配られたカード
”配られたカードで勝負するっきゃないのさ……
それがどういう意味であれ”
”YOU PLAY THE HAND YOU’RE DEALT..
WHATEVER THAT MEANS”
『スヌーピー』より
生は運動なのか意思なのか?
a. 運動
「君には倫理も野心も欲望も、ほとんど感じられない」
彼は湖から目を離さずに言った。まるで私の存在が、水面に落ちた影と同じ種類のものだとでも言うように。
「それは、問題なんだろうか? 」
私は問い返した。自分がどんな答えを期待しているのかも分からないまま。
「問題かどうかは分からないよ。ただ、そう見えるだけだ」
湖面には一枚の葉が浮かび、風に押されて向きを変えていた。彼はその軌跡を目で追い続けていた。
「死んでいるとも、生きているとも言い切れない。そういう状態だ」
「それは……死んでいるのか、それとも生きているのか」
その問いが誰に向けられているのか、私自身にも分からなかった。
「夢も、希望も、意思も、情熱も、規律も」
彼は淡々と続けた。
「そういうものが君には薄い。あるのかどうかも分からないくらいだ」
「そうかもしれない」
私は言った。
「でも、持っていないものを並べても、何かが良くなるわけじゃない。僕らは配られたカードでやっていくしかない」
「では、君のカードは何だ?」
「……分からない。どんな形で、どこにあるのか。そもそも私が何かを持っているのかすら、よく分からない」
「それでどうするつもりだ」
「どうもしないよ」
私は湖に浮かぶ葉を眺めた。彼は少し頷いた。理解したわけではなく、ただ頷く動作がそこにあった。
「……浮かんでいるだけなんだと思う。たまたま他よりもほんの少しだけ軽かったんだ」
私は言った。
「葉っぱと同じだよ。自分で向きを決めた覚えはないのに、気づけばどこかへ運ばれている。止まりたいと思っても、水の上にある限り、完全には止まれない」
「そのまま流され続けるのか? 」
「曖昧なものには重さがない」
私は答えた。
「輪郭がないから、水にもひっかからない。だから流れるんだよ」
湖には光と影が溶けあい、どちらが主なのか分からなかった。それはまるで……。
「ただ……本当にただ浮かんでいる。勝つためでも、どこへ行くためでもなく。どこかに行きたいわけでも、行くべき場所があるわけでもない。ただ水の上に置かれたものとして、流れていく」
彼はしばらく考えてから静かに言った。
「それは、生きていると言えるのか? 」
「たぶん、生きているつもりも死んでいるつもりもないんだ」
私は肩をすくめた。
「葉っぱが浮かぶことに意味がないように、私がどこかへ運ばれていくことにも意味はない。――そのどちらも、私のカードには書かれていないんだ」
彼は何も言わなかった。その沈黙だけが、ゆっくり湖に沈んでいくようだった。
b. 意思
「君には倫理がない。野心がない。そして欲望もない」
「それは悪いことなのか? 」
「湖にぷかぷかと、まるで死んでいるかのようにうつ伏せに浮かんでいる死体みたいだ」
「その”死体”は死んでいるのか……いないのか」
「夢も希望も意思も情動も情熱も未来も常識も規律も規範も宗教も哲学も理性も理論も人間性も歴史も記憶も道徳も信念も物語も衝動も愛も、そして生の痕跡すらない」
彼は淡々と並べ立てた。
「確かにその通りだ。私には過ぎたものばかりだ。しかし、それを言った所でどうにかなるものでもない。"配られたカードで勝負するしかないのさ"。とにかく何とかするしかないんだ。手持ちのカードで」
「では、君は何を持っているというんだ? 」
「それは……」
「何も持ってやしないじゃないか。それでどう戦うっていうんだい? まさか手ぶらで戦うっていうのか? 」
「……そうするしかないようだね。他に選択肢がないのだから」
「なぜ? なぜそんなことをする? 君は空っぽなんだ。頭のてっぺんから足の先っちょまでね。だからそんなことをしても意味ない。意味ないんだよ。何もないんだから。空っぽであるなら何かを生むことなんて出来やしないんだ。どうやってそれをするというんだ? 無から有を生み出せるというのか? 」
「……やってみなくちゃ分からないだろ? 」
「やらなくても分かるさ。やる前から分かりきっている。結末は決められており、皆それに向かって進んでいくだけだ。飢えることもなければ満たされることもない。干からびたゾンビみたいに太陽に向かって呻き声を上げながら這いずり回るだけだ」
「そんなことは分かっているさ。空っぽが何かを生み出すことなど二度とない。分かっている……分かっている……」
「分かってないだろ? 」
「いや、間違いなく分かっている。気が付かなかっただけで、私は最初から知っていたんだ」
「……」
「それとも分かるのか? 私の言いたいことが。多分分からないだろう。残念だが、それも仕方のないことだ。これはもはや意思ですらない。純粋な行為だ。……無駄だと分かっていてもやるんだ。意味がなくてもやるんだ。無駄とか無意味だとかそんなことは関係ない。ただやるんだ。……だからやるんだ。例え四肢がもがれ、翼が折れ曲がり、血反吐を吐きながら地べたを這いずり回ることになろうとも」
「なぜ……そこまでして? 」
「これは持たざる者の特権なんだ。何人たりともこの聖域を犯すことなど出来まい。倫理や規律、理由、そして生がどこにも見出せないからこそやるんだ。何もないからやるんだ。これが私に配られた”カード”なのだから」




