負けないで!
自転車のブレーキを踏まず、全速力でなだらかな坂を下った。
緩い傾斜でも勢いがつくと、絶叫マシーン並みのスピードだ。
頬を叩く風に思わず、目を細める。
でもこの感覚、やめられないな。
爽快感に思わず頬が緩んでしまう。
頬は風を受けて小刻みに揺れ、妙な感じだ。
心地よい風に逆らいながら、自転車は更にスピードを増す。
その所為で淡い水色の空も、眩い陽光も、萌えるような緑もあっという間に遠ざかり、鮮やかな残像となった。
やっと咲き始めた薄紅色が時折その中に混じってみえる。
坂の終わりにさしかかり、平坦な道に変わる。
慣性の法則に従って行けるところまで自転車に任せた。
徐々に弱まるスピードに見切りをつけ、今まで休憩中だった足に力を入れる。
右、左と両足に力を入れ全速力で漕ぐが、これじゃまだ足りない。
サドルから腰を浮かすと、前屈みになり更にスピードを上げる。
その勢いに乗って、紺色のスカートがめくりあがった。
でも足を止める訳には行かない。
この心の高まりを押さえるにはもっと激しい風が必要だから。
目指すは市民球場。
試合はもう、開始時間から1時間は過ぎている。
ゲームは後半にさしかかっているだろう。
思いもしない強豪チームとの試合。
草野球に毛が生えた弱小高校野球にとっては、試合ができるだけでも有り難いチームだ。
接戦するなど恐れ多い。
勝利するなど夢また夢のこと。
でもー……。
やっと見えてきた市民球場のグランドの間近まで自転車で突っ込む。
緑のフェンスの向こうにある一塁ベンチに見えるのは見慣れた長身のスポーツ刈。
その表情にいつもの穏やかさはない。
彼の顔からゲーム展開は見てとれる。
自転車を乗り捨てるように芝生の上に転がすと、自転車のスピードに乗って駆け出した。
フェンスにぶつかるように掴みかかり、春の陽気をめいいっぱい吸い込む。
「負けんな!」
相手チームの吹奏楽の応援に負けじと声が響いた。
驚いたように振り向く彼。
「負けんな!そんな負けそうな顔すんな!まだ試合は終わってない!」
彼の目が見開かれた。
「試合はこれからでしょ?8回は勝負の回なんでしょ?自分たちらしいゲームをするって、試合前のミーティングで言ってたじゃない!なのに発言したアンタがそんな顔するな!最後まで、いつも通りに笑っていてよ!」
息継ぎなしで、叫び続けるのも限界がある。
はぁはぁと息を切らしながらも目は彼から逸らさない。
感情が高ぶって泣きそうだ。
その潤んだ瞳に、彼の眩い笑顔が映った。
こちらを指差し一言。
「逆転満塁ホームランだ」
ニヤリと歪む口の端で白い歯がきらめいた。
「そこで見てろよ。オレの勇姿」
背を向けると彼は帽子のツバを掴み、何かを確かめるように深く帽子を被った。
その視線の先に広がるのは日の光を受けるグランド。
そして白いホームベース。
試合は8回裏。
点数差は10点――。
追いかけるには遅すぎる?
いいえ。
最後まで何があるか分からないのが勝負の世界。
だから諦めないで、立ち向かって。
最後まで夢という名前の白いボールを追いかけて。
彼の背を見つめる。
ホームベースでバットを握る仲間を熱く見守る彼の背を。
彼の宣言通り、試合はツーアウト満塁。
そして彼の番。
彼はもう一度ツバを握り、帽子を被り直すとこちらに視線を送った。
その視線に応えるようにとっておき笑顔を浮かべた。
本当は心臓が飛び出そうなほど緊張している。
でもそんなことは絶対に気づかせない。
自信満々の笑顔で彼を送り出すと、祈るように手を握りしめた。
――負けないで!最後まで笑っていて。わたしはずっとあなたの味方だからー。
読んで下ってありがとうございます。考えのまとまらない中でただ頭に浮かんだ風景を描きました。