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 今年に入った頃だった。今年と言っても、もう年末に差し掛かっているため、ほとんど一年前のことだ。ふと、年内に命を絶とう。そんな考えが頭に浮かんだ。今思えば、その決意すらも遅すぎたのかもしれない。『死にたい』の種はあの時、既に蒔かれていたのだから。


 もちろんその考えが『希死念慮』という名前であることは知っている。けれどどうしてか、『死にたい』という四文字で表した方が僕の口にすんなり馴染んだ。以来ずっと『死にたい』という言葉を使っている。


 地獄の毎日だった。


 日常のあらゆる場面でこの考えが心を、体を支配する。他に何も考えられなくなり、何も手につかなくなる。僕の中に蒔かれた『死にたい』の種は極めてゆっくりと、しかし着実に根を張り、芽吹き、枝を伸ばし、葉を茂らせていった。そしてある日──それが今年の初めだ──、花を咲かせるように『死ね』と命じてきた。それは、死ねば全てから解放されるという甘美な響きを僕に差し出してもいた。


 岡崎の歩幅に合わせる必要がないからか、ものの数分で自分の家に辿り着いた。鍵を開けて中に入ると、外気とはまた違う、人のいない室内特有のひんやりとした空気が僕を迎えた。


「ただいま」


 無意識のうちに口から出ていた言葉。口許に自嘲的な微笑みが浮かんだ。どんな状況、心情であれ、長年に渡って染みついた癖というものは抜けないらしい。場違いな感動を抱えたまま、生活感の希薄な部屋に向かって、今度は明確な意思を込めて声に出してみる。


「ただいま」


 一人暮らしのため、当たり前だけれど返事が聞こえてくることはない。それどころか文字通り空っぽの室内なので、自分の声がよく反響して聞こえた。

 生活感が希薄というのも誇張ではない。

 今日のために、一年かけて部屋の整理を進めてきた。本棚も押し入れも空っぽ。冷蔵庫やテレビといった家電は、売れるものは全て売りに出し、値段がつかないものは業者に引き取ってもらった。今この部屋に存在しているのは、数着の着替えと寝袋、スマホにパソコンとそれらの充電器、そして鞄くらいのものだ。

 僕はそうした荷物を、全て鞄に詰め込んでいく。何もこの場で死のうというわけではない。猫ではないけれど、死ぬ前にここではないどこかへ行きたいと、そう考えただけのこと。

 とても簡単な荷造りの最中に、ふと気づく。バイトの制服をどうするべきか。まあ、部屋に放置でもいいだろう。いなくなる僕に誰が責任を被せるというのか。それでも念のため、綺麗に畳んで床に置いておくことにした。


 五年間世話になった部屋をぐるりと見渡す。いい思い出も苦い思い出も、思い出したくないことでさえ何も言わずに見守ってくれたこの部屋の真ん中で、そっと目を瞑る。あいつに影響されたのだろうか、これだけは言っておかなければいけない気がした。


「……ありがとう」


 ただいまと同じように、誰に届くでもなく。その声はただ室内に響いて、消えた。気づけば、帰宅してから一時間が経過しようとしている。

 何もない広々とした空間にもかかわらず、ここに居続けると息が詰まりそうな気がした。僕は急いで部屋を、家を出る。鍵をかけようとしたところで手が止まる。もうここに帰ることはないのだと、背負った鞄が教えてくれた。

 キーケースから鍵を外して郵便受けに入れる。カラン、と小さく無機質な音が聞こえた。スペアキーは押し入れの中に置いてきたため、特に問題はないだろう。

 今から始まる旅の最終目的地。それは自分の『死』なのだと、強く胸に刻み込んだ。


 さて、旅が始まるとは言ったものの、僕は車を、それどころか運転免許証を所持していない。取ろうとした時期もあったのだけれど、『死にたい』が邪魔をして結局取らない選択をした。そのためどこへ向かうにも公共交通機関の利用は避けられない。しかしそこは抜かりない。一ヶ月ほど前に名古屋発の夜行バスを予約してあるのだ。そういうわけなので、どこか遠くなどと言ったけれど、一応の目的地は決まっている。

 横浜だ。

 どうせ死ぬのだから金に糸目をつけず、贅沢して新幹線で行けばいいではないか。そう主張する自分もいるにはいたが、今更後悔しても仕方のないことだ。

 ともかく、まずは最寄り駅に向かわねばならない。


「…………行くか」


 この期に及んで覚悟も何もないのだけれど、一歩目を踏み出すと同時にそんな声が漏れた。しかし、バス停に向かう足取りは、歩数を重ねるごとにどんどん軽くなっていった。



-----------------



 大学のバス停に行ったのが間違いだったのかもしれない。僕はバスの発車時刻を待ちながらそんなことを考えていた。何せ隣の席には──


「やー、まさか別れてすぐ先輩に会うとは」


「ほんとだよ……」


 随分機嫌のよさそうな岡崎がそこに座っていた。バス停でバスを待っていたところ、並んでいた彼女に見つかった。そして自然な流れで僕の隣の席に座ったのだ。僕は窓側に座っているため、席を移動することもできない。


「で、何で僕の隣に?」


「駅前でバイトしてる後輩にカラオケオール付き合ってほしいって頼まれまして。ほら、読書サークルの田原ちゃんです。で、快諾したものの、か弱い女子が夜に一人で移動するのも怖いじゃないですか。そしたら都合……運良く先輩がいたので」


「僕は都合のいい男ってことか」


「せっかく言い直したのに!」


「そもそも、か弱いって柄じゃないだろ」


「ご飯行くたびに送っておいて今更ですよ」


 というわけで、岡崎のボディガードが僕の最後の仕事になるらしい。つくづく、彼女との謎の縁を思い知らされる。


「ところで先輩はどうしてこんな時間に?」


 岡崎に会ってしまった時からこの質問をされることは想定していた。そのため、答えに窮することはない。


「年末年始は実家でゆっくりしながら卒論を仕上げたくてな。お前と違って県内だし」


「一宮でしたっけ?」


「そう。まあ、二時間かからないくらい」


 初めて会った時にしたような会話でも、岡崎はしっかりと相槌を打ちながら聞いてくれる。


「一人暮らしの理由ってやっぱり通学時間だったんですか?」


「んー、どうだったかな」


 そんなやり取りを続けているうちに、バスの発車時刻となった。二十時を少し過ぎているというのに結構な数の学生が残っていたようで、既に満席になっている。岡崎と訪れた店が空いていたのが信じられないくらいだ。

 動き始めたバスに揺られながら、話の流れで気になったことを口にする。


「お前は実家に帰らないのか?」


「私、大学生になってから一回も帰ってないんですよ。気づきませんでした?」


「そこまでお前のスケジュールに興味ないからな。理由、聞いていいのか?」


 そう尋ねると、岡崎はからかうような笑みを浮かべた。そして、わざとらしい猫なで声で質問に答える。


「先輩と離れたくなくてぇ」


「ふーん。で、本当は?」


「……少しは喜ぶくらいしてもいいと思うんですよ。ま、本当は実家にいると思い出しちゃうからですね」


「思い出す?」


「高校生の時に、兄が自殺してるんです」


 思いもよらない告白に、言葉が継げなくなる。そんな僕の表情を見て、岡崎は呆れたような視線を向けてきた。


「そうなるから誰にも言わなかったんです。私はもう過去のことだって割り切ってるのに、他の人は勝手に憐れみの目を向けてくるんだから、やってられませんよ」


「……悪い」


「まあ、先輩に悪気がないのはわかってるので大丈夫です。というか、何で先輩には言えたんでしょう」


「いや知らんし」


 そんなに軽口を返しながら、僕はほんのり罪悪感を抱く。そして、それをすぐに切り捨てる。人の死を悼む、ましてや目の前の後輩の心情を推し量る資格なんて、僕にあるはずがなかった。自ら死を選ぶ僕なんかに。

 それでもやはり耐えられなくなり、僕はそっと窓の外に視線を向ける。窓に反射するのはこちらを向く岡崎。窓越しに目が合った。


「先輩は……」


「ん?」


「…………いえ、何でもないです。というかちゃんと卒論書き上げてくださいね? 先輩と一緒に卒業とか笑えないんで」


 何かはぐらかされたような気がしたけれど、それを問い詰める時間はなかった。岡崎の新たな一面を知っている間に、バスは終点である駅までやって来ていた。普段は遅延ばかりのくせに、こういう時だけ時刻通りなのだから呆れてしまう。おかげで僕は「うるせーよ」と返すことしかできなかった。


 岡崎が指定されたカラオケは駅の改札とは逆側にあるため、バスを降りるとすぐに別れの時間となる。想定外の時間ではあったものの、楽しかった。その事実は揺るがない。


「先輩も田原ちゃんに挨拶してけばいいのに」


「僕がストレートに卒業してたら会わなかった人間だろ? 気を遣わせたくないから」


「とか言って、ビビってるだけじゃ?」


「ほっとけ」


 まあ、当たらずも遠からずと言ったところだ。それを告げる理由もないので、これ以上は岡崎の解釈に任せておく。幸い岡崎も深堀りするつもりはないらしく、本日二度目の──そして最後の別れの挨拶を交わすことになる。


「じゃあ先輩、また来年ね」


「さっき聞いたよ」


「……うん」


 どこか名残惜しそうな表情を浮かべる岡崎が気になりはしたものの、夜行バスの集合時刻もあるためこちらの時間も限られている。僕は背を向けて駅の改札へ。やっぱり「またな」とは言わなかった。それでも、ありがとうくらいは言ってよかったのかもしれない。そんな風に思いながら、改札を抜けて駅のホームに続く階段を目指した。

 岡崎がずっとこちらを見つめていたことには、気づくことがなかった。


 この駅から目的地である名古屋駅までは、特急に乗って約二十分で到着する。今からだと、名古屋駅に着くのは午後九時を少し過ぎた頃になるだろうか。

 ふあ、と欠伸が込み上げる。暖房が効いた電車の中で眠くなってしまうのは人として仕方のないことだろう。瞼を閉じると、途端に抗い難い睡魔が襲ってきた。



-----------------



 夢を見た。

 岡崎あさひと出会った日の夢だった。


「教育学部一年、岡崎あさひです。神奈川出身で、寮生活です。よろしくお願いします!」


 彼女と出会ったのは、二年前。僕が大学三年生で、彼女が入学したばかりの年の五月、読書サークルの新人歓迎会だった。

 あの出来事があってから暫くサークル活動に──それどころか大学に顔を出していなかったのだけれど、先輩から「新歓くらいは出席してくれ」と言われて参加したのを覚えている。


「教育学部三年、美浜優人。この県出身だけど下宿生で……まあ、よろしくお願いします」


 自己紹介の後のレクリエーションで岡崎と同じグループになり、そこで好きな小説家が同じという話になって盛り上がった。それまでずっと気分が沈んでいたこともあり上手く話せるか心配だったけれど、岡崎のトーク力のおかげで何とか乗り切ることができた。

 まさか、バイト先まで同じになるとは考えもしなかったけれど。


「何で岡崎さんがここに……?」

「こっちのセリフですよ!」


 大学に行けていなかったにも関わらず、何故かバイトだけは続けられていた。バイト先を安全地帯のように捉えていたのかもしれない。そんな中で店長から新人との顔合わせがあると伝えられた、その当日。僕と岡崎は顔を合わせるなり、まるでお手本のようなやり取りを繰り広げたのだった。


「あれ、二人とも知り合いだった? ちょうどよかった、美浜くん、色々教えてあげてね」


 そんなことを店長直々に言われてしまっては断れるはずもなく。僕は岡崎のトレーニングを行うことになった。そんなある日のこと、暇な時間帯に岡崎が話しかけてきた。


「美浜先輩って怒らないですよね」


「……岡崎さんが怒られるようなミスをしないだけでは?」


「それもありますけど、ここのみんなが先輩のことを『名前の通り優しい人だ』って言うのもわかるなーって」


 優人だから優しい人、か。名は体を表すわけでもないだろうに。

 実際のところ、僕は怒らないのではなく怒れないだけだ。常に自己嫌悪に襲われている分、他者にまで負の感情を向ける余裕がない。だから優しい人と評されるのは少し違う。

 しかしわざわざ訂正するのも面倒で、僕はそれ以上何も言わなかった。


 ともかく、僕の怒らない指導は岡崎にぴったりだったようで、彼女は僕のアドバイスを貪欲に吸収していった。そして一年経つ頃には僕にもできない気配りができるようになっていたのだから、大したものだ。


「優人先輩の指導の賜物ですよ」


 僕が褒めるたびに謙遜する岡崎。しかしどう考えても彼女の実力でしかないため、もう少し自信を持っていいのにと思う。

 それに、彼女には行動力があった。どんな人間とも円滑なコミュニケーションを取ろうとする姿勢は、当時の(というか今でも)僕には無いもので、とても眩しかった。来る者を拒み、去る者は追わないが信条となっていた僕では、逆立ちしても彼女には届かないだろう。

 それに、そんな岡崎のことが少し心配だった。


 確かに彼女は人間関係の構築に長けている。けれど僕には、他者との関わりを失うことを恐れているように思えた。僕の信条に照らして表すならば、去る者望まず、と言ったところか。それがずっと疑問だったのだけれど、今日の会話の中で腑に落ちた点いくつかあった。


 ──どうして些細なことでもお礼を言うのか。


 ──私を好きになってもらうため。


 ──高校生の時に兄が自殺している。


 きっと、ここに彼女の本心が隠れているのだろう。

 だとすればやはり、烏滸がましいのを理解した上で、僕は彼女に謝っても謝り切れない。他ならない僕自身が、岡崎の望まない行動を取ろうとしているのだから。

 岡崎あさひは傷つくだろうか。もしそうだとして、その時、彼女の近くに支えてくれる人がいればいい。


 あまりの自分勝手さに自己嫌悪が込み上げる。それと同時に、僕の意識はゆっくりと浮上していった。



-----------------



『次は名古屋、名古屋です』


 どうやら寝過ごすことなく起きられたらしい。到着が近づくというアナウンスを聞きながら、僕はぼんやりと、さっきの夢について考えていた。

 何故あんな夢を見ることになったのだろうか。

 単純に考えれば直前まで一緒にいたからというのが理由になりそうだけれど、それにしても、リアルすぎた。あれでは夢というよりも──。


「……走馬灯?」


 幸いその呟きは誰に聞かれるでもなく消えて無くなった。まだ死ぬどころか旅すら始まっていないのに走馬灯がよぎるなんて、どれだけ死にたいんだ。

 自嘲的な笑みが浮かぶ。

 乗っていた電車はそんな嘲りなど知るはずもなく、大きな音を立てながら名古屋駅のホームへ停車した。

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