Episode 0
暗闇の中、小さい歩幅で水を蹴る。
けたたましい豪雨が体を襲って来るも、その足を止める事は、少女の本能が許さなかった。
今自分がどこにいるのか、少女は知らない。人気の無さから見て、古めかしい家屋の外装から考えて、随分と前に捨てられた廃村であろう事は予測される。しかし、それ以上もそれ以下も、この場所に関する知識を少女は持ち合わせていなかった。
「いたぞ、こっちだ」
「早く応援を寄越せ」
そんな声と共に、少女の背後から、自分のとは間隔の大きさが違う足音が響いてくる。それも、一人二人で片付く数ではない。
苛立ちと、殺気が混じった声は、少女の後ろから、前方から、左右から襲い掛かって来る。それに、少女はただ怯える一方だ。罠を仕掛けて誘い込もうとか、隙を見て反撃しようとか、走り続けているせいか酸素を夢中で欲しがる頭は、そんな小手先の策なんて一つも浮かび挙げてくれない。
足が重い。胸も痛い。汗か雨か、涙かさえ分からないものが頬を伝うも、拭う余裕すらないのだ。
「奴の捕獲を最優先としろ。物体として存在が残るのであれば、どんな手段を用いても構わん」
少女を追いかけている者たちの中の一人がそう、声を荒げる。すると、その場にいた全員が了承し、先程までよりも大きな音で、水溜まりを蹴り出した。
追跡者たちの言葉が何を意味しているのかは、幼い少女はいまいち理解出来ていない。それでも、張り詰めて敏感になった精神が、自身に激しく訴えるのだ。
捕まってはいけない、と。
「に、逃げなくちゃ……逃げなくちゃ……」
そう、小さな声で自分を鼓舞する。鉛のように感じられた足が、自然とまた前に進んだ。
逃げ切れるかもしれない。自分に鞭を入れたためか、少しばかり不安が和らいだその胸に、淡い希望が光る。
しかし、その時だ。
パァンっ。
少女の足元で突然、一輪の火花が咲く。何かが弾けたような音と共に突如としてそれは現れ、一瞬にして姿を眩ませた。
弾丸である。
発砲音と火花に驚き、変に足を止めた結果少女は不格好な尻餅をつく。そして、花が咲いた辺りに自然と目が行った。
コンクリートの大地に、不自然に生じた一つの小さな窪み。弾丸という代物に心当たりがなくても、それが自分に当たっていたらと考えると一層顔が蒼くなった。
足の震えがより大きくなる。しかし、追跡者たちはそんな少女に容赦などしない。
少女の背後からまた、発砲音が炸裂する。今度は一発どころか、両手で数えきれないほどの音が耳を刺した。
少女の身体をうまく避けながら、放たれた弾丸は大地を次々と窪ませていく。
飛び散った火花が足に小さな火傷を作り、砕けたコンクリートの破片が頬を掠めた。
体中に伝わる痛みが、自分がまだ生きているという心地を教えてくれる。それがまた、少女を無理にでも奮い立たせた。
震える身体を起こし、少女は前に進む。
走って、裏路地に入って、建物の中に隠れて、息を潜めて。落ち着く瞬間なんて全く訪れない。ただ、この悪夢のような時間が過ぎ去ってくれるのを待つばかりだ。
煩すぎる鼓動が邪魔で、震えが止まらない身体が鬱陶しい。この場に、独りしかいないことがどうも怖かった。
誰か、誰か、誰か……。
「誰か……助けて……」
ついに、少女は心を溢す。しかし、それに応えてくれる者は誰もおらず、何の色も持たず、少女の呟きは空へと溶けていった。
諦めも込められた少女の言葉が、何色かに光って一人の少年に届くのは、もう少し先の話であった。