苦悩
どうしてそんなことを言うのよ。
わるい冗談は止めてちょうだいよ。
嘘なのでしょ。冗談なのでしょ。
いつもは冗談なんて言わないのに、今日に限って、なんでそんなことを言うのよ。
ねぇ、どうしてなの?
「私はあなたの妻よ。あなた、自分が三月春佳って名前ってことは憶えているの? 三月弥生、ねぇ、記憶の片隅にも残っていないの?」
小さくあなたは首を横に振るの。
どこまでを否定しているのか、それはわからないけれども、何を否定しているにしたって苦しかったわ。
もう私を愛してくれたあの人は、どこにもいないんだわ。
すべてが崩れ落ちていくみたいで、私、立っていることだってできなくなってしまったの。
生きているだけでよかった。生きていてくれるだけで、幸せなの。
それなのに、私ったら変だわ。
嫌で嫌で堪らない。
「すまない。少しも憶えていないのだよ。三月、春佳? その名前には聞き覚えがある、それが、私の名前なのか?」
「えぇ、そうよ。あなたの名前は三月春佳。ちょっと待ってちょうだい。荷物の中に、免許証があるはずだわ。それを見たなら、少しは思い出すかもしれないし、思い出さなくたって自分のことがわかるわ」
ここで、とってもショックなことが起きたのよ。
私があの人のバッグを手に取ったなら、奪い返されてしまったの。
今までこんなことなかったんだもの。
本当に、本当に驚いたわ。
悪夢なら早く覚めて、強く願ったの。
でもね、これが……現実だというのね。
目が覚めるようなことはなくって、頬を抓ってはあからさまだから、自分の右足を左足で踏み付けてみたの。
どうしてもうちょっと手加減できなかったのかしらと、涙ぐんでしまうくらい痛かったわ。
足が痛くて、涙が滲んでしまうの。
そうよ、ただ、足が痛いだけなのよ。
「これが私の荷物だということはわかったのだ。すまない、きみが私の妻なのだろうとは思うのだが、荷物にはやはり……」
「あっ、そうよね、ごめんなさぃ……」
驚きと戸惑いで、後半は声が小さくなってしまってならなかったわ。
目の前にいるのは、間違えなくあの人なの。声も間違えなくあの人のものなの。
それだのに、冷たい言葉で私を拒絶するの。
この可能性は考えてないできたものだから、覚悟だってできていないっていうのに、容赦がないわ。
あの人の顔で、あの人の瞳で、私に警戒の視線を向けるの。
突然やってきて、妻であると告げる怪しい女に……。
「いっそ」
口に仕掛けて、慌てて閉じた。
だってそれは絶対に言いたくない言葉だったんだもの。
大切な人だから。
生きていてくれるだけで、嬉しいから。
大好きな人だから。
傍にいられるだけで、幸せだから。
だから、絶対に言いたくないの。
”いっそ帰ってこなければ”だなんて、そんな言葉は嫌なの。
何があっても、あの人が傍にいることを望まないということが、あってもいいはずがないじゃないのよ。
何よりも大切な人を、喪いたいなんて思うはずがないじゃないのよ。
記憶がないというだけで、あの人は無事なのだわ。
これじゃあ死んでいたって変わらないだとか、私は、そんなことも言いたくないの。
言いたくないのに、思いたくないのに、どうしてかしらね。
気付くと、頭の中に浮かんできてしまっているの。
気を抜くと、口から零れてしまいそうになるの。
失ってしまったものは、仕方がないことだわ。
どうして私を忘れてしまったの。そんな勝手で理不尽なことで、怒ったり責めたりすることなんてできないわ。
そのせいで、怒りや悲しみの向ける場所がない、というのもあるけれど。
こんなことを思ってしまっている時点で、私は小さい人間なのかしらね。
もっと大きな心を持っていたなら、私のことを覚えていなくたって、献身的になることができたのかしら。
あの人のためにと、あなたのためにと、尽くすことができたのかしら。
そんなのって、一人きりで過ごすのより、よっぽど辛くて悲しいに決まっているのに。
私がいい子に、がんばってたら、神様は記憶を返してくれるのかしら。
それとも、こうやって何にでも見返りを求めてしまう、それが間違っているの?
どうしたら、私はどうしたらいいの?
「出会った日のことも、記念日も、何もかも忘れてしまったのね」
私の存在さえ忘れてしまっているのだから、そんなのは当然のこと。
あなたを困らせてしまうだけ。
わかっているのに、言葉が、涙が零れて、止められなかったわ。
具体的にどうするか、それは後で考えるから、今だけは構わないわよね。
こうして泣くことくらい、許してくれるわよね。
今だけ泣いたら、すぐに、すべてを受け入れられるようにがんばるから。