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電車で二十分かけてやってきたのは、藤沢という駅だった。そこから少し歩いて、江ノ島電鉄線の改札の前に僕は立っている。
券売機の上に備え付けられた路線図を見る。どうやらこの路線は、ここ藤沢駅から鎌倉駅までを結んでいるらしい。停車駅を見ると、目的とする江の島は路線の真ん中辺りに位置しているようで、運賃もそこまで高額というわけではなさそうだ。というか、関東圏は地元に比べて公共交通機関の値段が安い気がする。
僕は切符を買わず、ICカードで改札を抜ける。
ホームには既に人が集まっており、その中には外国人の姿も確認できた。鎌倉といえば源頼朝が思い浮かぶけれど、彼らの目的地もそこになるのか。それとも、僕と同じく江の島が目的地なのだろうか。
列に並んでしばらく待っていると、やがて緑色の電車がとても重そうな音を立ててやってきた。普段目にする電車は赤色が多かったため、珍しさからか目を離すことができなかった。
前の乗客に続いて電車の中に入ると、少し不思議な感覚に包まれた。レトロと言うべきなのか、新しすぎず古すぎない内装に、僕は安心感のようなものを抱く。発車時刻までややあって、電車はホームに入ってきた時と同じような音を響かせながら鎌倉へと向かい始めた。
一定のリズムで揺られながら、車窓を流れる景色をぼうっと眺めていた。やけに民家との距離が近く、それがそのまま地元住民との距離を表しているみたいで、観光地らしさというものが希薄だ。そんなことを考えながら、僕はいつの間にか眠ってしまっていたらしく、目的地のはずだった『江ノ島駅』を発車する直前で目覚めたのだった。仕方なく次の駅で降りることにする。
段々と日が暮れ始め、暗くなる空は冬の寂しさを伝えてくる。江ノ島駅でかなりの人が降りたようだけれど、それでもまだ乗客は残っている。夏場はもっと混雑しているのだろう。
やがて数分もしないうちに、電車は『腰越』という駅に停車した。驚くことに、この駅は車両がはみ出てしまうほどにホームが短かった。先ほどの江ノ島駅とは異なり、この駅で降りたのは僕一人だけだった。
腰越駅から四分歩いて、僕は目の前に広がる光景に言葉を失っていた。海だ。大きく息を吸い込むと、潮の香りが全身を満たした。右に見えるのが江の島だろうか。
いかに観光地の海とはいえ、季節は冬。まして年末が近いということもあってか、浜にいる人の数はまばらだった。一様に江の島と夕陽を写真に収める観光客の後ろを歩き、特に人が少ない場所に向かう。慣れない砂浜に足を取られながら腰を下ろすと、湿り気を帯びた冷たい砂が体温を奪い、少し高揚していた気分を落ち着けてくれた。
さすがに人がいる場所で死ぬのは避けた方がいいだろう。そう思って寄せては返す波に意識を向けていたからか、僕は突然後ろから掛けられた声に驚くことになる。
「お兄さん、死ぬつもりだよね」
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はっと振り返ると、声の主は「わっ」と声を上げた。その反応をしたいのはこちらだと言い返そうとして、言葉に詰まる。
岡崎あさひがそこにいた。
いや、そんなはずがない。脳が瞬時にそう判断し、僕に声を掛けた人物の姿がはっきりとする。そこにいたのは、岡崎あさひをそのまま幼くしたような、一人の女子だった。高校生だろうかと、彼女が着ているブレザータイプの制服を見て推測する。
けれど、そんなことはどうでもいい。さっき、この子は何を口にした?
どう考えても初対面であるはずの僕が死ぬつもりだと言い当てたのか?
驚きと混乱と、ほんの少しの警戒心で全く動けずにいると、彼女は「そんな怖い顔しないでよー」と笑った。他人の空似だとしても、その笑顔は確かに岡崎あさひに似ていた。
悠然と僕の正面までやってきた少女と視線がぶつかる。背後の海の圧をそのままぶつけられているようで気圧されていると、彼女はぱちんと手を合わせた。
「突然ごめんなさいっ!」
やはり、どうしても。大学の近くにいるはずの後輩を思い浮かべてしまう。上手く言葉を紡げない僕は、やっとのことで呟きに近い疑問を絞り出す。
「……どうして?」
その疑問の意図を汲み取ってくれたのか、それとも答えに窮したのか、目の前の彼女は僕の背後へと視線を向けた。またすぐに僕の方を見て、答えた。
「お兄さんの後ろ姿がね、ハルカにそっくりだったんだ」
その言葉を聞くと同時、背後に気配を感じた。慌てて振り返ると、そこには一人の男子が困ったような笑顔を浮かべて立っていた。男女の差こそあれ、似たデザインの制服を着ていることと、先ほど向けた視線。おそらく、彼がハルカと呼ばれた人物なのだろう。
「妹がすみません。俺が春歌っていいます。春の歌でハルカです」
彼──春歌は、そう名乗りながら、落ちていた木の枝で砂浜に『春歌』と書いた。名前のイメージとは裏腹に、とてもしっかりとした字だ。そしてその横に『歌恋』と書き加えられる。名前の通り、柔らかな印象を受けた。
「私は歌恋。恋の歌って覚えてね。春歌とは兄妹で、私が妹です」
砂浜に書かれた二つの名前は、そのまま二人の性格を表しているようだった。その二人の視線が僕に向けられる。言わんとすることは理解できる。先んじて名乗られてしまった以上、こちらが自己紹介しないというのも不自然か。
「……優人、です」
さすがに真似をして「優しい人です」なんて自己紹介をするわけにもいかず、少し迷って、二つの名前の横に『優人』と書き足した。春歌と歌恋の時を足して二で割ったような、中途半端な字だと思う。
彼らは僕の名前をじっと見つめた後に、ゆっくりと顔を上げて、僕の顔を見た。そのまま目を合わせていたら吸い込まれてしまいそうな黒い瞳。宝石のような美しさを感じる一方で、どこか恐ろしいものも感じてしまう。
僕は黙ったまま目を逸らしてしまった。
気まずい沈黙を破ったのは、歌恋だった。
「優人さん、もう一度聞くんだけど、死ぬつもりなんだよね?」
どうしてそう感じたのか、その理由については、既に彼女の口から語られている。だから僕の視線は自然と、その理由である春歌へと向くことになる。
気づけば日は落ち、暗闇が辺りを覆っていた。人の数も随分と減っている。
事情が事情とはいえ、僕が春歌に向ける視線はかなり不躾なものだ。それでも彼は、妹の言葉を補足するように、言葉を選びながら話してくれた。
「俺も死のうと思ってた時期があって。ほら、俺の名前って女子っぽい響きがあるじゃないですか。俺らの年代って他人への気配りが欠ける部分もあって、まあずっとからかわれ続けて。それが嫌で嫌で仕方なくて」
その言葉を聞いて、一気に羞恥が込み上げる。
さっき僕は彼の字を見て何を思った?『名前のイメージとは裏腹に』なんて失礼にも程があるだろう。
急激に熱くなる顔を春歌に向けることができなくなり、僕は俯いてしまう。
彼はそんな僕に気づいているのかいないのか、刹那の沈黙の後に言葉を続けた。
「それである日死のうってなったんです。歌恋が似てるって言ったのは、その時の俺なんじゃないですかね」
顔を上げられない僕は、もちろん言葉を発することもできない。当時のことを思い出しているのか、歌恋が「うんうん」と頷いているのがわかった。
「あの時の春歌、すごい怖かったもん。鬼気迫るってこのことなんだなーって。学校でも家でも無視されて、私悲しかったんだよ!」
「実際に泣きついてきたしね。死んじゃだめーって」
「そりゃそうだよー」
親愛に満ちた二人のやり取りも、まともに耳に入ってこない。僕の異変に気がついたのか、春歌が心配そうに声を掛けてきた。
「……優人さん?」
せめて何か返さないと。そう考えるけれど、言葉は見つからない。
と、春歌は納得したように声を上げた。
「ああ。もしかして優人さん、俺の名前女の子っぽいって思ったんでしょ」
言い当てられて、顔を上げてしまう。
春歌は、笑っていた。
「お、図星ですか?」
「いや、その……。ごめん」
ここまで言われて誤魔化すのも変だと思い、素直に謝罪を口にする。
「謝らなくてもいいですよ。あれはもう過去の話だし、今は自分の名前大好きなんで」
そう言って春歌は「歌恋のおかげだな」と付け足した。それがどういう意味なのか聞こうとしたところで、今度は歌恋が口を開いた。
「でも優人さんすごいですね。ちゃんと自分が悪いと思ったことを謝れるなんて」
「誰にでもできることでは?」
「そうじゃないからすごいんですよー。私の友達なんてすぐに責任転嫁しようとしますもん」
不思議と、鬱いだ気分が軽くなった気がした。
そして僕は、脇道に逸れてしまった話題を自ら本筋に戻すことにする。
「……そういえば、僕が死ぬつもりなのか、だっけ」
「あ、はい。そうですそうです」
「そうだよって答えればいいのかな?」
誰にも伝えることのなかった心の内。それがどうしたことか、初対面の年下二人には、すんなりと打ち明けることができた。そして同時に、気づいてしまう。話の流れからして、春歌の時と同様に僕の自殺を止めに来たのではないかと。
方法、手段は定かでないにしろ、そんな予感がして、僕は言葉を重ねた。
「で、悪いけど。止めようとしても無駄だからね?」
君たちが責任を感じる必要はないよと、そう伝えるために、僕は得意の営業スマイルを浮かべて口にする。しかし、歌恋はこの言葉に対して僕以上の笑顔でとんでもないことを返した。
「うん、大丈夫。私も春歌も、止める気なんてさらさらないから。死ぬなら勝手にどうぞ、みたいな?」
目を丸くする僕と、呆れた様子で、しかし発言自体は咎めるつもりのなさそうな春歌。その態度こそが妹の発言を肯定していることに気づいているのかいないのか。歌恋はというと、誰も口を挟まないのをいいことにさらに続ける。
「んー、でもまあ、私たちの地元でっていうのは少し思うところはあるけど。警察の操作で騒がしい年末になりそうだし。今更だけど、優人さんってここら辺の人じゃないでしょ?」
と、人が死ぬこと自体はまるでどうでもいいと言っているようだった。その様子がおかしくて、僕は思わず声を上げて笑ってしまっていた。
「ははっ、止めないんだ?」
笑いながらそう尋ねると、歌恋は小さく首を傾げて言った。
「だって他人じゃん?」
ありのままの事実。その言葉の真意を汲み取れずにいると、春歌がまた呆れたようにため息をついた。そして妹の頭を軽く叩く。
「お前はいつも言葉が足りないんだよ……」
「そ? じゃあいつもみたいに補足よろしく」
悪びれることなくそう言い残して、歌恋は波打ち際へと駆けていった。辺りはもう真っ暗になっていて、ここからでは歌恋の表情は読み取れなくなってしまった。それでも、「冷たーい!」と真冬の海で波と戯れるシルエットには、まるでアイドルの写真集の一ページを切り取ったような魅力があった。
そんな妹をじっと見つめながら、春歌は静かに語り出した。その視線は、これ以上ないくらいの慈愛に満ちている。
「本当にすみません。別に悪気があって突き放すような言い方をしてるんじゃないです。あれが歌恋の素というか……」
自殺そのものを止められなかったことは僕としてはありがたい。小さく頷いてから、春歌に続きを促した。
「他人っていうのはつまり『事情を知らない人が何を言っても余計なお世話になるでしょ』ってことだと思います。実際、余計なお世話ですよね?」
「まあ、ね」
春歌の言う通り言葉足らずではあるけれど、歌恋の言いたいことは的を得ている。そこには歌恋なりの気遣い、優しさというものがあった。
「優人さんに声を掛けたのも、本当に俺に似ていたからってだけで、すぐに部外者だと気づいて謝ったんだと思います。まさか流れで俺の事情を話すことになるとは思いませんでしたけど」
なるほど。あの謝罪にはそういう意味が。
「言葉足らずなのに無駄に……ではないか。人の感情の機微にはすぐに気づくので、つい口を出しちゃうんですよね」
そして春歌はため息を一つ。すぐに自嘲するような言葉が続けられた。
「俺もそうなんですよ。歌恋が口を出す先にわざわざ補足しに行って。世話焼きともまた違うんですけど、何なんですかね」
妹が生み出す誤解を解きたいだけだ。そんな兄の優しさが詰まった言葉に、少しだけ笑みがこぼれる。
「妹が大切なんだね」
「そりゃそうですよ。誰より身近な、命の恩人ですから」
くしゃりと破顔する春歌からは、妹に対する溢れんばかりの親愛が感じられる。俗に言うシスコンやブラコンなどではない。この兄妹は、もっと尊い愛情で繋がっているのだと、そう思わされる。
そのことが、とても──。
胸に、針を刺したような痛みが走る。
その痛みを誤魔化すように必死に笑顔を取り繕っていた僕は、春歌が何か言いたげな表情を浮かべていることに気づけなかった。すっかり日が沈んでいた、そのせいかもしれないけれど。
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砂浜に降りた時には絵画のように感じたはずの海も、この時間になれば真っ黒で、その美しさは微塵も感じられない。寒さも厳しさを増して、風が吹く度に体が震えてしまう。
周りに人もいないし、そろそろかな。そう思っていると、波とじゃれ合うのも限界になったのか、いつの間にか歌恋がこちらに戻ってきていた。
「何の話してたの?」
「お前がもう少し気をつけて発言してくれれば俺も楽になるのになって」
そんな指摘に、歌恋はべっと舌を出して抗議する。
「余計なお世話ですー!」
と、何か閃いたのか、歌恋が僕を見た。暗くて分かりにくいけれど、イタズラを思いついた子どものような無邪気な笑みを浮かべている気がする。
彼女が何か言うとして、きっとまた春歌が補足をする羽目になるのだろう。彼の苦労を心の中で労いながら、僕は「どうしたの?」と歌恋に尋ねてみる。
彼女の口から飛び出したのは、案の定というか、期待通りというか、とにかく僕を驚かせる言葉だった。
「優人さんって、今日死ぬ予定だったの?」
「まあ、年内にはと思ってたから」
「じゃあ、別に今日じゃなくてもまだ時間はあるわけだ」
何か嫌な予感がする。
確かに二人と別れてすぐに死にました、というのはどうにも後味が悪い。だからと言ってどうすることもできないわけだけれど。
すぐに回れ右をして立ち去ろうとしたけれど、遅かった。歌恋は僕の手を掴んで、満面の笑みで口にした。
「じゃあ、私たちと最後の思い出作り、しませんか?」
「…………はい?」
突然の提案に言葉を失いながら、僕はやっぱりどこかの後輩の姿を重ねてしまっていた。
彼女の言葉を音として捉えることはできても、その意味まではわからない。助け、もとい補足を求めるように春歌を見ると、どうやら彼にとっても妹の発言は想定外のものだったらしい。僕以上に口をぽかんと開けて絶句していた。
何ということか。




