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前進

 馬鹿みたいに、飽きることすら知らないで、涙はずっと溢れてくる。

 もう涙は枯れてしまっているはずだのに、私がどんなに堪えたって、私の目から涙がずっと溢れている。

 苦しいの。辛いの。

 それは嘘でないから、紛れもない事実だから、取り繕う術だってきっとないわ。


 だけどね、だから私は笑いたいの。

 こんなのって変かもしれないけれど、私は強くなりたいの。


 あなたのためにも、私が強くなくっちゃいけないのよね。

 どれだけ苦しくたって、笑顔でいられるくらい、強くなくっちゃ。

 それに、今のうちに笑顔を作れるようになっておかなくちゃ、今後の私は笑顔を忘れたままで生きることになるに決まっているわ。

 もっと嫌なのは、笑顔を思い出す代償に、この哀しみを忘れてしまうことね。


 そういった辛いことにならないように、私は笑いたいの。

 笑顔で、あなたを心配させることなく、あなたに尽くしたいの。


「すまない。本当にすまない。きみが私にとって大切な人だということを、どうにか思い出したいと思うのだけれども、きみのことを何も思い出せないのだ。欠片さえも、少しだって、思い出せないのだ」


 記憶をなくしても、優しいところは変わらないのね。

 だれより不安で辛いのは、あなたなはずなのに、泣き崩れていた私にハンカチを差し出してくれたの。


 受け取ったそれが、私がプレゼントしたハンカチだったから、より一層、複雑な気分になったわ。

 あの人が私のプレゼントを、肌身離さず持っていてくれたことは、嬉しくって舞い上がりそうなほどに、幸せなことだわ。

 けれどね、それを見たってあなたが私を少しも思い出してくれないことは、同時に切ないことでもあるじゃないのよ。


 どうしたって、あなたの中に私の影さえ見つけられないんだわ。

 そう思ってしまって、ならないじゃないのよ。


「……ありがとう。一つ、質問をいいかしら?」

「どうぞ」

「もう一度、やり直すことは可能なの? どうやらあなたの本質的なところは変わっていない様子だし、思い出なんかなくたって、これから作っていけるなら、私は過去を失った今のあなたも愛するわ」


 大きな覚悟を抱えた質問だった。

 この返答次第では、もう私は生きていけないかもしれないわ。


 そうたとえば、作り笑顔で優しく「可能だよ」だなんて言われてしまったら。

 そうたとえば、「私もそう思っていた」だなんて、軽く言われてしまったなら。

 ……もう私は、立ち直れなくなってしまうわ。


 あの人は死んでしまった、そう思わずにいられないもの。

 あの人が死んでしまったのなら、私の生きる場所はないということだわ。


「馬鹿なことを言わないでおくれよ。私はきみを愛した記憶を持っていないで、それなのにきみは私を既に愛している。スタート地点が違うのに、上手くラブストーリーが流れるはずがない。頼むから、私のことは放っておいておくれ」


「そう、なるほどね。わかったわ。だけれど、そんな状態じゃ、お仕事だってできないじゃないの。自分のことさえ憶えていないのなら、家族のことだって憶えていないのでしょ? どうやって生活をしていくつもりなの?」


 あの人らしい返答に、一先ずほっとはしたけれど、だからまた離れられなくなりそうで怖いの。

 言葉では言えたけれど、過去を失った今のあなたを、正直に言えば……きちんと愛せる自信だってないのだし。

 私とあの人とで刻んだ思い出が、一緒に過ごした時間が、全て消えてしまっただなんて、受け入れてあの人にそっくりなあなたとなんていられるはずがないわ。


 放っておいておくれ、あぁ頭で繰り返し考えてみても、あの人が言いそうな言葉だわ。

 優しいふりをして、偽善で笑ったり話を合わせたりしないの。


 もう私を愛してくれた記憶はないはずだのに、私がこれ以上は傷付かないように、そういう余計な優しさを見せてくれるんだわ。

 その優しさに甘えたがる私でないことを、あの人なら知っているけれど、あなたは知らないのでしょうね。

 精一杯の優しさのつもりなのでしょうね。


 えぇ、正解の選択肢。私を気遣った選択肢。

 わかっているわ。それでこそあの人だわ。


「まるで、初めて出会った日のようだわ」


 言葉にしてしまうと辛くて、せっかく一度は止まった涙が、またも溢れてきてしまうの。

 自分で思っていた以上に、落ち着くのには、時間が掛かりそうだわ。


「今までやっていた仕事のことは憶えていないけれど、どうにか今の私にもできそうなことを探してみるよ。そうして、自分一人の力でも、生きていける……。だから、本当にすまないけれど、きみの愛しい人は死んだのだと思って、私の大切だった人たちにもそう伝えてくれ」


 涙をやっと拭い終わって、今度こそ落ち着いたかと思ったのに、あなたはそんなことを私に言うんだわ。

 不安の中、そんなことは大変に決まっているのに、それがわからないほどあなたは馬鹿でないのに。

 自分一人の力でも生きていけるだなんて、強がりを言うような人じゃないじゃないの。


 そんな優しさだったらいらないわ。

 そう責めたいところなのに、あなたの瞳はいまだ私を警戒する色が残っているから、心を開いてくれてはいないようだから、言えるはずがないわ。

 遠慮して、他人行儀でいなくちゃならないのね。


「あの人が死んでしまった。私の愛しい人が、死んでしまった。無理よ、そんなの、信じられないわ。それを事実と認めたなら、それは私の死を認めたときだわ。あの人が死ぬなら、私も死ぬの」

「愛は一生に一度じゃないさ。もっと素晴らしい出会いが、きみを待っているかもしれないのだから、悲しいことを言うものじゃないよ」

「何よ。人によってはそうかもしれないけれどね、私にとっては、愛は一生に一つしかないものなの。恋は一生に一度きりのものなの。簡単に諦められるものじゃないのよ、もう一生を誓った、捧げてしまったんだもの! 取り消せはしない誓いだわ!」


 ここは病院だというのに、取り乱して叫んでしまっていた。

 周りの患者さんも迷惑しているし、あなただって迷惑している。


 そうだわ。私は、迷惑なんだわ。

 どうしてここに来るまでに気が付けなかったのかしら。


「そこまで言うのなら、きみが私の記憶を呼び覚ましてくれたまえよ。今すぐにである必要はないから、時間を掛けてでも、私に付き添って私を支えて……」


「ふふっ、まるでプロポーズだわ。私も、あなたもね」


 漸くここで笑えて、私は、とりあえずその日は帰ることにした。

 家で一人になって、すべてを整理し受け入れる時間が必要だと思ったから。

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