Episode 7
少女は安堵の吐息を溢した。
よかった。その言葉で、イサガはどれだけ自分がリィヤに、不安や心配を与えていたかを思い知る。
イサガの頬に手を当てる少女は本当に、心から安心し切ったかのようで、晴れ晴れとした面持ちだった。初めて見る、リィヤのその明るい笑顔に胸が少しだけ締め付けられる。
命を狙われ、何も覚えていない彼女に、目の前の人間を信じろと強要させるのは些か無理がある。実際、出会ってからここに辿り着くまでは、完全に信頼はされていなかったのは目に見えていた。
そんなリィヤが、やっと、イサガに対して安心を見せた。
女性らしい、母性が隠れた微笑みを向けられて、イサガが嬉しくない訳がなかった。
左頬に添えられた手を、イサガは左手で覆うようにきゅっと握る。そして、漆黒の綺麗な瞳を見つめた。
「ありがとう、リィヤ」
「…どう、いたしまして」
少女はふふっ、と小さく笑う。
その言葉の拙さに、言い慣れていなさに、不器用な笑顔に、イサガも釣られる。少しだけ、リィヤとの距離を詰めることができたような気がしたのだ。
◆
完全に状況を理解できていないロエンダを差し置き、興奮冷めやらぬといった状態のハンジが我慢できなくなったようで、何かの言葉を発しながらリィヤに飛び付く。その拍子に、繋がれた手は解けてしまった。
「すっごいよ~リィヤ~~! 今の何? 司霊術? あたしあんなの初めて見たよ~~」
小さな体躯のリィヤを手中に収め、彼女の顔を胸に押し当てながら、ハンジは力強く抱きしめる。
後退を試みても、がっちりと掴まれているため身動きが全く取れない。
「ふぐ、うう……」
リィヤが、何とも形容しがたい呻き声を上げる。嫌がって抵抗する仕草は見せないが、突然のことで驚いたのか、拘束を免れた腕がばたばたと小さく暴れている。
ぽかんとしていたイサガも、リィヤの慌てふためきように急に我に返り、ハンジの肩をグイッと引き寄せて注意を促した。
「は、ハンジ! あんまり乱暴に扱わないでくれ。リィヤは、君の性格を熟知している町の子どもたちとは違うんだから」
幼馴染に叱咤され、ああそうかと、ハンジは腕の力を緩める。
拘束を解かれたリィヤが、ぷはっと止まりかけた息を吐き出して顔を見せる。ほんのりと頬が赤らめ、未だに目を丸くしている。
リィヤのそんな状態を見て、イサガは思わず溜息を溢した。
ハンジは元来から、人当たりが良く誰とでもすぐに打ち解けることができる反面、加減を知らない。感情に走って行動することも多々あり、自分やティントゥバルの住民は彼女のそんな性格を分かり切っているためいちいち指摘することもないのだが、リィヤに対してでは勝手が違う。
イサガはハンジから強引に引き剥がしたリィヤの背中を軽く撫で、彼女の呼吸を整わせる。
「大丈夫かい、リィヤ」
少年からの問いかけに、こくんと頷く。大事には至っていないようで、イサガも安堵した。
ハンジの方に目をやると、少しばかり、バツの悪そうな顔をしている。そこまで落ち込んでしまうのはイサガも計算外ではあったが、今はリィヤに味方せざるを得ない。
「ハンジ、君の行動はいつも些か軽率なんだから気を付けてくれ」
「わ、わかってるよ。……ごめんね、リィヤ?」
さっきまでの勢いはどこに行ったのか、急にしおらしくなったハンジは膝を畳み、リィヤと目線を同じくして詫びる。
けほっ、と咳払いを一つついて、リィヤは首を横に振りハンジに微笑みかけた。
「気に、しないで…? ちょっと、びっくりしただけ、だから」
とても、柔らかい笑顔だ。
年端もいかない少女の、少し大人びた、薄幸さが滲み出ている遠慮がちな微笑み。元から整った顔付きをするリィヤのそれは、少年少女の庇護欲を良い具合に擽る。
そんな笑顔を向けられ、ハンジの気持ちは再び高揚した。
「リィヤ、可愛い~~」
「うぎゅっ」
先に見たような光景が、再度繰り返される。
イサガから奪い返しでもするかのように強引に、リィヤに抱き付いたハンジは、少女に頬を摺り寄せる。リィヤの顔に付いたススでハンジの顔もみるみる内に黒く染まっていくが、本人は全く気にも留めていない様子だ。
今回はイサガも、ハンジの行動に何も小言を並べて来なかった。むしろ、少し赤くなった顔をリィヤにばれまいと隠すことに精一杯で、他のことなど気にする暇はなかったのである。
右手で顔を覆い、リィヤから視線を逸らすイサガの肩は小さく震えていた。
◆
「イサガ。もしかしてさっきの言葉、セーヴ・ルティアの言葉だったんじゃないかい?」
ハンジがようやく自力でリィヤを解放し、イサガの顔色も正常に戻ったタイミングを見計らい、ロエンダがとうとう口を開く。
やっと思考が正常に働くようになったイサガも、彼女のその言葉に納得する。
「確かに、リィヤのあの力は司霊術だったように感じました。今日町に来ていた使節団の、ユニッドが力を使っていた時と、状況がひどく似ていましたし」
イサガが顎に手を付けて、その時の情景を思い出している横で、ハンジは彼のベッドにリィヤを手中に収めたまま腰掛けた。
「司霊術って、セーヴ・ルティア人にしか使えない、不思議な術のことだよね? レフェンガイヤで、あんなの見たことないよ。――っていうか、そのユニッドっていう人に聞いてみれば、何かわかるんじゃないの?」
ハンジの提案に、イサガの顔が一層曇った。長年の付き合いなのに、ハンジも初めて見た表情だ。
「え? 何その顔?」
「……できればもう、あの人とは関わりたくない」
「なんで?」
「根本的に合わない。苦手なタイプだ」
「はあ? そんなこと言ってる場合? リィヤのためとか思えないの?」
その言葉一つ一つから、明らかに、ハンジが呆れているのが手に取るように伝わる。
自分だって、何を子どもみたいにと思っていない訳でもない。ユニッドに頼るという選択肢が彼の頭を過ったのも事実である。
しかし、脳裏に焼き付いた、彼への近寄りがたさがどうも払拭できない。
正論を掲げておきながら、人の上げ足ばかり取って小馬鹿にし、飄々とした態度で他人を寄せ付けず、それなのに遥か遠くを見据えた発言をするあの青年と接すると、自分が小さく思えて仕方がない。どのような環境が彼を育んだのかイサガには到底想像できないが、あんなにも捻くれた言動が目立つ男とは根っこの部分からもう受け付けられない。
苦々しい顔を浮かべるイサガを一瞥し、まるで人形のようにハンジに抱きかかえられたままのリィヤが、申し訳なさそうに声を上げる。
「わ、わたしも、できればあの人とは会いたくない、かも…」
責め立てられるイサガに合わせたというより、それがリィヤの本心のようだ。彼女もまた、ひどく曇った顔をしている。
リィヤにまでそう言われると、ハンジも強くは言い返せないらしく、うーんと小さく呻き声を上げる。
「イサガはともかく、リィヤが会いたくないって言うんなら強制はできないなー。ていうか、二人にそこまで言わせるそのユニッドっていう人がどんな人なのかすごく気になるんですけど」
「それに、もし頼るって決断に至ったとしても、ちょっともう時すでに遅しだからねえ。使節団の皆さんは、すでにサギウスに向かって出発しちまったよ。普通に歩きゃ半日は掛かるセルジ街道を、一時も掛けずに渡った連中をこれから追い掛けるのも難しい話さ」
サギウスは、ティントゥバルから北に向かったところに在する、この近辺の中では一番大きな港街で、貿易に栄えている。活気と人に溢れ、地元の名産から異国の一風変わった商品まで幅広く取り入れる賑やかな街だ。観光地としても有名なのだが、宿場環境も整っているため、この辺りに立ち寄った旅人たちはサギウスで身体を休めることも多い。
ティントゥバルとサギウスを繋ぐ道を、地元民はセルジ街道と称しているが、街道とするほど手入れはされておらず、むしろ荒れ地に近い。草木はあまり自生せず、枯れた大地がただただ続いているだけだ。ひたすら変わらない景色を眺めるかと考えるだけで、前に進む気力が失せてくる。イサガにとって、セルジ街道はそんな印象だった。
「サギウスに行くまで二時間も掛からないの? すごーい、どうやって移動しているんだろう? 空飛んで行ったりとかしてるのかな?」
ハンジが賞賛の声を上げた。確かに、とイサガは、心の中で賛同する。
「慣れない人だと丸一日掛かってしまうのに、そんな早くに移動できるのだったら追い付きようがないか…」
「けど、だとしてもどうするの? ティントゥバルで情報集めるにしたって限界があるよ? 出て行く人はいっぱいいるのに、新しく来る人なんて滅多にいないんだから。みんな、世間に疎い人ばかりだよ?」
イサガは腕を組んでうなだれている。こんな小さく、辺鄙な町ではやれることが限られている。しかし、何もしない訳にはいかない。
どんなことでも、何かしら行動していかなければと彼の正義心が煽り立てるが、彼を取り巻く環境が、重くぶ厚い枷となっていた。少年ができること、やれることが、この小さな部屋に閉じ籠ってしまっていることで、より狭まっていることを痛感する。
こうなってしまっては、私情など挟んでいる余裕はない。
「やっぱり、ユニッドに頼ってみよう。もしサギウスで宿を取るつもりなら、おれだけで向かえば間に合うかもしれない――」
「わ、わたし」
イサガの言葉を遮って、それまで大人しくハンジに抱きかかえられたままだったリィヤが、表情を見せまいと下を向きながら口を開いた。
皆の視線が、少女に集まる。
長い髪の隙間から覗いた唇は微かに、震えている。
「わたし、この町から、出て、行きます」
淡い紅色に染まった唇が紡いだ言葉は、少年の身体を無残にも貫いた。