、指導くらいならしてあげるってことよ」
「それでも喜ぶと思います。ありがとうございます」
「お礼なんて言わなくていいわ。すべては棋譜を見てからよ」
「はい」
「今回の大会で、唯一井上先生の心を動かした一手。それをこの目で確かめて、すべてはそれから」
自宅に着いて、向坂プロを連れて入る。リビングでナイターを見ながら母の帰りを待っていた父が、いきなり現れた美人に腰を浮かした。
「光佑、どちらさまだ?」
色々と聞きたいことがあるだろうが父にゆっくり説明する暇はなさそうだった。向坂プロがジェスチャーで電話のポーズをする。それから父に向って微笑んで、自己紹介を始めた。僕は電話の子機を握って階段を駆け上がり、りっちゃんの携帯電話の番号を押した。
りっちゃんはすぐに出て、僕は今日のことをできる限り簡潔に早口で話した。
「で、今、向坂プロがうちに来てるんだけど、南の電話番号知らない?」
「閃、今、碁会所にいるよ」
「じゃあ、碁会所の電話番号教えて?」
「碁会所の番号はわかるけど、それより直接行ったほうが、話が早いんじゃないかな。閃、夏休みの間は特別に九時まで打ってるから」
「わかった。向坂プロに言ってみるよ」
「高橋くん、ありがとう」
「え?」
「閃、絶対に喜ぶと思う」
「でも、りっちゃんいいの?」
「何が?」
「南に囲碁をやめてほしいみたいだったから」
「やめてほしい。本音で言えば。でも閃が望むなら誰よりも応援したいの」
りっちゃんも複雑なんだと思った。相反する感情に翻弄されるのは僕の専売特許じゃない。りっちゃんだって苦しんでいる。そう思った。
「そっか。とにかく、時間ないから切るね」
「うん、ありがとう」
「じゃあ」
電話を切って時計を見る。針は八時をもう少しで捕らえそうだった。
リビングに戻ると、父が文字通り鼻の下を伸ばして向坂プロと話していた。
「おう、光佑。向坂さんに聞いたぞ。頭大丈夫か?」
「うん。それより、南は今碁会所にいるみたいなんですけど、近くなんでこれから行ってみませんか?」
向坂プロは携帯電話で多分時刻を確認してから答えた。
「そうしましょうか。倉田さんには悪いけど」
父が駅前の碁会所まで送ってくれることになり、車に乗った。車中は父の独壇場だった。
父もまた僕同様に囲碁について無知だったこともあり、向坂プロの容姿にばかり称賛を向けた。そしてつけたしみたいに、僕の怪我の心配を口にした。
僕は父のひとり語りを聞きながら、後部座席に座る向坂プロの気持ちを想像していた。大会の打ち上げがどの程度の規模なのかわからないけれど、多分前々から決まっていたその予定を反故にしてまで、南の棋譜を見たいなんて、向坂プロもまた、雨に気がつかない南のように、囲碁以外への視力がほとんどないのかもしれないと思う。面白い一手があると知ったら、何を置いても見てみないと気が済まないのだろう。それほどに囲碁は魅力的なのだろうと思った。
「それにしても光佑にガールフレンドがいるとはな」
父がにやにやと横の僕を見る。
「あらお父さん、高橋くんは南さんの観戦に、もう一人、別のガールフレンドも連れていたんですよ」
振り返って向坂プロを睨んでしまう。
「光佑、本当か?」
父が大いに喜んでいるところで、碁会所に着いた。
父は一緒についてきたがったが、僕は自転車を駅の駐輪場に置きっぱなしだったし、そろそろ母の帰宅時間なのに置手紙もしてこなかったので断った。
「続きはうちで聞かせろよ」
上機嫌で父は帰っていった。