Episode 8
「ま、待って? 何も、リィヤが出て行くことないんだよ? サギウスにはイサガが行ってくれるし、別にユニッドさんに会えなくても、サギウスは大きい街だから何かわかるかもしれないし。それに――」
ハンジが慌てて、リィヤに弁解を試みている。ベッドから下りて少女と向き合い、その小さな手を握りながら、必死になって言葉を探す。
しかしリィヤの決意も堅いのか、きゅっと結んだ口は一向に開こうとしなかった。
リィヤの言葉に呆けてしまい、心ここになかったイサガがようやく動く。ハンジに場所を変わってもらい、今度はイサガがリィヤの前で膝を付いた。
「リィヤ。おれのことが信用できないかい?」
揺れる黒の瞳が、イサガに向けられた。そして、リィヤは少年の問いかけに首を横に振って否定する。
自分の力の無さを言われたようで不安に感じていたが、そうではないようだ。イサガは質問を続ける。
「ならどうして、君がここを出て行く必要があると言うんだ? ハンジも言った通り、ユニッドにはおれだけで会いに行けばいい。きっと、サギウスでも何か君に関することが分かるかも――」
「また、あの、黒い服の人たちが来たら、この町の人が、危ないから…」
イサガは、言葉を失う。
拙く、震えながら、リィヤは続けようとするが、イサガは彼女の言いたいことが瞬時に読み取れた。
リィヤを狙って、またあの連中が町に向かってくる可能性は、ユニッドも同じく説いていた。今回は向こうが三人だけで、しかもこちらにはユニッドが味方についていたから何とか撃退はできたものの、毎回こう上手くいくとは限らない。
そもそも、この町でまともな闘いができる人材なんてほとんどいない。イサガも、独学で剣の修業に励んではいるが、経験は浅く、ましてや人と殺し合いをする技量も、手加減をする余裕だってない。
そんな地に、敵を招き入れる要因である自分が居続けることを、リィヤはひどく申し訳なく感じてしまったのだ。だから、町から離れることを志願したのだろう。
「わ、わたしがここにいたら、絶対、迷惑になる。だから…」
だから、出て行く。リィヤは、それを繰り返した。
ハンジも、自身や家族、町の住民への被害を考えると、途端にリィヤやイサガの話に現実味を感じてしまい、見るからに臆している。ロエンダも、視線をリィヤからそっと外した。
「……親切にしてくれた人を、巻き込みたく、ないの。助けてくれた、こと、本当に、嬉しかった」
リィヤの口角が、引き攣りながらも多少上がる。無理矢理の、作った笑顔だ。
自分の無力さに、腹立たしささえ感じる。
恐怖と不安に満ちた少女に、助けても言わせてあげられない。
危機に瀕しているのは間違いなく彼女であるはずなのに、そんなリィヤに事情を知ってもなおその全てを押し付けることしかできない。
何か、何かないのだろうか。彼女を納得させて、彼女に力を貸す方法は。イサガは思考を巡らせる。
そして、一つの考えに辿り着いた。
「リィヤ」
静かに、少女の名前を呼ぶ。
俯いてたリィヤも、それに応じてイサガと目を合わせた。
張り詰めた空気が、イサガが声を上げたことで少しばかり和らぐ。目を逸らしてたハンジとロエンダも、何事かと少年の方を向く。
「リィヤ。一つ、提案を思いついたんだ。聞いてくれるかい?」
イサガは尋ねる。
問われたからには、何かしらの反応を見せねばと思ったのか、恐る恐るとリィヤは頷いた。
そんな少女の、了承の意を示す動作に頬が緩む。微笑みを浮かべ、少年は言葉を紡いだ。
「おれと一緒に、旅に出ないか、リィヤ?」
◆
その言葉に、三人は目を丸くする。先程までとはまた違った、別の緊張感が部屋に走った。
いち早く、我に返ったのはハンジだった。
ハンジはイサガの肩をぐっと掴み、慌てて問い質す。
「な、なんでイサガも町を出て行く話になるの!?」
混乱の具合が、先とは比べ物にならない。
彼女の状態を見て、イサガは暢気に、そんな大きな事を言ってしまったかなと疑問を持つ。二人の熱量が、綺麗に反比例していた。
「別に、二人で町を出て行かなくても、他に方法あるんじゃない? それに、そんなに焦んなくたって…」
「けど、こうするのが一番、綺麗にまとまるんじゃないかい? リィヤは町に危険が及ぶことを懸念して、町を離れたいと思っている。しかしおれたちは、リィヤを一人で町から出す訳にもいかないとしている。――だったら、おれとリィヤ、二人で旅に出ればいい。もっと広い世界に行けば、リィヤのことも何か掴めるだろうし」
論破し切れないイサガに、ハンジはたじろぐ。
「何より――」
イサガはハンジから視線を逸らし、リィヤの様子を横目でちらりと見遣る。やはり状況をすぐには鵜呑みにできないのか、ぽかんとしていた。
「何よりおれが、リィヤを放っておきたくないんだ。分かってくれないか、ハンジ」
少し頭を冷やそうと、イサガの肩を掴んでいた手の力を抜き、一歩後ろに下がる。
確かに、ティントゥバルでは得られるものは少ないと言ったのはハンジ自身である。しかし、そんな考えにまで発展するとは思ってもいなかった。目の前の幼馴染の中に、町から出て行くという選択肢が存在していたことが、ハンジには信じられないのである。
ハンジはイサガが、自分の隣からいなくなる可能性を、この十年で抱いたことなど一度だってなかった。
あらゆる思考、私情、疑問が、ハンジの中を駆け巡る。しかし急にすとんと、それらが落ち着いた。彼女の視界に、ロエンダが映り込んだのだ。
無意識か、意図的か、混乱している今のハンジに判断はできなかったが、ロエンダの姿を捉えた彼女は一つ呼吸を整え、イサガを見つめる。
「……イサガが、町を出るって言い出すなんて、思ってもいなかった」
吐き捨てるような、まるで、独り言のような呟きだった。少年はそれに、律儀に応える。
「おれも、ここから出て行くなんて今まで考えたことなかったよ。――けど決めたんだ。やりたいこと、見つけたんだ」
イサガは立ち上がり、静かに二人のやり取りを聞いていたロエンダの下へ歩み寄り、向かい合った。
十年間、育ての親として自分の面倒を見てくれた女性に、改めて目を配る。
イサガの成長のせいもあるが、ロエンダ自身もここ数年で腰が曲がり始め、背丈はイサガより頭一つ半下までしかない。しかし、老いを感じさせまいと日頃から気を付けているため腰も変に癖は付いておらず、ぴんと立った姿勢は女性らしく美しい。
家事や水作業で荒れた手は相変わらず、良きにも悪きにも変化しないが、そのごわごわとした太めの掌で頭を撫でられるのが子どもの頃から好きだった。
もう隠しはしていない白髪も増える一方で、彼女の髪は灰色に染まっている。しかしそれがありのままのロエンダであり、隠し事や見栄を嫌う彼女らしさを表している。
彼女の見えるところ、見えるようになったところが、年々変化していくのを実感していくことがイサガの楽しみの一つであった。それを追い掛け続けるのが自分の人生であり、将来なのだと、少年はいつの頃からだったか思うようになる。
しかしその未来が今、崩れようとしていた。
「ロエンダさん。こんなこと勝手に決めてしまってすみません」
イサガは深々と、ロエンダに向かって頭を下げる。ロエンダも、表情からして驚きはしているようだが、何も言葉にはして来ない。
少年は続けた。
「おれは今まで、ロエンダさんやハンジや、おれを笑顔にさせてくれた町の人たちと、ずっとこの町で暮らしていけば良いとだけ考えてきました。同時に、誰かの役に立ちたいとも……」
その言葉に嘘はない。ロエンダも熟知していることで、幼少期からずっと彼が唱えていたことだった。
イサガはロエンダの元にやってきた当初から、ロエンダやティントゥバルの人々に感謝の気持ちを持って生活していた。恩返しをして、そんな暮らしが続いていけば良いとまで言う程だ。
「けれど今は、リィヤの役になりたい。力になりたいんです。――おれも、町の人を危ないことに巻き込みたくはありません。だから一緒に旅に行きます。この町を、出て行きます」
強く、握り締めた拳が震えている。
目の前で困っている人の手を掴んであげたい。今のイサガにあるのはその想いだけだった。
すると、それまで固く口を閉ざしていたロエンダが、静かに笑う。
「――ずっと遠慮しいで、人のことばっかり考えて、ろくに我が儘を言って来なかったイサガが、今度も人のために、それも、町を出て行きたいなんて最高の親泣かせなこと言い出すもんだから、笑えてきちまうよ」
ロエンダの、低い笑い声が小さく響き渡る。
目元を拭い、イサガを見上げるとまたにっ、と笑った。
「あんたがそうしたいなら、あたしは止めはしないさ。元々、こんな田舎町にずっと置いとくのもどうかと考えてたところだったんだし、やりたいこと見つけられたんなら、それを邪魔する義理もあたしにはないよ」
「行って来な、イサガ」
ロエンダは、ごわごわの手でイサガの蒼い髪を強引に撫で回す。不思議と、心地良い。
「ありがとうございます、ロエンダさん」
ぼさぼさになった髪を手櫛で整え、再び頭を下げた。少しばかり、気持ちも晴れ晴れとしている。
すると、黙り込んでいたハンジが、長い長い溜息を溢した。
「もう」
イサガは、ハンジの方に視線をやる。腕を組み、至極不満そうな表情を浮かべていた。
「ロエンダさんが賛成してくれてるのに、あたしばっか文句言ってても仕方ないじゃん」
膨れっ面と、その言葉は、納得していないことを意味していた。しかしこの場は、そう収めると折れてくれたのだろう。
「ハンジ。その……迷惑を掛けて済まないとは思ってる。けど、わかってくれないか?」
返事はない。彼女も、目を合わせてはくれなかった。
◆
「リィヤ」
「は……はい」
唐突に名を呼ばれ、リィヤの声が裏返る。
イサガは壁に立て掛けておいた大剣を抱えてリィヤの前に立ち、右手で柄を握る。剣を鞘から取り出し、左手の上に刃を乗せて片膝を付き、少女に剣を差し出すような体勢を取った。
刀身に、リィヤの顔がうっすらと映り込んだ。よく手入れはされているが、所々、手入れでは誤魔化せない年季の入り具合が見え隠れしている。
「この剣は、おれの父さんが使っていたものを、おれが受け継いだんだ」
リィヤはふと、ロエンダがイサガの親代わりのような人と紹介されていたのを思い出す。何かしらの事情があるのだろうと、ぼんやりと考えた。
「父さんは偉大な人だと聞いているんだ。たくさんの人を助けて、たくさんの人から慕われて。おれもいつか、そんな風になりたいっていつも思っていた。――けれどおれは、そういう人になるにはまだ遠い。未熟もいいとこだけど、でも、君の力になりたいっていうこの気持ちは本物だ」
「君を守ると、この剣に誓う。だから、おれをリィヤの隣に、いさせてはくれないだろうか?」
リィヤは、少し戸惑っている様子を見せる。
しかし、イサガの言葉に決心が固まったのか、固く握った拳を解いて、右手で刃にそっと触れる。
「――うん」
大きく、自信を持って、リィヤは頷いた。