ロクデナシ・ドロップ
ロクデナシ・ドロップ
◇
「あなた、助けてくれたの…?」
狭い路地に男が倒れる。
傍らには高い身長に筋肉の鎧を纏った金髪の男が立っていた。
古びた建物に囲まれたそこは行き止まりとなっていて、奥には別の男が血塗れで転がっている。散らばったゴミや割れた窓などが、長い間手入れする者がいなかったことを証明している。
そして、そこにはもう一人、この光景に似つかわしくない人物がいた。
仕立てのいいドレスのような服を着た小さな少女は、尻餅をついた態勢で、この場でただ一人立っている男へ声を向けた。
「っ」
奥で倒れ伏している男の惨状が目に入り、少女は小さく息を呑む。
しかし声に出すことはなく再び金髪の男を見やる。
「べ、別に頼んだわけじゃないけど一応言っておくわ、ありがとう」
少女は無表情を保っているが、気を紛らわすように長い銀髪を払い立ち上がった。
「わかってるとは思うけど私、追われているの。気は進まないけどあいつらを撒けたらお礼くらいしてあげてもいいわ」
そう言ってその場を後にしようとする少女に、
「礼なんざいらねェよ」
金髪の男は立ち塞がる。
「な、なによ……」
少女の足は一歩後ずさったが、気丈にも強い視線で男を睨み付けた。
「別に助けたわけじゃあないからな……」
金髪の男ヴィダルは、その視線を受けてニヤリと口を歪めた。
◇
大きな戦争により文明の粋を極めていた時代も今は昔となってしまった。
そんな世界になっても人間はしぶとく生き残った。激減した人口、失われた技術、そして戦争の傷跡も癒えない不毛な大地。数百年経った現在も国の定義すら曖昧なままで、しかし、ほんの少しではあるが復興の兆しを見せ始めていた。
戦前の建造物と衰退した現在の技術が不思議な折り合いを成す街、メルキア。大部分が現代の技術力で作られた、パイプで覆われた工場のような建物。しかし街の中心部には明らかに意匠の違う、滑らかなフォルムの建造物が点在している。
外周区にほど近いメルキア北西部。他の地区と違い原型があまり残っていない廃墟が密集しているここは、行き場をなくした者達の集まるスラムと呼ばれている。
その一画でヴィダルは一人歩いていた。彼はその性質上、荒くれ者たちの多いスラムの中でも一際目立つ存在だった。
周囲にはボロ切れのような布を服として着ているような者も少なくない。そんな人間たちが地べたに座り露店を開いていた。それらを目当てにやって来る住人もおり、それなりの賑わいを見せている。だが、ヴィダルの周りだけはエアポケットのように人がいない。
「ひっ」
近くを通りがかった中年の男がヴィダルを見て悲鳴を上げ、そそくさと離れていく。そんな彼の反応も珍しくはない。何故ならヴィダルはこのスラムで最も恐れられている男だからだ。
数年前にふらりと現れた一人の少年は、弱肉強食が掟のこの区画を生き延びてきた。敵対する者には一切の容赦をせず、受けた傷は何十倍にして報復する。そうした結果、スラムでヴィダルに逆らう者はいなくなった。
「へへ、ちょいといいかい兄ちゃん?」
しかし、中にはわざわざ近づいてくる者もいた。
そういう輩は大抵二パターンに分かれる。一つはヴィダルに心酔する変わり者。
「あン?」
振り返るとニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた三十手前くらいの男がいた。
「あんた、見たところかなり強そうだな。そういう奴ぁ金回りも悪くないのが相場だ」
そしてもう一つが、スラムに流れ着いたばかりの者だ。どうやら彼は後者であったようだ。
「……」
ヴィダルは特に答えることなく男を見つめる。
「実は上等なクスリがあるんだ。見てってくれよ」
「クスリ、ねェ……」
彼の言うクスリとはもちろん正常な薬剤ではないだろう。
「ここじゃあちょいと人が多い、興味があるならついてきてくれや」
言うと男は細い路地へと入っていく。
「……」
ヴィダルは無言でついていった。
しばらくすると男が立ち止まる。狭い路地はいつの間にか行き止まりとなっていた。そこで男は置いてあった大きなゴミ箱をあけ、中から小奇麗なケースを取り出した。
ケースを地面に置いて開くと、男はヴィダルの後ろへ下がり手でソレを示す。
「見てくれ、こいつだ」
ヴィダルが近づくと、ケースには拳程の大きさの袋に入った白い粉がいくつか収められていた。
ケースへ手を伸ばすヴィダルを後ろから眺めながら、男は静かに笑う。
(へへ、こいつで三人目だぜ)
懐からナイフを取り出し振り上げる。
(案外スラムで稼ぐのもちょろいもんだ……!)
ヴィダルが血の海に沈む光景を浮かべ、煌めく凶刃を振り下ろす。
だが、男が次に感じたのは右腕に伝わる鈍い痛みだった。
「いでっ」
見ると、弾き飛ばされたナイフが甲高い音を立てて壁にぶつかり、明後日の方向へ転がっていく。
「今、俺を殺そうとしたなァ……?」
その声にビクッと体を震わせながら恐る恐る振り返る男。
そんな男の態勢をヴィダルは拳を振り払った態勢のまま見つめ、愉悦を感じた。
「う、うわぁぁ!」
拳を鳴らして近づくと男は悲鳴を上げて逃げようとする。だがヴィダルが軽く足払いすると男は簡単に転んだ。
「俺を殺そうとしたってことは、俺に殺されても文句はねェってことだよなァ……?」
楽しそうに笑いながら拳を振りかぶり、そして辺りに鈍い音が響いた。
粉の入った小袋をしげしげと眺めるヴィダルだが、あいにく彼にはそれが本物かどうかの判断がつかなかった。仕方なしに専門の業者に見せてから、それが本物なら買い取らせようとケースを閉じた。
片手にケースを担ぎ、その場を去ろうと立ち上がると視界に先ほどの男の姿が入った。地面に倒れている男の顔面は血塗れで、原型を留めないほど変形している。明らかに死んでいた。ヴィダルはそれを顔色一つ変えずに蹴飛ばして路地の端へ寄せ、そのまま歩き出した。
と、そこで足音が聞こえてくる。それは全力で走っているような勢いある足音だった。ヴィダルが歩いていくと、すぐ先にあった突き当りから一人の少女が飛び出してきた。
少女はヴィダルの姿に驚き、ぶつかりそうになりながらもなんとか横をすり抜けた。
「きゃっ」
だがその結果態勢を崩した少女は勢いよく転んでしまった。
背格好から恐らく十歳を過ぎたくらいの少女だろう。
ヴィダルは一瞥するがそのまま去ろうとする。しかし、走ってきたのは少女一人ではなかった。
彼女のすぐ後に黒ずくめの男が走りこんできた。ヴィダルとその男は正面からぶつかってしまう。その拍子にヴィダルの持っていたケースが音を立てて落ちた。
「くっ、邪魔だどけ!」
男はヴィダルを押しのけて奥へ進む。
倒れていた少女は慌てて立ち上がろうとするが、この先が行き止まりと気付き息を呑む。遅れて男の方も気付く。
「どうやらここまでのようだな」
そう言ってゆっくり近づいていく。少女は倒れたまま悔しそうに顔を歪ませた。
「さぁ、我々のもとへ来てもらおう」
「誰があんたたちなんかに……ッ」
男が少女の正面に立ち、ゆっくりと手を伸ばしていく。
「待てよ」
そこでヴィダルは肩を掴んで男を止めた。
「てめェのせいで俺のモンが吹っ飛んじまったじゃねェか……」
男は振り返りヴィダルを睨む。ちらりと落ちているケースを眺め、その手を払った。
「見てわからないか。こっちは取り込んでいるんだ。さっさと失せろ」
それだけ言い放ち、ヴィダルから視線を外す。
「てめェの事情なんざ関係ないんだよォ!」
ヴィダルは背を向けた男の襟首を掴み強引に引き寄せた。その勢いに若干息の詰まった風な声を上げた男が苛立ちを口にする。
「グッ、貴様、いい加減に――」
だが男が最後まで言い切る前にヴィダルによって殴り飛ばされた。
「なに……あんた、どういうつもりよ?」
少女が警戒の眼差しで見つめてくる。対してヴィダルは自分が上に立っていることを理解しているが故の余裕を纏っている。それは彼がこの街で他を蹂躙して生きてきたことから来る自信であった。
「お前、名前は?」
ヴィダルの質問に、しかし少女は口を噤んだ。
「あン? 何シカトこいてんだ」
「……うるさいわね、あんたに教えてやる義理なんてないわ!」
見上げるほど大きな身体の自分に向かって、怯むことなく啖呵を切る少女の気の強さに物珍しさを感じる。
「まぁ、いいか」
しかしすぐに興味をなくしたように息をつき、懐を探りさほど長くない紐を取り出した。
「おいガキ、じっとしてろよ」
そう言うと、ヴィダルは少女の腕を掴んだ。
「ちょっ、何するのよ! 離しなさいッ!!」
少女は激しく抵抗するが二人の体格差は圧倒的。面倒くさそうに眉をしかめるだけで物ともしなかった。
そのまま彼女の両腕を後ろに回すと、取り出した紐で縛り上げた。
「なんなのよ、まさか変なことするつもりじゃ!?」
自分で言った言葉に恐怖を覚えたのか顔色が青くなっていく。
「うるせェ黙ってろ。誰もお前みたいなチビガキに興味なんてねェよ」
「誰がチビガキですって? あたしはこれでも十四よ! そもそもどうして縛る必要があるのよ。一体何が目的なの!? あたしにこんなことして、ただで済むと思って――むぐぅ!?」
「うるせェって言ってんだろ。ガキじゃねえならちったぁ言うこと聞け」
ヴィダルはイライラした様子で少女の口に丸めた布を突っ込んだ。
「むぐぅぅぅぅ!」
未だもがきながら何かを叫んでいる少女を、まるで物を扱うように肩に担いでヴィダルはその場を後にした。
◇
たくさんの物が散乱した一室。埃が舞っていてお世辞にも清潔とは言えないそこは、ヴィダルが根城としている場所だった。
赤い革が所々破れているソファーに座った少女は無表情の中にも恨めしそうな瞳で睨んでいる。
「さてと、ガキ。お前はなんで追いかけられてたんだ?」
発泡酒の缶を開けてゴクゴクと飲みながらヴィダルが聞いた。
「言う必要を感じないわ」
少女の答えはつれないものだった。ヴィダルから顔を背け、非協力的な空気を全身で表す。
その態度にヴィダルから舌打ちが漏れる。
「で? あんたはあたしをこんなところに連れてきて一体どうするつもり?」
身じろぎするたびにスプリングがギシギシと耳障りな音を立てる。少女はそれに顔をしかめながら質問した。
ちなみに先ほど口に詰められていた布は既になくなっているが、腕は未だ後ろで縛られたままだ。
自分は答えなかったくせに、と思いながらもヴィダルは今後の予定を聞かせた。
「売り飛ばす」
と言っても、それはひどくシンプルな答えだったが。
「……やっぱり」
少女は呆れたような声で呟く。
「いったい誰に売るっていうのよ?」
「知るか。お前みたいなガキが好きな金持ちがいるかもしれねぇしよ」
ヴィダルの答えを聞き少女は溜息をついた。
「はぁ。所詮スラムの住人ね。こんなところに住んでると発想まで貧困になるのかしら?」
「あぁ!?」
バカにしたような言葉にヴィダルは大人げなく声を荒らげる。
元々気性の荒いヴィダルは、話し合いよりも腕っぷしで物事を片付けてきた。それは大人も子供も関係ない。
「ガキだからって調子乗ってると痛い目見るってわかってねェみたいだな……」
拳を鳴らして脅しをかけるヴィダルだったが、少女に怖がる様子はなく、むしろどこか苛立っているようだ。
「……あんたねぇ。さっきからガキガキうるさいのよ! あたしはこう見えても十四だし、ユーフォリアって立派な名前がちゃんとあるのよ! 頭だってあんたよりもずっといいんだから!」
名前を隠していたことも忘れたのか、その苛立ちを表すようにヴィダルへと怒鳴った。
「十四!? マジかよ」
「マジよ、大マジよ! それにさっきあたしを売るって言ってたけどね、売るにしたって他に方法はあるでしょ!?」
ずっと子供扱いされていたことと、ついでに物のように担がれて運ばれてきたことで相当鬱憤が溜まっていたのか勢いよく喋り出す。
「他の方法?」
「そうよ! いるかもわからない物好きよりも、あたしを確実に欲しがってる奴らがいるでしょ!? あの追っ手よ! あの黒服、我々って言ってたでしょ? つまり黒服は他にもいてそれを動かす組織があるってことになる。そして組織があるなら確実に大きなお金を持っているわ! お金が欲しいならそっちを相手にした方が効率的だし利益も大きい! あたしならそうするわよ、そんなこともわからないのこのウスバカゲロウ!」
そこまで言い切ると少女、ユーフォリアはゼェゼェと呼吸を繰り返した。
「なるほどな、確かに俺は考えが足りなかったぜ。お前の言う通りにしてやるよ」
「あ!」
ヴィダルの言葉でようやく我に返ったのか慌てて口を塞ぐが、しかし全てが遅かった。ヴィダルはニヤニヤ笑いながら彼女の肩に手を置いた。
「ありがとよ、ユーフォリア」
「くっ、しまった……」
正気に戻ったユーフォリアは再び無表情になっていたが、今にも頭を抱えそうな雰囲気で縛られた両腕をモゾモゾ動かしていた。
それからしばらく経つと数人の男がヴィダルの部屋に訪れた。
彼らは舎弟のような者たちで、どういうわけか自分に憧れを抱いているらしい。
「兄貴、そのガキは?」
舎弟の一人がユーフォリアの姿に軽く驚きつつ尋ねてくる。
「金になりそうだったんで連れてきた」
その答えに男たちはなるほど、と笑いながら納得した。彼らもスラムの住人、金のために売られるなんてことはよくある話だと慣れたものだった。
「そいつは残念だったな、お嬢ちゃん」
「売られるからって俺らを恨むなよー」
と、口々に心のこもらない慰めの言葉をかけた。
「……お嬢ちゃんじゃない、ユーフォリアよ」
それだけ言うとそっぽを向く。
ヴィダルは舎弟にユーフォリアを縛る紐を解くよう命じた。
彼女はようやく腕が解放されたものの、意外感を滲ませて尋ねてきた。
「いいのかしら、解いちゃっても」
「こいつらも来たことだしな」
舎弟たちを差しながらヴィダルは発泡酒を飲み干す。辺りには既に同じ物の空き缶が数個転がっていた。
「それにお前はこの街じゃあ目立つ。逃げたってすぐ捕まえられる」
「そう……」
縛られた跡をさすりながらぼそりと呟いた。
「あー!」
そこで一人の舎弟が転がっている缶を見て叫びを上げた。。
「兄貴ってばもう飲み始めてんですか? 早いっすよ~」
「うっせェ。俺の酒だ、いつ飲んだっていいだろうがよォ。それよりちゃんと持ってきたんだろうな?」
ヴィダルが聞くと、舎弟たちは各々が持っていた物を机に広げた。それらは全て食糧や酒で、この人数でも軽く宴会が出来そうなくらいの量があった。
それらの大部分が合成食物であったが、中にはスラムでは出回っていない品種改良された動植物が使われた料理もありヴィダルを驚かせた。旨そうな香りと共に湯気が立ち上り舎弟たちは歓声を上げる。
「やるじゃねェか、お前ら」
ヴィダルが笑いながらそう言うと、舎弟たちも嬉しそうに笑った。
「……」
その様子をユーフォリアはじっと見つめていた。
(あんな野蛮なヴィダルもこんな風に笑うのね……なんだろう、この雰囲気)
彼らの姿を見ていると懐かしいような気持ちが湧き上がってくる。かつて自分もこんな雰囲気を感じていた気がしてくるのだ。
(あれは……そう、家族みたいな……)
ズキリ、と。胸に痛みのようなものを感じ、ユーフォリアはそっと押さえる。
「おら、お前も黙ってねェで食えよユーフォリア」
声と共にたくさんの料理が彼女の前に置かれた。
ユーフォリアは今浮かんだ痛みを忘れるように料理に口をつけた。
そうして各々が騒ぎながら飲み食いしている中で、舎弟の一人がぽつりと呟いた。
「そういや、ユーフォリアって名前どっかで聞いたことある気がするんだが……お前ら誰かわかるか?」
他の舎弟たちを見ると、一人が同意を示す。
「俺も何かで聞いた覚えがあるな……なんだったか……」
頭に手を当ててしばらく考え込んでいたが、やがて初めに疑問を述べた舎弟が顔を上げた。
「思い出した、科学者ユーフォリアだ!」
するともう一人の方もすっきりしたような表情になった。
「あぁ、それだ!」
「……科学者?」
ヴィダルが科学者という単語に疑問を浮かべると、舎弟ふたりはおや? という表情をした。
「あれ、知りませんか? 新聞に載ってたのを見たことがあるんですが」
「知らねぇよ。だいたいスラムじゃあ新聞なんて何日も前のものが流れてくるだけじゃねェか。んなもんわざわざ読まねェよ」
いいから教えろ、と言うと二人の舎弟はその新聞の内容を説明しだす。
「と言っても、俺も多少のことしか知らないんですが……」
と前置きしてから語ったのは、ある日の新聞にロストテクノロジーの解明がまた進んだという見出しの記事があり、そこに載っていた天才科学者の名前がユーフォリアだということ、そしてその科学者がまだ年端もいかない少女であるという内容だった。
彼らの話を聞き終えたヴィダルはユーフォリアを見る。
その視線に一度溜息をつくと、彼女は諦めたように肯定した。
「……そうよ。その科学者っていうのはあたしのこと」
「ってこたァ、お前を追ってた黒服の連中は……」
「あら、あんたみたいな低能でもそれくらいはわかるのね」
「んだとコラ!!」
いきり立つヴィダルを舎弟たちがなだめる。
舌打ちをしながら缶をあおり、ヴィダルは改めて考えを巡らせた。
ユーフォリアが研究しているという先史文明の遺産はメルキアにいくつも残っている。それらはこの街で使われるエネルギーを精製したり、手足が不自由な人間のために機械化された義手や義足を与えたりと様々なことに役立ち、現在も使用可能なものがいくつかある。だがそれらはこの街に残っているもののほんの一部に過ぎない。何故ならそれらの仕組みが高度過ぎてほとんど解明出来ていないからだ。
大昔の戦争によって資料も失われてしまっている。現在使われているものは、このスイッチを押せばこうなる、ということがわかっているだけで、もし何らかの理由で故障やトラブルが起きても修理することはできないだろう。
これらの理由により、ロストテクノロジーに関する研究はこの街で非常に注目度の高いものだった。
だからこそ、この分野に携わる研究者には支援という形で多くの資金が集まる。
そこまで考え、ヴィダルはニヤリと笑いながらユーフォリアへ視線を送る。
「なるほど。なら、こいつに色々研究させたら金になりそうだな……」
頭の中で皮算用を巡らせるが、当のユーフォリアはヴィダルへキツイ眼差しを向けて立ち上がった。
「バカなんじゃないの? あんたたちに研究できる施設を用意できるの? それをお金に換えるルートがあるの? それにあたしは自分の研究を利用しようとする連中が大っ嫌いなの、死んでも協力なんてしないわ!」
それまでわいわいと飲み食いしていた者たちが、彼女の叫びに沈黙した。
「……そうかよ。だったら予定通り売り飛ばすだけだ」
ヴィダルの冷たい声が更に場の空気を下げた。ユーフォリアはヴィダルを睨み付け、すぐに視線を外して座った。舎弟たちは焦った様子で場を温めようと話題を探す。
「ほ、ほらお前ら、手が止まってんぞ。飲め飲め!」
一人が部屋の片隅に置かれていたボトルを開けて周りのグラスに注いでいく。
「ってオイ! それは俺の酒だろうが何勝手に開けてンだ!」
ボトルを指差しヴィダルが叫んだ。それはヴィダルが以前に、このスラムで幅を利かせていた集団を叩き潰した際に手に入れた上等な酒だった。
「まぁまぁ、兄貴も飲みましょうよ。あ、そうだ。一応ジュースも持ってきてたんだ。ほら、ユーフォリアも飲めって」
それぞれのグラスに酒とジュースが注がれる。二人は同時に溜息をつき、互いに顔を見合わせる。しかしすぐに逸らしてグラスを口に運んだ。
実は彼らが持ってきたジュースとやらはほんの少しだけアルコールが含まれていたのだが、そのことには誰も気付いていなかった。
二人がそれぞれグラスを傾けるのを見て、周囲の者たちはようやくホッと一息ついた。
「いやぁ、しかしこの酒うまいッスね~」
「ホントホント」
「コイツを手に入れたときの兄貴はかっこよかったぜ……」
「それな!」
舎弟たちは口々にヴィダルの雄姿を褒めたたえ、ヴィダルも会話には参加しないが満更でもなさそうな表情でグラスを傾けていた。
ユーフォリア何杯目かのジュースを飲み干した時も、男たちのヴィダル賛美は続いていた。
「あんたたち、仲良いわね……」
ぼそりと呟いた彼女の言葉を男たちは聞き逃さなかった。
「当ったり前じゃねーか!」
「おうよ、兄貴は俺たちの憧れだからなぁ~」
顔を赤らめて完全に出来上がっている男たちの酒気にあてられ、ユーフォリアまで頭がクラクラと揺れているような気がした。
「兄貴は凄いんだぜぇ? 子供の頃に親を亡くして以来、ここを一人でずっと生き抜いてきたんだ……今じゃあ歯向かう奴なんていなくなるほど有名になってな」
「親を……」
「それに、兄貴の凄いところは強さだけじゃねえ。身寄りのない俺たちの面倒をこうして見てくれる、そんな男気に皆惚れてるんだ!」
ヴィダルは揚々と語る舎弟たちをうっとうしげに睨む。
「てめェら、人の過去をペラペラしゃぺってんじゃねェぞ……だいたいてめェらを舎弟にしてんのはパシリにちょうど良かったからだ」
「まったまたぁ。兄貴は照れ屋なんスよね~」
「ウゼェな……しまいにゃ殴るぞ……」
イライラした様子を見せつけるように酒を仰ぐヴィダルを、舎弟たちはニヤニヤと見つめていた。
「ってな感じで、俺らと兄貴は固い絆で結ばれてんだ!」
グラスを片手にいつの間にか俯いていたユーフォリアの顔を覗き込む。
「ってオイ、ちょ、どうしたってんだよお嬢ちゃん」
すると、どういうわけか彼女は涙を流していた。
「え……」
彼女自身も自分が泣いていたことに気付いていなかったらしい。目尻を指で拭い、そこで初めて涙を流していると認識した。
「うそ……っ」
慌てて彼らから顔を隠して涙を拭く。
「なんだってんだ、いったい?」
「うっさい! なんでもないわよ!」
ヴィダルの言葉を跳ね除け、内心の動揺を必死に隠す。
(どうして……なんであたし、涙なんか……こいつらの話を聞いて心が緩んだ? そんなはずない! だって……)
頭を振ってユーフォリアは自分の考えを打ち消す。
(だって、あたしはもうちゃんと吹っ切ったはずなんだから……)
◇
ユーフォリアを連れてきて三日が経った。
ヴィダルは舎弟たちに、ユーフォリアの行方を追う黒服の情報を集めさせていた。未だ彼らに接触出来てはいないが、スラムでその姿を見たという者が何人かいたたため、彼らにたどり着くのは時間の問題だろう。
昼下がり、ヴィダルが部屋へ戻るとユーフォリアは一人おとなしく座っていた。
彼女の来ている服は出会った日と同じ物だ。だがずっと同じ物を着続けていたわけではなく、先日舎弟たちが苦労して洗濯したのであった。
というのも、ヴィダルたちの用意した着替えはどれも気に入らなかったらしい。
曰く、「こんなセンスの服着れるわけない!」と。服はそれだけしかないと言えば「女に同じ服をずっと着ていろと言う気!?」と洗濯を命じたのだった。ちなみに服が乾くまでの間はわざわざカーテンを外して羽織り、別の部屋に閉じこもっていた。
ヴィダルがユーフォリアの近くを通りがかったところで呼び止められる。
「ねぇあんた。アレはどうしたの?」
「アレ?」
表情を浮かべないその姿にもいい加減慣れてきたと感じながら、彼女の言うアレの正体を思案する。
「あぁ、コイツのことか?」
懐からフロッピーディスクを取り出す。それは彼女を連れてきた日に取り上げたものだった。
「ッ!」
ヴィダルが取り出した瞬間、ユーフォリアが飛び掛かってきた。フロッピーへ手を伸ばしてくるが、
「っと」
危ういところで彼女の手の届かない場所まで持ち上げた。
「危ねぇなオイ」
「もうちょっとだったのに……いい加減返しなさいよ!」
よほど重要なものなのか、必死に跳んで取り返そうとしてくる。初めにこれを取り上げたときも同じような様子だった。
「こいつには一体なにが入ってるんだ?」
言いながらユーフォリアの首根っこを掴んでソファーに投げると、「ぅきゃっ」と素っ頓狂な声が上がった。
「……あんたに教えるつもりはないわ」
乱れた髪を整えながら冷たく言い放つ。
今日ヴィダルが外出していたのも、実はこのフロッピーのことを調べるために機械類に強い知り合いの元まで出向いていたのだ。
ヴィダルは知らなかったが、ユーフォリアはそれなりに有名な科学者である。そんな彼女が追われている最中もそれを持ち歩いていたのだ。なにか重要な情報が中身に含まれているかもしれない。
そう思いわざわざ自ら出向いたのだが、帰ってきた答えは「わからない」であった。
元々フロッピーディスクやそれを読み取るパソコンは、戦争が起きた時代よりも更に前の時代の遺物。街の中央へ行けばずっと高性能のコンピューターも存在するが、まともに稼働するものは全てメルキアを治める上層部が管理している。
一般にパソコンといえば、戦後に残った情報をかき集めてようやく再現することが出来たブラウン管一体型のものであるが、これらは高額で所持している者は少ない。
そんな数少ない所有者でかつパソコンに詳しい人物が四苦八苦して調べたにも関わらず、ユーフォリアの持っていたフロッピーの中身を読み取ることが出来なかった。
一体この中にはどのような情報が入っているのか。そもそもこれは本当にフロッピーディスクなんだろうか?
そんな疑問がヴィダルの頭をよぎった時。
玄関の方向から大きな音が響いてきた。
「なんだァ?」
コツコツという足跡がヴィダルの耳に入る。どうやら誰かが玄関の扉を強引に開けて入ってきたようだ。
ヴィダルが待ち構えていると、全身黒ずくめの服装の男が現れた。
「質問。ここはヴィダルという男の拠点で間違いないか?」
妙な口調、固い声音で問いかけてくる男。彼の正面に立ったヴィダルは威圧するようにジロジロとねめつけた。
「あぁ、そうだが? 俺の拠点と知って押し入ったってこたァもちろん覚悟は出来てるよな……?」
表情という表情を感じさせないその男はヴィダルと同じくらいの体格で、ヴィダルは喧嘩上等とでも言うように睨んでいるためいつ爆発してもおかしくない危険な雰囲気を醸し出す。ユーフォリアは部屋の片隅へと避難した。
「と言いたいところだが、その恰好。ユーフォリアを追ってた連中だな?」
「肯定」
問いかけると短い答えが返ってきた。
「ちょうど探してたんだ。取引といこうぜ」
ヴィダルは男の肩に手を回して顔を寄せる。獰猛な笑みを浮かべながら言葉を続けようとするが、ふと違和感を覚える。
この男から温度を感じないのだ。たとえ服を厚く着こもうと人体の発する熱は伝わるものだというのに。
しかしそこまで考えて、ヴィダルは思考を放棄した。
(ま、どうでもいいか。俺には関係ねェ)
そうして再び先ほどのセリフを続ける。
「アイツの身柄を渡してやる代わりに俺らの指定する額を用意しろ。あぁ、ついでにお前がブッ壊した扉の修理代も頼むぜ?」
ユーフォリアを親指で指しながら条件を告げた。だが男はそれに答えることなく指した方向に視線を向け、
「ターゲットを発見、これより確保する」
と呟いた。
ヴィダルを押しのけてユーフォリアへ近づいていく男。彼女へと伸ばされた腕を慌てて掴み止める。
「待てよテメェ。話聞いてたか? コイツが欲しけりゃ金を出せって言ってんだ」
男は掴まれた腕を見るとゆっくりとこちらへ視線を移した。
「警告。お前は当機の作戦行動を阻害している」
「わけわかんねぇこと言ってンじゃねえよ!」
「警告。このまま阻害を続けるなら先の者たちと同じように処置する」
「先の者……?」
そこでヴィダルは思い出す。表には見張りとして舎弟の一人がいたはずだ。そもそもこの拠点を知っているのは舎弟以外ではほんの一握りだ。
ゆっくりと振り返る。今いる場所からは玄関へ繋がる短い通路を一直線に見通せる。
奥には壊された扉。
そして顔が歪むほど痛めつけられたヴィダルの舎弟が転がされていた。
「テメェッッッ!」
瞬間、怒りに染まったヴィダルはその拳を男の顔面へ叩き付けた。
筋力、体重を乗せた全力の一撃が凄まじい音を鳴り渡らせる。
しかし男は微動だにしない。
むしろあり得ないほど硬く重いその感触に自分の拳の方が悲鳴を上げた。
そこでヴィダルはようやく先ほどの違和感の正体に気付く。
「こいつ、アンドロイドか……!?」
「敵対行動を確認。個体名ガロン、これより対象を排除する」
ヴィダルへと向き直ったそのアンドロイド、ガロンは硬く握りしめられた拳を打ち出した。
「くっ……」
弾丸のような攻撃をなんとか避け、胴体に思い切り右足を叩き込む。が、蹴りの勢いに少しよろめいただけでダメージは感じられない。
「クソが、この鉄屑野郎!」
ガロンは態勢を整えると再び左の拳で殴りかかってきた。
「だったら……!」
ヴィダルは右へ体重を移動しながらその拳を右手で受け流し、その勢いを利用して回転しながら左肘をガロンの首筋へと放つ。
アンドロイドとはいえ人の形をしているのだ。ならば、人体でいう頸椎に当たる部分。そこには重要な回路などが集まっているに違いない。ヴィダルはそう考えた。
だが、
「無駄だ」
「なっ!?」
その攻撃すら、有効なダメージとはならなかった。
ガロンの鋼鉄の体に阻まれたヴィダルはそのまま腕を掴まれて引き寄せられる。文字通り人外の馬力を発揮するガロンに簡単に振り回され、腹に強烈な蹴りを叩き込まれる。
「うグッ!?」
ボールか何かのように軽々吹き飛ばされたヴィダルは、それまで様子を見ることしか出来なかったユーフォリアの元まで転がっていった。
「ひゃっ!?」
可愛らしい悲鳴を上げたユーフォリア。普段ならここで一言からかってやるところだが、あいにく今はそんな余裕はヴィダルにはない。
「ちょっと……あんた、大丈夫なの?」
「かはっ……チッ、お前に心配されるとはな……」
ヴィダルが強がって平気そうな顔を作るが実際はかなりのダメージだ。
「誰が心配なんか……私は逃げる隙を伺ってたのよ。あんたが簡単にやられたらあたしが逃げられないじゃない……」
「けっ、そうかよ……」
苦痛に呻きそうになりながら再び立ち上がる。先ほど蹴られた箇所は鈍い痛みがずっと続いている。
だが、ヴィダルには痛みよりも耐えられないことがあった。
「俺は俺に歯向かう奴には容赦しねェ。立場をわきまえねェ奴は叩き潰す。だけど……ここまで俺を怒らせた奴は初めてだ!!」
頭に血が上ったヴィダルは猛然とガロンへ襲い掛かる。
「俺はなァっ、他人に何かを奪われるのが世界で一番嫌いなんだよォッ!!」
今までにない速度で強襲され、ガロンの反応が一瞬送れる。ヴィダルにとってはそれで充分だった。火事場の馬鹿力とでも言うべきか、この時のヴィダルは自分の拳が壊れるほどの力で殴りかかったのだ。
その拳がガロンへと吸い込まれていき、そしてヴィダルが次に見たのは天井だった。
「ッ!?」
ヴィダルの攻撃は確かにガロンへ当たった。ガロンの想定以上の力を発揮した。だがそれでも、このアンドロイドは素手の人間がキレた程度で壊せるものではなかったのだ。
攻撃を受けながらも強烈なアッパーをヴィダルに叩き込み、そして決着はついた。
顎を打ち抜かれたことで脳震盪を起こし立つこともできないヴィダル。ガロンはゆっくりと近づいていき、とどめを刺そうと腕を振りかぶる。
「待って」
凛と響く少女の声。
いつの間にかユーフォリアが、ヴィダルをかばうように立ちはだかっていた。
「あなたの目的はあたしでしょう? いいわ、ついていく。だからもうやめて」
「……」
ガロンはしばらくの間、動くことなく黙っていたが。
「ターゲットの投降を確認」
と短く告げた。
「ま、て……テメェ、なんで……」
薄れそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、ユーフォリアの行動に愕然とする。
彼女は少し目をつむって、やがて決意したようにこちらを向いた。
「あたしはあんたが嫌いよ。こいつらに捕まるのも嫌で嫌で仕方ない。でもね、たとえあんたみたいな奴でも、あたしのせいで誰かが傷つくのはもう見たくない……」
「作戦終了、これより帰還する」
ユーフォリアはそう言い残し、ガロンに連れられ去っていく。
「ぐ……クソ……っ」
視界がぼやけていく。彼らの後ろ姿が玄関から消えたのを最後に、ヴィダルの意識は途絶えた。
◇
夜も深まり、辺りには人々の活動する音が完全に消え去っている。
この街の汚れた空気では星もろくに見えないが、青い輝きを放つ月だけは唯一地上を照らしている。
メルキア南西部の外れに位置するその施設は、この街の景観とは少し違った様相を呈している。色々なものが混ざり合ったような街並みとは違い、ここの建物はひどくシンプルだ。
二階建ての横に長い施設が等間隔でいくつも並び、奥に一棟だけ背の高い建物があった。
「あれだな」
小さく呟き、ヴィダルは柵を乗り越えて敷地内へ侵入した。
ユーフォリアが連れ去られてから一週間が経った。
あの後のヴィダルは荒れに荒れていたが、やがて彼女を奪い返すことを決め舎弟たちに行方を調べさせたのだった。
「無茶ですよ! 兄貴でも敵わない奴のところへ乗り込むだなんて……」
はじめは自分が負けたことを信じられない様子の舎弟たちだったが、奪還しにいく旨を伝えると猛反対してきた。
「お前らは来なくていい」
彼らにそう伝えると更に強い意志で止めようとしてきた。ヴィダルとしてもこれは譲れないことだった。
今、ヴィダルはかつてないほど怒り狂っている。
「俺のモンを奪われるのを、俺はもう絶対に許さねェ……」
だがそれも無理からぬこと。ヴィダルがスラムへ流れ着いたのは両親の死が原因だったが、それは両親の立場を邪魔に思う者たちの都合で殺されたのだ。以来スラムという過酷な世界で、ヴィダルはもう何も奪われることのないよう必死の思いで強くなった。そうして暴力の行き交うスラムでも最も恐れられる男となったのだ。
「兄貴……」
そのことを知っている舎弟たちは小さく声を漏らすだけで何も言えなくなった。
こうしてヴィダルはユーフォリアを取り戻すため、ここまでやって来たのだった。
(ん?)
そこで自分に違和感を覚える。
(ユーフォリアを取り戻すため……? この俺が?)
自らに問いかけ、すぐにかぶりを振って湧いてきた疑問を追い払う。
(違う、そうじゃねェ。俺は俺のために、俺の生き方のために取り戻すンだ……)
そして再び視線を前へ。
ヴィダルは彼女の居場所を探して歩き出した。
「ッ!?」
その時、急に周囲が照らされた。あまりの眩しさに視界が白く染まり慌てて目を覆う。しばらくしてようやく回復した瞳には、自分を照らす幾つもの照明が映った。
コツッ、と響く自分以外の足音。
「テメェは!?」
いつの間にか正面に立っていたのは自分を打ちのめしたあのアンドロイド、ガロンだった。すぐさま戦闘態勢に入ったヴィダルだが、ガロンは動かずに耳障りなノイズを発する。
『やぁ。待っていたよ、ヴィダル君』
そこから響いてきたのは以前に聞いたガロンとは全く別の声だった。
「……誰だ?」
訝しげな問いに、ガロンから響いてきた声は揚々と答える。
『初めまして。私はこのアンドロイド、ガロンを作り上げた者だ。そしてこの施設の主でもある』
その男は機械で声をいじっているのか、若いとも年老いているとも言えない声をしている。
『君が我々を探していることは知っていたよ。なのでこうして待たせてもらった。というのも実は君に用があるんだが――』
どうやら舎弟たちが情報を探っていることはばれていたらしい。その上で自分にどんな用があるというのか、ヴィダルには思い当たる節がない。が、そんなことはどうでもよかった。
「そうかい。で、アイツの居場所はどこだ?」
流れを断ち切り、まるで命令するような態度で尋ねる。
『ハハ、噂に違わぬ性格だな。しかし君は理解していないのか? このガロンに傷一つ付けられずに敗北したのだろう? どちらの立場が上かは一目瞭然だろう』
「んなこたぁ関係ねェンだよ」
愉快そうに笑うその声に、真向から逆らっていく。
ガロンと再び相まみえることは想像に難くない。身体的なスペックでは相手にならないこともわきまえている。だからそのための準備もしてきたのだ。
「俺は他人に奪われるのが我慢ならねェ。だから、奪い返した上でテメェ等の全部を俺がブチ壊してやる!」
自らの信念にも等しい行動理由を叫びガロンへと向かって走っていく。その両手にはいつの間にかナックルダスターがはめられている。
『やれやれ……仕方がない』
右腕を振りかぶりガロンへ殴りかかる。その拳はガロンの左腕でガードされ、代わりに空いている右が飛んでくる。同じようにヴィダルもガードするが、その上から殴られただけで身体ごとよろめく。
「グッ……」
『なんだその原始的な武器は。そんなものがこのガロンに通用するとでも思っているのか?』
「うるせェ! ンなもんやってみなきゃわからねェだろうがッ!」
腰に取り付けた小さなバッグから何かを地面に転がす。
途端、強烈な閃光が弾ける。
それはスラムを根城にするとある組織から入手した閃光弾だ。威力のないただの目くらましではあるが、こちらの動く隙を作ることくらいはできる。
「オラァッ!」
気合の掛け声とともにガロンを殴りつける。ナックルダスターを付けているため、金属同士がぶつかり合った甲高い音が響く。
「これなら……」
ヴィダルはそう呟くが、殴りつけられたガロンは倒れることなく立ったままだった。
『満足したか?』
見ればガロンの顔の部分にあった皮膚のような物が剥がれ、中の機械が丸見えになっていた。しかし肝心の機械の方は全く傷付いていない。
『チィッ……!』
慌てて離れようとするヴィダルだが、ガロンは素早く足払いを仕掛けてくる。ギリギリのところで転ばずに済んだが決定的にバランスを崩した状態。
「うおっ」
その隙を利用して後ろへ回り込まれ後頭部を掴まれる。そして、そのまま地面へ顔面を打ち付けられた。
「ガッ――」
そのまま二度三度と続けて痛めつけられる。
「う、ぐ……ぁ」
顔中が血でぐちゃぐちゃになるまで、痛みで悪態も付けなくなったところでようやくそれはおさまった。
『さて、話を続けよう』
ヴィダルを地面に押さえつけたまま仕切り直すように男は言った。
『我々の目的は実のところユーフォリア自身ではないんだ。まぁ少し考えればわかるだろうが、本当に欲しているのは彼女の持つ研究データさ』
「データ……?」
弱々しい声を出して問い返す。
『ああ。既に彼女の研究所は押さえてあるが、残念ながら彼女が逃げる前にデータを全て消去していたようだ』
「じゃあ――」
どうするつもりだ、と聞くよりも先に答えを明かした。
『だが彼女も研究者だ! これまでの成果を簡単に手放すはずがない。必ずバックアップを取って持ち出したはずだ……そこで君に聞きたい。彼女から、何か記録媒体のようなものを預かっていないか?』
その言葉を聞いたヴィダルはすぐにそれが何か思い当たった。
「あのフロッピーか……」
思わず漏れた呟きを、ガロンはしっかりと拾っていたようだ。
『ふむ。やはり心当たりがあるようだね。ならば取引といこうじゃないか!』
「取……引……?」
『君の持つそのフロッピーとやらを渡したまえ。そうすればユーフォリアの身柄は解放してもいい』
あいにくとヴィダルは例のフロッピーを持ってきてはいないが、受け入れればユーフォリアを取り返せるかもしれない。ガロンというアンドロイドを倒し、この施設から彼女の身柄を探し出して逃走するよりはよっぽどマシにも思える提案だ。
だが、実際は提案などではない。圧倒的な力を背景にした命令に他ならない。しかも、この状況ではたとえフロッピーを渡したとしてもユーフォリアを解放されると誰が断言できる?
「へっ、断ると言ったら……?」
苦労して笑みを受けべながら後ろのガロンを見つめる。
『そうだね……君を痛めつけて吐かせる、と言いたいところだが君は強情そうだからね。もし手に入れられそうになければ、ユーフォリアの記憶から情報を抜き出すことになるだろう』
「記憶を抜き出す……? ンなことが、可能なのか?」
軽い調子で告げられたその方法に愕然とする。半信半疑で尋ねるヴィダルに、男は自慢するように答える。
『出来るとも! その装置はロストテクノロジーの産物でね、長年の研究と解析でようやく使用可能なレベルにこぎ着けたのさ!』
その様子は、まるで自分の作り上げた砂の城を母親に自慢する子供のような無邪気さを内包していたが、すぐに落胆したような温度まで落ちる。
『しかし元はロストテクノロジー。まだまだ完璧に解析出来たとは言い難い。全ての機能を使えるわけではないし動作も不安定だ……しかし安心したまえ。良くて記憶喪失、悪ければ脳が焼き切れるかもしれないが情報の抜き取りは確実に出来る』
……待て。なんだそれは?
記憶が無くなる? 脳が焼き切れる?
そんなことになれば俺は……。
いや、その前に。どうして俺はこんなにショックを受けている?
『ふむ……解せんな』
ヴィダルの様子を見ていたのか、男は不思議そうな声音で問うてくる。
『君はスラムのようなクズの集まりの中でも札付きなんだろう? それが何故彼女のような天涯孤独の子供に入れ込む?』
「ッ!?」
明かされたユーフォリアの境遇に息を呑むヴィダル。しかしそれだけではなかった。
『もっとも、彼女の両親を殺めたのは私の手の者だがね』
「なん、だと……!?」
ユーフォリアの両親は自分たちが殺したとこの男は言う。
つまり、彼女は自分の研究データのために親を殺され、しかも今はそいつらの手の内にいるのだ。
彼女にとって、それはどれほどの屈辱だろう。
そこでふと思い出す。
ユーフォリアを連れてきた初日のことを。
仲間と騒いでいると急に涙を流した彼女。自分の研究を利用する連中が嫌いだと叫んだ彼女。
それらの理由が今ようやくわかった。
彼女も奪われたのだ。そして今もまた奪われようとしている。
少し。ほんの少しだけ、自分とユーフォリアは似ているんだ。
「なぁ。記憶を抜き出す装置とやらは、簡単に使えるモンなのか?」
奪われることに耐えられないヴィダルは、自分の性格を考慮しても何故ここまで感情的になるのかわかっていなかった。だが今ようやくそれを理解できた気がした。
『いきなりだな……まあいい。さっきも言ったように完璧ではない、それなりの準備が必要だ……それがどうしたと言うのだ?』
だが自分のやることは変わらない。ヴィダルはヴィダル自身のために、奪われたものを奪い返し、相手にそれを後悔させる。
「そうか。なら好都合だ」
『なに?』
ヴィダルはうつ伏せのまま腰のバッグから閃光弾を取り出し起爆させた。
『くっ……!?』
至近距離で炸裂した閃光に男のくぐもった声が聞こえる。それにかまうことなくヴィダルは立ち上がり、ソレをガロンの瞳へ押しつけ――、
タァンッッ!!
間を置かずに引き金を引いた。
そのまま撃鉄を引き起こし残弾全てを撃ち尽くす。大きな発砲音が連続で轟き、その弾丸は全てガロンへと吸い込まれていった。
これは以前に潰した組織からヴィダルが取り上げたものだ。今ヴィダルが持つ最大の攻撃力でもあるそれを一番装甲の薄いであろう眼球に全弾撃ち込んだ。
「ハァ……ハァ……どうだ?」
これで倒せなければもう打つ手がない。
『素晴らしい』
「なっ!?」
声とともに銃を持つ手を掴まれる。その手は力強く、いくらもがいてもびくともしなかった。
『今のは良かった。至近距離で隙を作り、隠し持った銃で目を集中的に攻撃して頭部を破壊しようとしたのだろう? それなら確かに破壊できるだろう。通常のアンドロイドであったらな。クックック』
笑いを噛み殺して演説を続ける間もガロンの力は欠片も緩まない。
『だが残念だったね。私は少々捻くれ者で、アンドロイドを制御するコンピューターを頭部に設置するような素直な真似はできないんだ……』
見れば銃撃された箇所は確かに破壊出来ていたが、彼の言う通り問題なく動き続けている。
「く、そ……」
『しかし、少し面倒くさくなってきた。そろそろ抵抗する意志をなくしてあげよう』
「ガッ……!?」
言った瞬間掴まれた腕を引き寄せられ、そのまま強烈なボディーブローを喰らう。
肋骨が折れる嫌な感触とともに後方へ吹き飛ばされる。
「ぅ、あ……ッ」
あまりの痛みに立ち上がる気力すら湧かず呻くことしかできない。今までは手加減でもしていたかのような力にヴィダルは愕然とした。
『さて、これでゆっくり話ができる』
ヴィダルは息も絶え絶えといった様子で地面に転がったまま。そんな彼をガロンを操る男は笑う。
『まったく、素直に取引していればそうならずに済んだものを。君もそう思うだろう?』
『……あんた、どうして』
その声を、初めヴィダルはあまりの痛みに幻聴まで聞こえてきたのかと思った。
「ユー、フォリア……?」
『なんでこんなこと……言ったじゃない、私のせいで誰かが傷つくのは見たくないって……』
『感謝したまえ? 君があまりに強情だから特別に彼女にも通信を繋げてやったんだ。さぁ、ユーフォリア。ヴィダル君を説得してくれ。君も囚われたままでいるのは嫌だろう?』
男はユーフォリアをけしかけるように言葉をつないだ。
『……えぇ、その通りよ。あんたがこれ以上無茶をする必要なんかないわ』
彼に従うように彼女もヴィダルへ諦めるよう言葉をかけてきた。だがその声色は暗く、恐らく彼女自身も彼らがデータを手に入れても自分を解放することはないと承知しているのだろう。
『彼女もこう言っている。さぁ、データの在処を教えるんだ』
「……」
ヴィダルは考える。ユーフォリアの過去、その意志、研究データ、ガロンという敵、男の目的。それらを頭の中で並べ、何が重要か、自分はどうするべきかを考える。
そして気付く。そうじゃないと。
「違ェな……そうだ、そうじゃねぇンだ……」
その呟きが意味することがわからず男は疑問を浮かべる。
『ん、何のことだ?』
色々なことが起こり、色々なことを知った。そのせいで頭の中で余計なことを考えてしまっていたが、ヴィダルがここへ来た理由は単純明快だ。
「データ? 取引? ンなこたァどうでもいい……俺は、奪われたものを取り返しにきただけだ……」
『あ、あんた何言ってるのよ!? あたしのことはどうでもいいって――』
その言葉を最後まで言わせずに叫ぶ。
「それが違ェって言ってんだ!」
満身創痍のヴィダルは咳き込みながら荒い息を吐き、地面を這ってガロンへ近づいていく。
「ハァ……ハァ……俺は、俺のために、このままじゃ引き下がれねェ……」
『でも……あんた、そんなにボロボロじゃない』
「だからどうした。このまま……奪われたままで終わるのは、死んでもごめんだ……」
『っ!』
武器もなく、身体もまともに動かない。そんな状態でも曲げることのできないもの。
『そう……あんたも、そうなのね』
両親を失った時から生まれたこの感情が今のヴィダルを動かしている。
『もう一度言うわ。データを渡して生きなさい。あんたじゃガロンには勝てない』
「うっせェ。こっちこそもう一度言うぞ……これは俺の都合だ、テメェはもう俺のモンなんだよ……!」
『……あたし、いつからあんたの物になったのよ……』
こんな時だというのに、ユーフォリアの声は随分と穏やかな調子だ。
『あんたとあたしは少し似てる。あんたのことは嫌いだったけど、根っこの部分は変わらない。そこは認めているわ』
「あン……? 一体なにを……」
突然そんなことを言われ困惑を隠せない。
『だからこそここでお別れよ。あんたは生きなさい、ヴィダル』
だがその言葉で身体が固まる。出会ってから初めてヴィダルの名前を呼んだユーフォリアに一瞬思考が止まるが、それよりも前になんと言った?
「テメェ、なんで……ッ!?」
『……ありがとう』
とても優しく、とても暖かく、そしてとても寂しい。様々な感情が込められたその一言。
一瞬ヴィダルの瞳に、ここにはいないはずのユーフォリアの顔が浮かんだような気がした。
そして、それが最後の言葉だった。
何かが壊れるような音とともに雑音が響く。
『おやおや、フラれてしまったな。彼女、通信装置を自分で壊してしまったようだ』
「…………」
ヴィダルは地面に這いつくばったまま動かない。
ユーフォリアが告げた言葉。それらが頭の中で巡ったまま離れない。
(俺とアイツが似てる……? 根っこが同じ……? なんだそりゃ、だったらなんでわかんねェんだ。俺は何度も奪われるのが嫌いだって言って――)
そこで思い出す。
――なんでこんなこと……言ったじゃない、私のせいで誰かが傷つくのは見たくないって……――
そう。彼女も何度も言っていた。自分のせいで誰かが傷つくのは見たくない。
ヴィダルと同じように、彼女にとっての根っこがそれだったのだ。
クソ……クソ、クソッ、クソがッッ!
お前が自分の根っこを貫くってンなら俺だって!!
ヴィダルは震える足へ必死に力を込め、掠れ呼吸を何度も繰り返してようやく立ち上がる。
『どうなるものかと君たちの会話を聞いていたが、結局結論は変わらないようだな』
今にも限界を迎えそうな弱々しい姿を視界に収め、ガロンは構えをとる。
『そんな状態では君も辛かろう。このあたりで幕引きとしようか』
男の言葉を引き金にガロンはヴィダルへ襲い掛かろうとし、視界に高速で迫る物体を確認して急停止した。
ヴィダルもそれに気付く。
闇夜の中を猛スピードで突き進んでくるその影は小型の自動車であった。それはスピードを緩めず、むしろ加速しながらガロンの立つ場所へ突っ込んでくる。
小型とはいえ車と衝突すれば機能に支障を来す可能性がある。ガロンは安全策を取りすぐその場を離れた。
目標を見失った車はヴィダルの横を通り過ぎた後、すぐさまUターンして近くへ停車する。扉が開き、中から出てきたのは二人の舎弟であった。
「兄貴、早く乗ってください!」
「テメェら、なんで……」
「いいから!」
降りてきた舎弟は強引に後部座席へ引きずり込む。満身創痍のヴィダルでは抵抗することが出来なかった。
「このまま逃げます!」
答えも聞かずそのまま猛発進。だが逃げるなど認められない。
「待てよテメェ……俺はまだ、アイツを取り返して……」
「その前に兄貴が死んじまいます」
「ンなことどうでも……」
「どうでもよくありません!!」
いつにない強い調子で怒鳴る舎弟。いや、彼らがヴィダルに怒鳴ることなど初めてのことだ。
「俺たちにとって兄貴は家族みたいなモンです……絶対死なせるわけにはいきません」
「けど俺は……このままじゃ……ッ」
「文句があるなら後でいくらでも聞きます。それで済まないならいくら殴ってくれても、なんなら殺されてもかまいません」
ヴィダルは後部座席から後ろを振り返る。窓ガラスにはどんどん遠ざかっていく施設の光景。
なんとか降りようとドアノブに手をかけるが、運転していないもう一人の舎弟に押さえられる。
今の自分では彼らの拘束さえ解くことができない。そんな自分にたまらない無力感が湧き上がってくる。
「チクショウ……ク、ソ……なんで俺は……チクショウが……!!」
運転している舎弟はバックミラー越しに背後を伺う。
ガロンがこちらを追ってくることはなかった。
◇
「ふむ……逃げられてしまったか」
資料のような紙が山と積まれたとある一室。
夜にも関わらず照明の類を一切つけていない。部屋を照らすのは、とある施設と一人の少女がいる部屋、それぞれを映す二つのモニターだけだった。
その部屋にはティーカップに注がれたコーヒーを味わう一人の男がいるが、小さな光源だけでは容姿をほとんど判別できない。
「念のため彼らにはダミーの施設の情報を掴ませたが、どうやら必要なかったようだな……」
呟き、室内に無数にある紙束をペラペラとめくる。
「バックアップデータを入手できなかったのは残念だがそれも誤差の範囲内。全ては順調に進行中だ」
片方のモニターに映る少女を見つめ、ニヤリと笑う。長い銀髪の煌めく、齢十四の天才少女を。
「ふふふふははは……さぁ、実験を始めよう!」
彼は意気揚々と言い放ちその部屋を後にした。
◇
早朝。
かつては温暖な気候だったこの一帯も戦争の影響で環境が激変し、現在のメルキア周辺の気温は決して高くない。日中は街の至る所から蒸気が吹き出して一時的に温かくなるが、この時間帯はまだ動いていないためかなり肌寒い。
ユーフォリア奪還へ向かってから三つの夜が明けた。
ヴィダルの受けた傷はまだ完治には程遠いが、彼は一人で出歩いていた。舎弟たちはひっきりなしに見舞いに来たが、この時間に来る者はさすがにいなかった。
ヴィダルが歩いているのはスラムの端、一般区にほど近い地域だった。
現在は出歩いている人間が見当たらないが、スラムの住人が今のヴィダルを見れば驚きに目を瞠るだろう。
いつものギラついた雰囲気は鳴りを潜め、まるで生気の抜けたような顔でフラフラと彷徨うように歩いている。
今のヴィダルを占めているのは、折れてしまった生き方だ。
(俺は負けた……取り返せなかった……また奪われた……)
ふと姿を見せたのは二人組の男。彼らは自らヴィダルへ近づき衝突した。
「おいテメェ、どこに目つけて歩いてんだボケ」
「お前ここら辺で幅きかせてるヴィダルって野郎だよなぁ?」
スラムに流れてきたばかりの彼らは、ほんの腕試しのような軽い気持ちで喧嘩を吹っ掛けたのだった。
「ちぃとこっち来いや」
彼らに言われるがまま狭い路地のゴミ溜まりまで連れ込まれ、そのまま殴り倒される。二人はサンドバックを相手にするように好き勝手にヴィダルを痛めつけた。
「けっ。スラムでも恐れられてるって割にたいしたことねぇ奴だったぜ」
「それな。こりゃ俺たちがここの天下取るのも案外楽なんじゃねぇか?」
二人組は品のない笑い声を上げながら去っていく。
身体中が痛みを訴えるが今のヴィダルには気にならない。
(俺の生き方は通用しなかった……)
失われた信念。それが強い喪失と虚無を心に運んでくる。
(俺はアイツを……)
傷だらけでゴミの中に埋もれたヴィダルは、そこから早朝の突き抜けるような青空をぼんやりと眺める。
(失ったんだ……)
ふとその瞳から小さな雫が頬を伝う。
それはさながら、自らの手からこぼれ落ちていった少女のようで。
「ユーフォリア……」
小さな呟きは、静かな朝の街に消えていった。




