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名古屋駅──地元では名駅の略称で呼ばれることの方が多いこの駅は、その略称とは別に、迷駅という異名も持っている。JR線、名鉄線、地下鉄、新幹線など数多くの路線が混在しており、それによって駅構内の構造も複雑化している。地元民でさえ迷うことが多いことからそう呼ばれているらしい。
簡潔に言おう。僕はその多分に漏れず、しっかりと道に迷っていた。地下にある名鉄線の改札を抜けて地上に出たはいいものの、夜行バスに乗るための集合場所がどこにあるのか分からなくなっていた。普段旅行をしない弊害がこんなところで出るなんて、運がない。
幸い地図アプリのおかげで事なきを得たけれど、まさか逆方向だったとは。
バスの出発時刻まではまだ二時間ほどある。万が一のないように先に集合場所の確認を済ませた僕は、することもなく途方に暮れていた。
と、ポケットに入れていたスマホが震える。岡崎から写真と共にメッセージが送られてきた。
『せんぱーい! こっちはめちゃくちゃたのしんでますよー! やりたいほーだいです!』
どうやら岡崎はお酒を飲んでいるらしい。何の変換もされないまま送られてきた文章がその証拠だ。カラオケの個室で撮られたであろうその写真は、テンションの高い岡崎と困ったように笑う女子のツーショットだった。よくよく見れば、岡崎の近くにはちゃんと缶ビールが置かれている。彼女のことだから大丈夫だとは思うが、後輩に飲ませないか少しだけ心配だ。
『田原には絶対飲ませるなよ。あと迷惑もかけるな』
一応、先輩として釘を刺しておく。
すぐに返信が送られてきた。
『せんぱいはわたしのおにいちゃんですか!』
そしてその文章はすぐに消えた。向こうが送信を取り消したようだ。彼女の兄が自ら命を絶ったと聞かされた後では、さすがに反応に困る。
既読を付けてしまったしどうしたものかと考えていると、握ったスマホがまた震える。今度はメッセージではなく電話がかかってきた。岡崎だ。
「もしもし?」
『今の忘れてくださいっ』
「今のって?」
岡崎の酔い具合に賭けて誤魔化してみる。
効果はあった。
『何でもないです!』
「ふーん……ていうか岡崎、文章でも伝えたけど、田原に迷惑かけるなよ?」
『大丈夫です!』
心配だなあ。
そして流れる沈黙。何があったのか気になり始めたところで、また声が聞こえてきた。ただし岡崎の声ではない。
『あ、あの、美浜さんですよね』
「ああ、うん。もしかして田原さん?」
『はい、そうです。お久しぶりです。あの、ドリンクバーから戻ってきたらあさひ先輩が寝てるんですけど、どうしたらいいですか?』
あの馬鹿、言ったそばから迷惑かけてやがる。
「あー、放っておいても大丈夫だと思う。どうにもならなくなったら叩き起していいから」
『ええ……先輩をですか?』
「文句言われたら僕のせいにしていいよ。ほんとごめんな」
『いえ。ふふっ』
電話口の向こうで笑う気配がした。何事かと驚いていると、すぐに『ごめんなさいっ』と謝罪が聞こえた。
「別に怒ってるわけじゃ……どうしたの?」
『美浜さんもあさひ先輩も仲がいいんだなって。あさひ先輩、バスの中で美浜さんに会ったーって楽しそうに話してきたので』
「……そう」
『んー……田原ちゃん何話して……』
『あ、あさひ先輩起きたので、そろそろ切りますね』
「ああ、うん。じゃあ」
そうして電話が切れる。
夜も更けてきて気温は氷点下になっているだろう。それなのに、僕の体はやけに熱を帯びている。早足で行き交う人たちの中で、僕の時間だけが、ゆっくりと流れているような気がした。
岡崎あさひ。彼女は最初から最後まで僕の心を乱していくらしい。本当に、好き勝手やってくれる。
サラリーマンにぶつかられて我に返る。舌打ちをされたので上辺だけの謝罪を口にして、僕もその場から立ち去る。
それにしても、と岡崎とのトーク画面を見返して、彼女から送られてきた文章を声に出して読んでみる。
「やりたい放題、か」
どうせなら、人生最後にやりたい放題やるというのも悪くはないのかもしれない。まあ、やりたいことそのものがまだ見つかっていないわけだけれど。
夜行バスの発車時刻が迫ってきた。
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やりたい放題やる。その手始めに、僕はコンビニで紙パックの小さな酒を買ってみた。友人が言うには「安いだけで大して美味くない」酒だけど、この際何でもよかった。バス車内で飲むのは禁止されているとしても、乗車前の飲酒まで禁止されているわけではないだろう。
付属のストローを挿して、一口飲む。常温で、確かに美味しいとは言えない。それでも久しぶりのアルコールはしっかり仕事をして、体がさっきとは異なる熱を帯びる。そして僕の思考を鈍らせていく。
五口で飲み切って、コンビニのゴミ箱にパックを捨てる。ほう、と息を吐いて空を見上げると、街明かりに照らされていても星が輝いているのが見えた。思わず写真に撮ってから、僕は夜行バスの集合場所へ向かった。
集合場所といっても専用の建物があるわけではなく、寒空の下に大勢の人が集まっていて、蛍光色のジャケットを羽織った係員が何やら指示を飛ばしている。ビジネスマンや学生、初老の夫婦や家族連れに至るまで、多種多様な人たちがバスを待っていた。ビジネスマンはともかく、きっとこの中の大半は楽しいイベントを控えているんだろう。
酔いのせいだろうか、僕は今から旅をして死ぬんですよ、と言いたくなる衝動に駆られる。彼らはどんな反応をするのだろうか。軽蔑した視線を向けてくるのか、馬鹿にしてくるのだろうか。そんなことを考えているうちに、僕が乗るバスの案内が始まった。
トランクルームに預けるような荷物があるわけでもないのでさっさとバスに乗り込み、背負っていた鞄を抱えるようにして自分の席に座った。コンビニで酒と一緒に買っていたペットボトルのミネラルウォーターを、前の座席のドリンクホルダーに立てる。
駅に向かうバスとは違って今度は通路側の座席で、隣の席の乗客のために一度立ち上がる必要があったから、早々に乗り込んだことを後悔したりした。そんなお隣さんは、この季節にもかかわらずラガーシャツを着た同年代の男性だった。
ドアが閉まり、機械音声による放送が流れ始める。横浜を経由して東京駅八重洲口まで向かうことや乗車時の注意事項、道中で三回ほど休憩することなどが淡々と流れ続け、アナウンス終了から五分後に消灯することを告げて放送は終わった。バスは静かに走り始めた。
すぐに前の座席から声が掛かった。家族連れの、父親らしき人だ。
「すみません、座席、倒しても大丈夫ですか?」
「ああ、はい。どうぞ」
言われるまで、座席にリクライニング機能があることを完全に忘れていた。お礼の言葉と一緒に、前の座席がずいっとこちらに倒れてきて、少し窮屈になる。
確かに、ここから何時間も乗り続けるなら座席を倒した方がいいかもしれない。そう思って、僕も前の人に倣うことにする。
「すみません、座席、倒しても?」
「ええ、どうぞ」
快く許可してもらえた。集合場所で見かけた、初老の夫婦の奥さんの方だった。こんな狭い空間の中でも優しさは連鎖するのかなと、場違いなことを考えながら前も向く。優しさではなく常識の可能性もあるなと思い至ったところで、消灯時間になったらしい。眠くなるかどうかはわからないけれど、車内が暗くなるのに合わせて僕も目を瞑った。
いつの間にか眠っていたらしく、目が覚めたのは、三度目の休憩場所として設定された足柄サービスエリアだった。目が覚めてしまったとはいえ、特にトイレに行きたいわけでもなし。ミネラルウォーターもまだ残っている。外も寒いだろうと思いながらぼうっとしていると、隣から声が掛けられた。
「旅行ですか?」
「……っ、まあ、はい」
同年代と思しきラガーシャツは、外見のいかつさとは反対に物腰柔らかな青年だった。人を見かけで判断してはいけないのだと思い知らされるほどに。それでも急に話しかけられて驚いたのは事実。曖昧な返事しかできずにいると、こちらが恐縮してしまうくらい低姿勢から謝罪された。
「すみません、急に話しかけて。休憩時間に目が覚めちゃって、そしたらお兄さんも似たような感じだったので、つい」
「いえ、僕こそ驚いちゃって。そうですね、旅行です。そちらは?」
「俺も旅行ですね。ちょうど一年前に彼女が亡くなって、命日に合わせて思い出の場所に行きたくて」
「それは、ご愁傷様です」
「いえ。いや、本当に申し訳ないっス。話したところで仕方ないんスけど、誰かに話さないとどうしても抱え込んじゃうというか、全然忘れてもらって構わないので」
何の因果だろうか、自分の命の残り時間が限られた時に、人の死の話題が二つも降り掛かってくるなんて。
興味が湧いた、と言ったら失礼だけど、僕は彼の話を聞いてみたくなった。
「話して楽になるなら、僕で良ければ聞きます」
そう声を掛けると、彼は静かに話し始めた。
「ありがとうございます。いや、自分でも女々しいなと思うんですけど、今でも好きなんですよ、アイツのこと。でもつい先日、彼女の両親に、貴方はまだ若いんだから、娘のことは忘れて次の幸せを探しなさいと言われてしまって」
そう話す間にも、彼の言葉には悲しみが滲んでいく。同時に、彼女さんに対する愛情も。
「……忘れる必要、ないんじゃないですか?」
「え?」
「すごい月並みな表現になりますけど、好きって気持ちを持ち続けてるだけで、彼女さんも、お兄さん自身も幸せなんじゃないですかね。外野としては新しい幸せをって言うのも理解はできますけど、当事者にしかない幸せな思い出があるなら、それまで忘れる必要はないかな、と」
他人が何を言おうと、結局は当事者次第。悲しい結末になったとしても、そこに至るまでの過程が幸せだったなら、それでいいのではないか。
そう考えて、はたと気づいた。
自分はどうなのか。自殺という結末に至るまでの過程は、果たして幸せだったと言えるのだろうか。どうあれば幸せだったと言えるのだろうか。
すすり泣く彼の横で、僕は自分の死について考えていた。
僕が死んだ時、ここまで悲しんでくれる人はいるのだろうか。
「あの、ところで一つ訊いても?」
「あ、はい、何でしょう」
「その格好、寒くないですか?」
「実はめっちゃ寒いです」
休憩時間も終わり、バスは横浜に向けて静かに動き始めた。足柄サービスエリアから横浜駅に着くまで、僕は一睡もできなかった。
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二時間くらいは経っただろうか。寝不足の頭に、機械音声が響いた。
『お待たせいたしました。当車両は間もなく、横浜シティ・エア・ターミナルへ到着いたします。お忘れ物のないよう、お手荷物をよくご確認ください。繰り返します──』
事前に調べた情報によると、このバスの停車場所は横浜駅と直結しているらしい。終着駅である東京駅まで行ってもよかったのだけれど、年末の東京は混雑している印象が強く、気後れしてしまった。ここでバスを降りる人たちが半分くらいだったので、横浜だろうと東京だろうとあまり変わらないのかもしれない。
一応、隣のラガーシャツに一言挨拶をしてからバスを降りる。冬の早朝、冷たい空気が街を満たしていた。冬の寒さはどこにいても変わらないんだなと考えながら大きく息を吸い込むと、冷たさが血液のように全身を巡り、寝不足で鈍っていた感覚が冴えていくのがわかった。吐く息が白くその場を漂って、魂みたいだなと、そう思った。
乗客に荷物を渡している運転手にお礼を言ってから、受け取る荷物がない僕は一足先に駅構内へ向かう。大きな荷物がないと気が楽でいい。長時間座りっぱなしで凝り固まった体をほぐすついでに空を仰ぐ──癖になっているのかもしれない。
未明の空は、早起きなビルの灯りに照らされて僅かに明るくなっている。普段は八時頃まで惰眠を貪っているため、ビルと同じく早起きな自分に対して変な気持ちを抱きながら、暖を求めてそそくさと横浜駅構内へと逃げ込む。
しかし悲しいかな、暖房などあるはずもなく、おまけに人の少ない時間帯の構内は、外と同じくらいに寒かった。
仕方なく地図アプリを起動し、街全体が目覚めるまで暖の取れる場所を探すことにする。運よく二十四時間営業のハンバーガーチェーン店を見つけたので、そこを目指すことにした。僕が働いていた店舗は営業時間が限られていたので、久しぶりに朝限定のメニューを食べるのもいいかもしれない。
少し歩くことになるけれど、コートのポケットに手を入れておけば、寒さにも少しは耐えられるだろう。
「……寒いなあ」
……我慢、できるだろうか。そもそも日が昇ったとしても気温が上がるとは限らないし、防寒対策はしておくべきだったかもしれない。
地図を見ながらだったけれど、知らない土地だったせいもあり、何度か道を間違えながらも目的の店舗にたどり着く。寒さに耐えるのも限界が近づいており、暗い道に煌々と輝く看板を見つけた時は小躍りしそうになった。
狭い土地に建てられているからか、一階は注文口と厨房のみで、客席は二階から上にあるらしい。地元ではあまり見ない土地活用に感心しながら注文を済ませ、すぐに出てきたトレーを持って三階へ。窓際のカウンター席が空いていた(というか僕以外に客はいなかった)のでそこに座る。ありがたいことに、充電用のコンセントまで設置されていた。
マフィンにかぶりつきながら考える。
どうやって死のうかな。
時間はたくさんあった。それでも情けないことに、死に方について何も決めていなかった。考えていなかったわけではない、決められなかった。
自殺と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、身投げ。しかしどうしても『痛そう』というイメージが先行してしまい、選択肢に入れることはなるべく避けたい。死ぬ人間が贅沢を言うなという指摘は、この際横に置いておく。
充電中のスマホを手に取って、『自殺 方法』と検索してみる。わかっていたことだし、何度も目にしたせいで完全に見飽きた画面が表示される。『悩んでいるならこちらへ相談を』という言葉と共に書かれた電話番号がひどく空虚なものに思えた。
相談したってどうにもならないこともある。根本的な解決に至らない無駄なことに時間を使うくらいなら、ずっと抱える「死にたい」に全てを委ねた方がマシだ。
三十分ほど滞在したけれど、何か進展があったかと問われれば、答えは否。思いつく案はあったのに、深く考えれば考えるほど、何かが違う気がした。
結局、死ぬ瞬間の思考に従うことを結論として、冷めてしまったコーヒーを流し込む。店を出る際にすれ違った店員にお礼を言ってから、朝日が昇り始めた横浜の地を楽しむことにした。
人生初の横浜は楽しかった。知識として持っていた赤レンガ倉庫は、横浜駅からあまり離れていない場所にあること。何なら中華街の方が横浜駅から離れていたことなど、初めて知ることがたくさんあった。死ぬ間際であっても、初めて体験することはかなり楽しめるという発見もあった。
そんなわけであっという間に十五時を回り、そろそろ死に場所を決めなければいけない時間になった。あまり遅くなっても交通機関が限られてくるだろうし、ここら辺が潮時だろうという判断だ。
ふらふらと横浜駅に戻ってきた僕の意識は、とあるポスターに向けられた。そこには『江の島』という文字が印刷されていた。早速調べてみると、どうやらここから一回の乗り換えで済むらしい。五時起きで動き回っていた弊害で思考力が鈍っていたのか、僕は特に何も考えることなく乗換駅へ向かう電車に乗っていた。
この決断があの結末を迎えるなんて、予想できるはずもなかった。




