6-1. 陳寿『三国志』のプロパガンダ構造
諸葛瞻の無意味な玉砕によって最終防衛線を失った成都は、もはや丸裸であった。景耀6年(263年)冬、皇帝・劉禅は鄧艾軍に降伏し、ここに四十三年続いた蜀漢の歴史は幕を閉じる。その後、劉禅が司馬昭の前で「此間樂、不思蜀(ここは楽しいので、蜀を思い出すことはありません)」と言い放ち、暗愚を装うことで自身と旧臣たちの命を守り抜いた「安楽公の故事」はあまりに有名である。
しかし、歴史の真の恐ろしさは、国家が滅亡した「その後」の記録のされ方にある。
蜀漢の滅亡後、旧蜀の官僚であった陳寿は、新たな支配者である晋(司馬氏)の体制下において歴史書『三国志』を編纂する。第一章や第四章でも触れた通り、この書物は単なる客観的な歴史記録ではない。晋の宮廷において、「自分たち蜀漢の旧臣は、優秀で忠実な実務家であり、新たな帝国(晋)でも役に立つ人材である」とアピールするための、極めて政治的な「自己正当化のプロパガンダ」としての側面を強烈に帯びていた。
彼らが有能さを証明するためには、「我々官僚機構は正しく機能していたが、一部のイレギュラーな存在のせいで国は滅んだ」という責任転嫁のロジック(スケープゴート)がどうしても必要になる。
その最も都合の良い生贄にされたのが、絶望的な国力差の中で最後まで「討賊」の国是を貫こうとした姜維であり、中央で泥を被りながらそれを支え続けた陳祗であった。陳寿は彼らを「民力を無視して無謀な戦争を繰り返し、国を疲弊させた佞臣・戦犯」として徹底的に非難し、すべての責任を彼らと、暗愚なトップ(劉禅)、そして小人(黄皓)に押し付けたのである。
一方で、このプロパガンダ構造の中で、極めて奇妙な「救済」を受けた男がいる。それこそが諸葛瞻である。
実態としての彼は、国是を放棄して宦官と結託し、前線の姜維を裏切り、ついには綿竹での軍事的な大失態によって国を滅ぼした「最悪の無能」であった。しかし陳寿は、彼を「国難に際して父の遺志を継ぎ、華々しく散った悲劇の忠臣」として美化して描いた。
なぜか。旧蜀の官僚たちにとって、諸葛瞻の「美しい玉砕」は非常に都合が良かったからだ。諸葛亮の血を引く者が国に殉じたという物語は、蜀漢の臣下たちが持っていた「忠義」の美しさを晋の朝廷にアピールする最高の素材となる。同時に、諸葛瞻に「悲劇のヒーロー」としての役割を被せることで、彼が主導した姜維排斥や宦官との結託といった「宮廷内の醜悪な腐敗(すなわち陳寿ら旧臣も加担していたかもしれない内向きの権力闘争)」から、後世の目を逸らすことができるからである。
勝者と生き残った者の都合によって、歴史はかくも残酷に歪められる。国是を死守しようとした真のリアリスト(陳祗・姜維)は泥に沈められ、国を内側から腐らせた虚像のプリンス(諸葛瞻)は忠臣として祀り上げられたのである。




