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永井が去ってしばらくして、エントランスを行き来する人が増えた。大会が昼休憩に入ったようだった。
行き交う人たちを何となく眺めていたら、その中におじいちゃんプロを見つけた。僕は弾き出されるように立ち上がって、おじいちゃんプロを呼び止めた。
「待ってください!!」
僕はどうしてもおじいちゃんプロにも永井と同じ質問がしたかった。今日のそれまでの自分の理解不能な行動の理由が朧げに僕に近づいてくるのがわかった。
「ん、儂か?」
おじいちゃんプロは立ち止まってくれた。
僕は南が囲碁を好きだと証明したかった。
好きだからすべてを囲碁に捧げ、好きだから囲碁に夢中で、好きだから囲碁棋士を目指している。それを証明したいと思った。
南が囲碁を嫌っているなんて、嫌いなことにすべてを賭けているなんて、そんなこと苦しすぎて認められない。
それとこのことがどう繋がるのかなんて、一生上手に説明できなそうにないけれど、とにかく僕は囲碁をたくさん打つ人がどんなに囲碁を好きか、知りたくて、集めたくて仕方がなかった。
「ん、何じゃ?」
おじいちゃんプロは僕の言葉を待ってくれたけれど、僕は永井にしたみたいに気軽に訊くことができないでいた。自分の行動の正体を掴みかけたことで、興奮気味だったし、おじいちゃんプロは向かい合ってみると威圧感があった。
「サインでも欲しいのかい?」
おじいちゃんプロは空にサインを書く真似をする。
「いえ」
「じゃあ写真かね?」
今度は手でシャッターを押す真似。
「違います」
おじいちゃんプロは昨日言葉まで交わした僕のことを覚えていないみたいだった。
そこにスーツ姿のおじさんがやってきて、おじいちゃんプロを井上先生と呼び、色紙と黒のマジックペンを差し出して、深々と頭を下げるから、おじさんのてっぺんのハゲが丸見えになった。おじいちゃんプロは僕に「先にいいかい?」と訊いてから「いいですよ」と書き出した。
まずおじさんの名前を訊いてそれを色紙の右上に書く。それから中央にでっかく碁って書いて、それからその左下についでみたいに小さく井上忠司って書いた。それが嫌味なくらいに達筆で、それを受け取ったおじさんが本当に嬉しそうで、おじいちゃんプロが遠く感じた。ありがとうございますと、おじさんがもう一度僕にハゲを見せつけてから歩いていった。
それを見ていた人が握手を求め、それを見た人が写真をせがみ、と続いていって、あっという間におじいちゃんプロに少しだけど列ができた。
おじいちゃんプロは断らなかった。
僕は立って待つのも疲れて、もう一度椅子に座って、その様子を眺めていた。
最初のおじさんはちゃんとしたサイン色紙だったけれど、たいていの人がノートの一ページとか何かの紙切れの裏とかにサインをもらっていた。おじいちゃんプロはそんな失礼な人にも穏やかに対応していった。最初のハゲおじさんがサイン色紙を少女みたいに胸に抱きかかえて、この小さな騒動が自分のせいだったらどうしようって顔でまだエントランスから離れられないでいるのが見えた。
そこに「先生探しましたよ」と若い男性が駆け寄って来て、おじいちゃんプロを囲む数人に、もう時間がないのでこれで失礼させていただきますと丁寧な口調で言った。並んでいた人たちは口々に文句を言っていたけれど、それでも若い男性が強引におじいちゃんプロをエレベーターのほうへ連れていったので、みんな諦めたみたいだった。
僕は諦めなかった。
「おじいちゃん待ってよ」
エレベーターに乗る前に声をかけたら止められると思って、エレベーターが閉まる瞬間を狙って横から斜めに飛び込んだ。
「ぐあこん!!!!!」
かっこよくエレベーターに滑り込むはずだった僕は、閉まる扉に後頭部をこすられて前へつんのめり、エレベーターの壁に額から突っ込んだ。
頭に熱い衝撃を受けて、足がもつれて、やばいと思った瞬間には目の前がクリーム色の壁だった。
気がつくと知らない男性の腕の中にいた。
男性の声、揺れ、温もり、痛み、それらが徐々に戻ってきて、目を覚ました。
熱を持った鈍痛と熱を伴う羞恥に揺れながら、自分が気を失っていたことに思い当たる。
男性に抱きかかえられたままで方向転換して、僕はゆっくりと畳の上に降ろされた。
十畳くらいで、入り口で靴を脱ぐようになっている畳の部屋。真ん中にテーブルが置かれ、廊下側の隅には碁盤が並んでいる。
「大丈夫かい?」
男性の声に頷いて応える。
男性は部屋の隅に座布団を並べて、横になるといいよと言ってくれたので、僕は頭の前後にできたこぶを気にしながら、横になった。
本当に大丈夫かい、大丈夫です、のラリーを数回してから、男性は僕に訊かれるままに、一人で来ていること、おじいちゃんプロに訊きたいことがあったこと、自分の名前と年齢なんかを話した。
男性はいかに驚いたか、救急車を呼ぼうか迷ったこと、僕を何とか運べて何だか男としての自信がついたこと、名前は倉田で囲碁雑誌の編集の仕事をしていることを教えてくれた。
しばらくしておじいちゃんプロがお医者さんを連れてきて、僕のこぶはたいしたことはないと診断され、倉田さんが探してきた保冷材をあてて様子を見ることになった。
お医者さんはもし何かあったら来なさいと、名刺をくれて出ていった。
おじいちゃんプロも決勝戦と順位戦を見に部屋を出た。
倉田さんは部屋のテレビで観戦をしながら僕を看てくれた。僕は倉田さんに甘えて、体を横たえたまま頭を冷やし、そのうちに眠った。