第4章 朝露に濡れる新たな運命
その朝、城館の窓から差し込む柔らかな陽光は、私の寝室を淡い金色に染め上げていた。
私はベッドの上でゆっくりと身を起こし、昨夜の記憶を一つ一つ丁寧に思い返していた。
深紅のドレスはすでに侍女の手によって丁寧に片付けられ、代わりに純白のネグリジェが私の肌を優しく包んでいた。
心の奥底では、まだ信じがたいほどの解放感と、甘い予感が静かに混じり合っていた。
ドミトリー・イヴァノヴィチ・ヴォロノフ公爵の温かな抱擁と、月光の下で交わされた約束。
それらは、まるで夢のように美しく、しかし現実の重みを持って私の胸に残っていた。
侍女が静かに部屋に入り、銀のトレイに朝食を運んできた。
彼女の顔には、控えめな好奇心が浮かんでいたが、決して言葉には出さなかった。
私は窓辺に立ち、庭園を眺めながら、深く息を吸い込んだ。
外では、朝露が薔薇の葉を輝かせ、遠くの噴水が静かな音を立てていた。
この城館はロマノヴァ伯爵家の古い館であり、今日も家族の緊張した空気が漂っていた。
父であるパーヴェル・アレクサンドロヴィチ・ロマノヴァ伯爵は、昨夜の出来事をすでに耳にしていたに違いない。
母であるソフィア・ミハイロヴナも、きっと不安に駆られているだろう。
私はドレスを整え、サロンへと向かう廊下を歩き始めた。
足音が大理石の床に響き、壁に掛けられた祖先の肖像画が、私を静かに見守っているようだった。
サロンに入ると、家族の視線が一斉に私に注がれた。
父は暖炉の前に立ち、厳しい表情を浮かべていた。
母はソファに座り、手に持ったレースのハンカチを強く握りしめていた。
「エレナ。」
父の声が、低く重く響いた。
「昨夜の舞踏会で、何があったというのだ。」
彼の言葉には、怒りと困惑が混じり合っていた。
私は静かに椅子に腰を下ろし、家族の顔を順に見つめた。
「父上、母上。」
私は穏やかに、しかしはっきりと言った。
「ボリソフ侯爵との婚約は、昨夜をもって破棄されました。」
「代わりに、ドミトリー・イヴァノヴィチ・ヴォロノフ公爵が、私の恋人となることを申し出てくださいました。」
その言葉が部屋に落ちると、父の顔が一瞬で青ざめた。
母はハンカチを口元に当て、息を呑んだ。
「公爵だと?」
父は声を荒げ、暖炉の棚を叩いた。
「ヴォロノフ家は確かに強大だが、ボリソフ侯爵との約束を一方的に破るなど、許されることではない。」
「家系の財政がどうなるか、考えたのか。」
私は静かに首を振り、昨夜の出来事を丁寧に語り始めた。
イゴール・セルゲイヴィチの貪欲なアプローチ、恐怖と不快感、そして公爵の介入。
侯爵の過去の不正が暴かれる可能性、そしてヴォロノフ公爵家の全面的な支援の約束。
父は黙って聞き、徐々に表情を和らげていった。
母の目には、涙が浮かんでいた。
「エレナ、あなたの気持ちは本物なのですか。」
母は震える声で尋ねた。
「公爵殿は、ただの策略ではなく、あなたを本当に愛していると信じられるのですか。」
私は頰を赤らめ、昨夜のテラスの記憶を思い浮かべた。
「はい、母上。」
私は優しく答えた。
「彼の瞳には、偽りのない情熱がありました。」
「私は、初めて自分の人生を自分で選びたいと思いました。」
父は長いため息を吐き、椅子に腰を下ろした。
「ヴォロノフ公爵の申し出は、確かに魅力的なものだ。」
彼は静かに言った。
「しかし、ボリソフ侯爵からの報復が心配だ。」
「今朝早く、侯爵の使いが手紙を届けてきた。」
父はテーブルの上に置かれた封筒を指差した。
私はその手紙を取り上げ、封を切った。
中には、震えるような筆致で書かれた言葉が並んでいた。
「エレナ、お前は後悔するぞ。」
「この屈辱を、決して忘れぬ。」
「ヴォロノフなど、ただの若造に過ぎぬ。」
その文面に、侯爵の憎悪と敗北の色が濃く滲み出ていた。
私は静かに微笑んだ。
心の中で、ざまあみろ、という思いが再び静かに広がった。
あの男が、私の恐怖を弄び、欲望を押しつけてきた日々の報い。
今、彼は領地で孤独に苛まれ、宮廷の笑い者となっているだろう。
「父上、この手紙は証拠として、公爵に渡しましょう。」
私は落ち着いて言った。
「ボリソフ侯爵の脅しなど、もう私には届きません。」
その時、執事がサロンの扉を静かに開けた。
「伯爵令嬢殿、ヴォロノフ公爵がお見えです。」
その知らせに、部屋の空気が一瞬で変わった。
私は立ち上がり、心の鼓動が速まるのを感じた。
公爵は、朝の光の中でさえも、完璧な姿で現れた。
黒い上着に銀のブローチを付け、金色の髪が柔らかく輝いていた。
彼は家族に丁寧に会釈をし、それから私だけを優しく見つめた。
「エレナ・パブロヴナ。」
公爵の声が、穏やかでありながら深い響きを帯びて部屋に広がった。
「昨夜の約束を、忘れていないだろう。」
私は頰を赤らめ、静かに頷いた。
父と母は、公爵の存在感に圧倒された様子で、言葉を失っていた。
公爵は父に向き直り、落ち着いた口調で語り始めた。
「ロマノヴァ伯爵殿。」
彼は敬意を込めて言った。
「令嬢を、私の恋人として迎えたい。」
「結婚の儀式は、近いうちに執り行うつもりだ。」
「財政的な支援は、即座に手配しよう。」
父は公爵の言葉を聞き、ようやく安堵の表情を浮かべた。
母は静かに涙を拭った。
私は公爵の傍に寄り、昨夜のテラスの続きのように、彼の手にそっと触れた。
「ドミトリー。」
私は彼の名を、家族の前で初めて親しみを込めて呼んだ。
「あなたのおかげで、私の家族も救われます。」
公爵は私の手を優しく握り、青灰色の瞳で私を見つめた。
「君には、あんな男より俺の方がふさわしい。」
彼は低く囁くように言った。
「俺の女になれ、という言葉は、永遠の誓いだ。」
その瞬間、サロンの空気が甘く濃密に変わった。
家族の視線を感じながらも、私は公爵の胸に寄り添うような心地を覚えた。
しかし、心の奥底では、まだ微かな不安が残っていた。
侯爵の報復の可能性、そしてこの突然の恋がもたらす波紋。
公爵は家族に別れを告げ、私を庭園へと連れ出した。
朝露に濡れた小道を歩きながら、彼は私の肩を抱いた。
「ボリソフ侯爵の動きは、すでに私の情報網が掴んでいる。」
公爵は静かに語った。
「彼は領地で怒りに震え、国王陛下に訴える準備をしているようだ。」
「しかし、それは無駄な抵抗に終わる。」
「彼の不正は、すべて明るみに出るだろう。」
私は公爵の言葉に、静かな満足を感じた。
ざまあみろ、という思いが、再び心の中で花開いた。
あの四十歳の男が、十九歳の私を所有物のように扱った報い。
今、彼は孤独と敗北の底に沈んでいる。
庭園の中央にある噴水の傍で、公爵は私を優しく抱き寄せた。
朝の陽光が、私たちの影を長く伸ばしていた。
「エレナ。」
彼は私の耳元で囁いた。
「これからは、毎日君の傍にいる。」
「君の恐怖を、二度と蘇らせない。」
私は彼の胸に顔を埋め、静かに頷いた。
心の中で、愛の芽生えが確かに感じられた。
しかし、この恋の道は、まだ多くの試練を秘めていた。
家族の支援、公爵の情熱、そして侯爵の影。
すべてが、朝露のように儚く輝きながら、私の運命を包み込んでいた。
庭園を歩く私たちの足音は、静かに未来を刻んでいた。




