Episode 5
咄嗟に、イサガは扉の方を睨み付ける。
剣を取り出すか、息を潜めてやり過ごすか、いくつかの選択肢がぼんやりと浮かぶ。
反射的に、多少荒っぽく、少女の手をグイッと引くと自分の影に仕舞い込む。浮かんだ可能性を頭で巡らせていくが、扉を叩く音と同じように部屋に流れ込む、聞き慣れた声にそれらは吹き飛んでしまった。
「イサガー? イサガいないのー?」
ピリッと張り詰めかけた部屋の空気が一気に凪いだ。
リィヤも臆している様子はなく、むしろ状況が見えずきょとんとしている。
「約束すっぽかしといて、居留守まで使ってるんだったらこのドア蹴っ飛ばすよ!」
(それは勘弁してくれ)
イサガは心の中で吐く。内心は、その表情と同じく綻んでいた。
程の良い甲高さと、はきはきとした十代らしい若い声色。今まで幾度となく耳にしてきた。
ハンジだ。
◆
怒気は孕んでいるが、殺気は全く感じられない。
これまでとは状況が異なっていることに何となく気付いたのか、リィヤの表情も少しだけ和らいだ。
疑問符を頭に浮かべながら目線を上に上げると、全てを察し柔らかい笑顔を向けたイサガと目が合う。
彼はどことなく、子供っぽく笑っている。
初めて見る顔だった。
どうして、そんな顔をするのだろう。
ふと、そんな疑問が頭を過る。
その顔の理由はあの声にあるのかなと、リィヤは扉を静かに見つめた。
◆
イサガはパッとリィヤの手を放し、何の疑いもなく扉に駆け寄る。
閉めたままだった鍵を開け、押し開いた。外界の空気と、暖かい日の光が舞い込む。
扉の前では、頬を膨らませながら、腰に手を当てて仁王立ちするハンジと、恰幅の良いやや背の曲がった初老の女性が待ち構える。ハンジは、今にも感情任せに掴み掛かって来そうな勢いで、貧乏揺すりを続けている。
そんな二人の顔を見遣ると、どっと緊張感が抜け落ちる。しかし、体裁を保つためイサガはすぐにそれらを拾い集めた。
「ロエンダさん。……それから、ハンジ、近所迷惑だからあまり騒ぎ立てないでおくれよ」
「ちょっと。約束すっぽかしておいてその態度なの? 何か言うことないわけ?」
「それは謝るけど、また話が違うだろ。だから先生がいつまでも頭を悩ませているんだ。いつまでも手がかかるって」
「お父さんは今は関係ないでしょ! っていうか、何それ初耳なんですけど!?」
状況も、事態も、少しだけ頭の隅に置いて、ハンジとの押し問答を始める。
心が落ち着く、愛おしい時間に少年は貪るように浸ろうとしている。隠し切れていない笑みが、それを明快にしていた。
二人のやり取りを黙って聞いていたもう一人の女性、ロエンダが、はあとため息を一つつくと、慣れた手付きで間に入り込む。
「イサガ。あんたも来るって聞いてたのに全然姿が見えないもんだから、私たちがこうやって呼びに来たんだよ」
ロエンダが口を開いたことにより、反対に二人は急に静かになった。
イサガはハンジから視線をロエンダに移し、申し訳なさそうに頭を低くする。
「そうだったんですか。すみません、ロエンダさん。心配と、迷惑もかけてしまって」
まるで幼い子供のように縮こまるイサガにロエンダは、気にしてないさと笑いかけた。
「イサガのことなんだから、何かしらの事情があったんだろう? 無断で約束破るような子に、育てた覚えはないんだから」
そう言うとロエンダは、イサガの頭を軽く叩く。少年の頬が、少しだけ赤らいだ。
そしてはっと、現実に立ち返る。
「ロエンダさん、実は――」
「かわいい!!」
イサガとロエンダはえっ、と声を上げ、お互いの顔を見合わせる。そこで、自分たちの近くにハンジの姿が見えないことにようやく気付く。
振り返って部屋の中を確認すると、ベッドの上でかわいいを連呼しながらリィヤを手中に収め頬をすり寄せるハンジがいた。少女の顔から移ったのか、ハンジの顔も少しばかり黒ずんでいる。
「え、あの……えぇ?」
問答無用に距離を詰めるハンジとは真逆に、リィヤは目を丸くしたまま固まっている。
ギュッと抱き締めたり、頭を撫でたり、まるでぬいぐるみか、ペットでも相手にしているかのような扱いだ。不揃いで汚れていたリィヤの髪や衣服が、さらにぐしゃぐしゃになっていく。
「だーれこの子? もうすっごくかわいいよお。お人形さんみたい!」
ハンジは、決して手を止めることがないまま、状況が飲めず棒立ちしているイサガを横目で見ながら尋ねる。
そこでやっと、イサガは我に返った。
「まっ……待ってくれ、ハンジ!」
飛び掛かるくらいの勢いで二人の間に立ったイサガは、リィヤからハンジを強引に引き剥がす。
自らをリィヤの壁とし、リィヤも、臆してはいないようではあるが、少し怯んだらしく、ハンジに視線を向けつつ、大人しくイサガの後ろに隠れた。
そんな、あからさまな様子を気に食わなく思ったのか、再びハンジの頬は膨らみ始める。
「えー? 何であたしだけ悪者みたいな扱いなの?」
「君が事情も相手のことも考えず行動するからだろう!?」
イサガは声を荒げた。
これにはハンジも、思わず口を噤んでしまう。
身を翻してリィヤと向き合う姿勢を取ったイサガは、乱れた髪を、慣れていない手付きで整えた。
「――大丈夫だったかい、リィヤ? どこか痛めたりとかしていないかい?」
「う、うん……」
質問しつつ少女を観察するが、これといった外傷も見受けられず、普通に返事をする様子に安堵した。
心なしか、リィヤの中の緊張も程よく溶けたらしくも見える。
イサガは髪を整える振りをして、密かに頭を撫でてみた。
◆
「――で、イサガ。どうしたんだい、その子は?」
イサガの手が一休みしたところを見計らい、ロエンダが尋ねる。
彼女の横では、膨れっ面になりながら、ロエンダに指摘されて汚れた顔を乱暴に拭い取るハンジが立っている。
ハンジもロエンダの質問に同調した。
「ティントゥバルの子じゃないよね? 初めて見る顔だし、今日は外から来る人が多いなあ」
「少し事情が複雑な子なんだよ。おれもまだ、全部を知っている訳ではないけど」
話の中心と、人の視線がリィヤに集まる。
リィヤはどこか、居心地悪そうに、また顔を曇らせた。
いち早く、イサガはそれに気付く。
「――リィヤ、怖がる必要はないよ。紹介が遅れてしまったね。こっちはおれの幼馴染の、ハンジだよ」
そう言うと、ハンジに視線を向ける。
幼馴染にカチッと合図を送ると、イサガの意思が通じたのか、ハンジは笑顔で答える。
リィヤもイサガと同じようになぞり、ハンジとそっと目を合わせた。明るい笑顔が出迎える。
茶色の髪が、ふわりと揺れた。
「挨拶が遅れちゃったね。あたしはハンジ・アッセル。よろしくね、えっと、リィヤ!」
落ち着いた雰囲気が目立つイサガとは反対に、ハンジははきはきとした言動に目が行く。
まるで、太陽のような笑顔だ。
「――で、この人はロエンダさんだよ。イサガの、えと、親みたいな人って言えばいいのかな?」
ハンジが隣にいるイサガに確認を取りつつ、もう一人の女性についての紹介を簡単に行う。イサガも、特に反論を示す様子はない。
リィヤはロエンダと、イサガの顔を交互に見遣り、小さく首を傾げた。
「親……代わり?」
「……あ、ああそうだよ。おれは七歳の頃から、ロエンダさんの所に住まわせてもらっているんだ。この部屋も、借りたものだってさっき言っただろう?」
一瞬だけ、言葉を詰まらせた。
しかし、彼はそれに気付いてはいない。
◆
「ところで! 結局のところ何があったの? リィヤもだけど、イサガも何かぼろぼろのふらふらじゃん」
ハンジが、脱線しかかった空気を強引に戻す。
そう言えば、とイサガも、やっとの事で立ち返った。
イサガは二人に、つい数刻前までに起こっていた出来事についてのあらましを説明する。
リィヤとの出会い。
黒服の男たちとの戦闘。
ユニッドと名乗ったセーヴ・ルティア人について。
彼女の名前。
イサガ自身も、当時は混乱し、理解出来ていなかった部分も少しずつ紐解くように、言葉を紡いでいった。
「あーそう言えば、講義が終わった後滑り込むように会場に入ってた人が確かいたよ? 結構若い男の人だったけど」
「恐らく、それがユニッドだよ。……本当に、使節団の人間だったんだな」
「え? そこ今さらながらに理解するところなの?」
腕を組んで大きく頷く彼の様子を見て、ハンジは思わず驚愕する。
どうやらユニッドは、イサガたちと別れた後、業務に戻ったようだ。遅刻したことにより、上司にこっぴどいお咎めを受けている様子が、ちょうどイサガを探しに行き始めたハンジの目に留まったらしい。
若い綺麗な顔立ちをした、だいたい年は同じくらいだろうという印象を抱いた以外に何も思わなかったため、詳しい人相は浮かべられないものの、その光景の滑稽さや可愛らしさからか妙に記憶に残っているそうだ。
「そっか。遅れてたのって、イサガたちと一緒にいたからなんだね」
せっかくだから少しくらい話しておけばよかったと、ハンジは少しばかり肩を落としているが、対してイサガは、そのようなことは断じて許さないとでも言いたそうに、この場にいない彼の幼い笑顔を睨み付ける。
もっとも、その空白の時間、彼が何をしていたかは、あくまで妄想の中でしか語れない。
ユニッドから話を逸らすよう、イサガは再び進めた。
◆
「――じゃあリィヤは、どこから来たのかも、自分が誰なのかも、多分名前も、何も覚えていないってこと?」
ハンジの問いかけに、小さく首を縦に振る。
「記憶喪失……ってこと? でも、命を狙われているなんて……」
少女の生い立ちに同情し、ハンジは顔を曇らせる。
ロエンダも、問いかけた。
「イサガ、あんたその、黒服の奴らから何も聞いてないのかい?」
少年は首を振る。
「リィヤを守ることで手一杯になってしまって、全く……。ただ、ユニッドが言うには、彼らの背後には何か、組織的なものを感じると」
「こんな小さな女の子を追い回すとか、悪趣味にも程があるよ!」
地団太を踏む勢いで、今度は頭を沸騰させているハンジが、リィヤよりも目線が下になるようしゃがみ込み、少し荒っぽい口調になる。
「もう、かわいい顔だってこんなに汚れてるし……リィヤ大丈夫? 痛いとことか、怪我してるとこない?」
――痛い、ところ……?
リィヤはまるで理解していないかのように、きょとんとしている。
彼女の返しに、ハンジの中の、行き場のない怒りが急に冷めてしまった。
「その……どこかずきってしたり、苦しいって思ったり、そういうところとかない?」
ハンジが改めて、大分噛み砕いて説明した。
しかし、それでもリィヤは首を傾げる一方である。
イサガやロエンダも、疑問符を浮べながらお互いの顔を見合わせた。ハンジも、分かり易く困り果てた表情をしている。
ハンジの問いかけに対するリィヤの反応は、全く無傷であることを表しているというより、痛みそのものに関する認識の薄さを感じさせた。
ただし、記憶の混濁による、一時的なショックが原因という可能性も捨てきれなくない。少々不審にも思えたが、取り敢えずこの場はそれで収めることとなった。
◆
「――ねえリィヤ。他に、何かわかることはないかい?」
ロエンダが、イサガやハンジに対する口調とはまた違う、柔らかい言葉遣いで話しかける。
感情任せで、多少強引なハンジと打って変わり、諭すように、ゆっくりと彼女の返事を待つ。
「何でもいいんだよ。覚えていること、見たことがあるもの、聞いたことがあるもの。どうやって、この町まで来たのか、だっていい。お前さんの言葉で、聞かせておくれ?」
ロエンダはリィヤの、漆黒の瞳を一心に見つめ、ただただ問いかける。
そして、待った。
間を空けられることで、リィヤも気持ちに余裕が生まれたのか、じっと考えた。
彼女が小さく口を開くのに、早々時間はかからなかった。
「――リドウ・ヴィスクニア」